ところが、共産党の候補者が全滅し、それに対する論調が賑わっていた十月三日の夕刊に、それがトップで掲載されたのである。「共産党はお断り」という、大きな横見出しが、開票直後だっ
ただけに、凄く刺激的で、効果的だった。
——ウーン。ウマク使いやがるなア!
私は、その夕刊を開いて、社会部と整理部のデスク(編集者)の腕の良さに、しばらくの間は、感嘆のあまりウナったほどだった。
——この記事はモメるゾ!
同時に直感した。私の記者生活の経験から、記事の反響は本能的にカギわけられる。案の定、翌四日になると、K氏から抗議がきたし、村木弁護士からも、「K氏が大学で吊しあげられたので、慌てだしている」と伝えてきた。
その数日後、社の受付から、私に石島弁護士が面会を求めている、と伝えてきた。
——来たナ! しかも、石島か!
私は緊張した。三階に通すように答えると、もう一度取材の経過をそらんじてみたのである。「大丈夫!」自分自身にいい聞かせる言葉だった。「オレは自信のない取材をしたことはないンだ!」
昭和二十三年から四年にかけての、約一年間というものを、私は司法記者クラブですごした。そのため、裁判記事には関心があり、共産党関係の公判廷で、「……自由法曹団の石島弁護人が鋭く検察側に食い下った……」旨の記事をよく読んでいたのだ。石島弁護人というのは、戦闘的な気鋭の弁護士だと承知していた。
第二の裏切り
K被告の記事は、すでにアカハタ紙が、「読売新聞またもウソ、全く記者の作文」と大きく反ばくし、東大学生新聞もまた、「商業紙の正体暴露、驚くべき虚偽の報道」と、全面を費していたのだった。
だから、私としても、弁護士付添の正式の抗議ともなれば、相当の覚悟がいる。しかも石島という名前も、負担だった。社会部長に報告して、私は編集局入口の応接間のドアを開いた。
「アッ! 何だ! 石島というのは……」
「やっぱり、三田って、お前か!」
同時に二人の口をついて出てきた叫びだった。めぐりあい、だったのである。いうなれば、敵味方に分れ、対立した立場で、たがいに男の仕事の場での、めぐりあいだった。
昭和十四年三月、東京府立五中を卒業したわれわれは、新橋の今朝という肉屋の、酒まで並べた別れの会から、十三年半ぶりで再会したのだった。しかも、石島と私とは、小学校、西巣鴨第五尋常小学校(のちの池袋第五小)でも同級で、一、二番を争った仲だったのだ。何という奇遇だったろうか。
二人は思わず握手をしていた。
「石島とは聞いてたが、フル・ネームが出てなかったので、君とは思わなかったよ」