日別アーカイブ: 2020年10月1日

読売梁山泊の記者たち p.036-037 「なんか書くか、イヤ、書けるか」

読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。
読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

私は、二十二年十月末、将校梯団の第二陣で帰っていたので、第二次争議の真っ最中に中国から復

員した金口とふたり、この名簿に載ることができた。

十八年の名簿を繰ると、一時間も二時間も、時間のたつのを忘れてしまう。それだけ、思い出の多い、新聞記者初年兵であった。そしてまた、二十三年の名簿でも、翌年には、名前が無くなって、消息すら不明の人に、想いをはせてしまう。

やはり、私の五十年に及ぶ文筆生活にとって、読売新聞は、〈母なる故郷〉なのだ。

こうして、私の記者としての再出発が、始まった。感激したのは、読売が七十五円ほどの月給の、三分の一だかを、留守宅の母あてに送金していてくれたことだった。

当時の戦局を想うと、生きて再び、読売に復職できるとは、予想すらできなかった。だから、何着かあった背広も、入隊の前日までに、すべて質屋に入れて、飲んでしまっていたのである。

それを、母が、読売の送金で、請けだしていてくれたのだった。だから、社会部員の多くが、軍服やら、国民服(戦時中の制服みたいなもの)やらの、〝弊衣〟ばかりなのに、私だけは、リュウとした 背広姿だった。

それは、総務課の女の子や、受付係、交換台などの女性たちには、目立つ存在だった、とウヌボレている。もちろん、背広だけではない。帰り新参のクセには、良く原稿を書いていたこともある。

復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

四番次長だった森村正平も、筆頭次長だった竹内と同じく、私を覚えていてくれた。

「なんか書くか、イヤ、書けるか」

筆頭次長になっていた森村は、そういい出して、私のはじめての署名原稿「シベリア印象記」が、二面の社会面の大半を埋めて、記事審査委も、「良く書けてる」と、賞めてくれた事も、社内でカオが広まった原因のひとつであろう。

「ネェ、文化部長の原さんて、素敵ネ」

のちに、婦人部の記者となった井上敏子、同じく、報知文化部の記者になった石上玲子、のふたりの総務課の女性とお茶を飲んでいたとき、石上がいいだした。

「文化部長の原さん?  どんな人?」

「アラ、知らないの。背の高い、洋服のセンスもいいし、いかにも、中年の紳士って感じの人よ」

「アア、あれが文化部長か! フーン…」

私は、そういわれて、はじめて、あの人物が、文化部長だ、と知った。

というのは、原四郎を初めて見た時の、強烈な印象が残っているのだった。いま、銀座の社屋は、読売ビルとして、デパートのプランタンが入っているが、当時は、戦災の焼けビルを修理したぼろビル。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。