日別アーカイブ: 2020年8月16日

黒幕・政商たち p.226-227 岸本派と馬場派の抗争の激戦期

黒幕・政商たち p.226-227 岸本派。当時の東京高検検事長、岸本義広氏を頂点とする一派だ。塩野季彦司法大臣からつづく、思想検事の流れである。馬場派。小原直司法大臣からつづく、経済検事の系統で、当時の法務事務次官、馬場義続氏を統領としていた。
黒幕・政商たち p.226-227 岸本派。当時の東京高検検事長、岸本義広氏を頂点とする一派だ。塩野季彦司法大臣からつづく、思想検事の流れである。馬場派。小原直司法大臣からつづく、経済検事の系統で、当時の法務事務次官、馬場義続氏を統領としていた。

いずれにせよ、両紙誌の記事の内容は、捜査当局でなければ知り得ないことであるのは事実である。そして、そこに、この二つの記事の「謀略」性が発見されるのである。

検察、とくに地検特捜部に近く、しかも、「財展」誌とアカハタ紙とを、ともに結べる人物というのは、一体誰であろうか。

もちろん池田正之輔代議士の関係個所に家宅捜索が行なわれ、手帖、メモ類の押収書類からこの会食事件が明らかになったというのだから、日通事件の打ち切りまでの時点で、司法記者クラブ加盟紙がスクープしたというのならば、会食事件記事の「謀略性」は薄くなる。

検察内部の深刻な対立

だが、今まで述べたような、いろいろの「人」と「事件」があったのちの、このスクープである。何らかの意図で、何らかの目的のための〝つくられた〟スクープである。

検察官が「公益の代表者」であることは、法律に明示されている。検事総長の言行が、それに相応しくないのならば、それを糾弾する道は、検察官適格審査会令をはじめとして、公正な方法と手段を用うるべきである。もしも、現職検事にして、その意があるならば、退官して戦うべきである。「犯罪捜査権」という、絶大な国家権力を用いて入手した資料をもって、法律に違反して(秘密を守る義務違反)、検事総長の非違を責めんとするのは、私闘であり、私憤である。大前提である「公益の代表者」ではない。〝就任秘話〟をバクロして、〝黒い霧〟ムードをまき散らさんとする。しかも、おのれは〝安全圏〟に身をひそめている——これが、

私憤、私闘でなくてなんであろうか。唾棄すべき卑劣漢である。

検察の派閥の対立について、これを否定する者がいたら、是非会いたいものである。私は、読売社会部記者として、昭和二十三年秋から、当時の法務庁記者クラブに二年間、昭和三十二年夏から一年間を、司法記者会クラブ員としてすごしたので、その実態をマザマザと目撃してきた。

「検察一体の原則」というのがある。検察庁法を読めば判るのであるが、検事は検事総長を頂点として〝一体〟になる、ということである。従って、総長人事ほど、全検事にとって関心のあるものはない。私が二度目にクラブのキャップとして、検察庁にもどってきた当時が、岸本派と馬場派の抗争の激戦期であった。

岸本派。当時の東京高検検事長、岸本義広氏を頂点とする一派だ。塩野季彦司法大臣からつづく、思想検事の流れである。馬場派。小原直司法大臣からつづく、経済検事の系統で、当時の法務事務次官、馬場義続氏を統領としていた。戦前の塩野、小原の対立が、そのまま戦後に引き継がれてきていたのである。

米軍占領時代、岸本派の領袖は、多く特高検事としてパージにかかっていたため馬場—河井ラインが、昭電事件を契機として勢力を植えつけた。当時の堀検事正は好々爺で、馬場次席—河井特捜検事の組み合わせは、現在の武内検事正、河井次席—栗本特捜副部長—大熊検事を想

起させる。

黒幕・政商たち p.228-229 「ニュースソースは検事だ」と

黒幕・政商たち p.228-229 馬場次官は、研修所長官だった河井検事を法務省刑事課長という〝陽のあたる場所〟にもどした。岸本検事長の指揮下にある、東京地検へは入れなかった。
黒幕・政商たち p.228-229 馬場次官は、研修所長官だった河井検事を法務省刑事課長という〝陽のあたる場所〟にもどした。岸本検事長の指揮下にある、東京地検へは入れなかった。

米軍占領時代、岸本派の領袖は、多く特高検事としてパージにかかっていたため馬場—河井ラインが、昭電事件を契機として勢力を植えつけた。当時の堀検事正は好々爺で、馬場次席—河井特捜検事の組み合わせは、現在の武内検事正、河井次席—栗本特捜副部長—大熊検事を想

起させる。

岸本法務事務次官は、河井検事を法務研修所教官へ左遷した。馬場最高検刑事部長は人事権がないから黙ってみていたのである。岸本次官が東京高検検事長に移るや、馬場氏が後を襲って次官となった。昭和三十二年八月、佐藤藤佐総長の停年に際し、岸本次官は総長を期したが、情勢に阻まれて、無色の花井忠総長(東京検事長)が実現した。すでに、検事長や次長検事を経て次官となった岸本氏だから、東京検事長はそれほど栄転ではなかった。当事の政治部記者の〝噂〟では、馬場次官実現に力をいたしたのは、造船疑獄のエニシで佐藤栄作氏だったといわれる。

「お願いです。検察のためです。あなた方の応援なしでは、検察は堕落します。どうか宜しくお願いします」

手を握りしめんばかりに、気魄のこもった低い声が、一人の若い検事の口から洩れた。当事新任キャップとしての、庁内挨拶回りの時の情景である。このS検事は、岸本総長が実現したら、検察は堕落すると、言外に意味していた。彼は馬場派であったのだ。

馬場次官は、研修所長官だった河井検事を法務省刑事課長という〝陽のあたる場所〟にもどした。岸本検事長の指揮下にある、東京地検へは入れなかった。検事長の停年は六十三歳、検事総長は六十五歳、二年の開きがある。花井総長が在職二年で停年が迫るや、それこそ、両派

は再び激突した。三十四年八月のこと、この停年年齢が岸本検事長の総長就任最後の機会を意味する。なぜなら、翌年四月に岸本検事長の停年がくるからだ。

逮捕されたかもしれない河井検事

佐藤総長の後任争いで、若い検事ですらこのように興奮していたのだから、花井総長の後任問題は、さらに凄まじかったであろう。馬場派の奮戦は、ついに岸本氏の二年後輩である清原最高検次長検事の、総長昇格を実現して、〝岸本総長〟を阻止し切った。

総長を阻まれた岸本検事長にやがて絶好のチャンスがめぐってきた。昭和三十二年十月十八日付の読売朝刊が、当時地検が摘発中の売春汚職で「宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士、売春汚職で召喚必至」の、大スクープを放ったからである。その日の午後、両代議士は、読売と地検最高検を名誉棄損で、東京高検に告訴した。「ニュースソースは検事だ」という理由である。

総長会食事件にも似たケースであった。

この記事を取材、執筆したのは、読売の司法記者として高名な立松和博記者であった。彼は、当時病気上がりで、クラブ員ではなかったが、社会部長の直轄で、売春汚職取材を命ぜられていた。彼は、判事の息子で、昭電事件の連続スクープで名を馳せたのであるが、当時の最高検木内次長検事(小原派=馬場派)に、父親の関係から可愛がられていた。彼は当時、馬場次席

の下で事件を担当していた伊尾宏(浦和検事正)、羽中田金一(名古屋検事長)、河井検事らに密着し、雑談での取材打ち明け話では「検事が机上に書類をひろげていて、タバコを探して席を立つ。或いは、便所に行ってくるからといって、書類を伏せて立つと、逮捕状がハミ出ている、といった状態だった」と、私に語っている。

黒幕・政商たち p.230-231 「政治的陰謀」ではないか

黒幕・政商たち p.230-231 岸本検事長直接指揮の、高検検事たちは、馬場派の河井検事を容疑者として、立松、三田両被疑者の調書にその名を記録し、逮捕状を請求して、河井検事を逮捕しようとした。
黒幕・政商たち p.230-231 岸本検事長直接指揮の、高検検事たちは、馬場派の河井検事を容疑者として、立松、三田両被疑者の調書にその名を記録し、逮捕状を請求して、河井検事を逮捕しようとした。

総長会食事件にも似たケースであった。

この記事を取材、執筆したのは、読売の司法記者として高名な立松和博記者であった。彼は、当時病気上がりで、クラブ員ではなかったが、社会部長の直轄で、売春汚職取材を命ぜられていた。彼は、判事の息子で、昭電事件の連続スクープで名を馳せたのであるが、当時の最高検木内次長検事(小原派=馬場派)に、父親の関係から可愛がられていた。彼は当時、馬場次席

の下で事件を担当していた伊尾宏(浦和検事正)、羽中田金一(名古屋検事長)、河井検事らに密着し、雑談での取材打ち明け話では「検事が机上に書類をひろげていて、タバコを探して席を立つ。或いは、便所に行ってくるからといって、書類を伏せて立つと、逮捕状がハミ出ている、といった状態だった」と、私に語っている。

詳しい話は抜きにして、私がつきそって立松記者は、翌日の午後、高検に出頭した。彼を大津検事の調べ室に入れると、私は川口検事に連れられて一室に呼びこまれた。身柄不拘束のまま「被疑者調書」をとるという。調べはニュース・ソースをいえ、であった。

「あんたは、奈良屋旅館で原稿を書いた時一緒にいたという。それじゃ、その前に電話をかけた時も一緒でしょう?」

「ネ、誰です? 明かして下さい。それだけでいいんです。誰検事です?」

言葉は叮嚀ではあったが、川口検事の調べはしつようであった。私は反問した。

「私が、ここで現職検事の名前を、ニュース・ソースとして供述する。調書になる。すると高検はどうします。国家公務員法違反の逮捕状を請求して、その現職検事を逮捕するのですか?」

「ウム。たとえ検事であろうと、そういうことになりますナ」

私は知っていたが、知らないで頑張り通した。読売の方針が、ソースを徹底的に秘匿すると

決まっていたからだ。社の方針には従ったが、私自身の考えは別であった。両代議士が名誉棄損の告訴を起こすほどだから、これは「誤報」であるに違いない。誤報であるならば、その取材経過を公表して、読者に詫びるべきであるし、犠牲となった両代議士の名誉回復を図るべきだ、と考えていた。そして、当時の政治情勢から、藤山愛一郎、安井誠一郎両氏が初出馬する東京二区と七区とから、宇都宮、福田両代議士を落選させる「政治的陰謀」ではないか、と感じていた。

何しろ、娼婦が身体で稼いだ金をピンハネして、売春防止法の成立を阻止しようと、赤線業者がワイロを贈ったという「売春汚職」だから、これに関係した政治家は、〝史上最低の汚職議員〟として、再起できないと見られていた時である。その時〝新聞〟を利用した謀略——考えられることであった。

立松記者もソースの供述を拒否して、逮捕された。〝不当逮捕〟の世論が湧き、拘留請求は却下となり、三日目に釈放された。問題は正力社主の出馬となり、全面取り消しを掲載して両議員に謝罪、告訴は取り下げられて、すべてが片付いた。

その間に私が体験として知ったことは、岸本検事長直接指揮の、高検検事たちは、馬場派の河井検事を容疑者として、立松、三田両被疑者の調書にその名を記録し、逮捕状を請求して、河井検事を逮捕しようとしたことであった。