赤い広場ー霞ヶ関 p.070-071 内閣調査室設立と村井・日暮・曾野の三角関係

赤い広場ー霞ヶ関 p.070-071 The Cabinet Research Office and Triangular relationship between Murai, Higurashi, Sono
赤い広場ー霞ヶ関 p.070-071 The Cabinet Research Office and Triangular relationship between Murai, Higurashi, Sono

まずこの内調の基礎的な条件からみてみよう。これは村井氏が企画立案したもので、綜合的

な情報機関として、その設立を各方面に進言し、自らその責任者となって発足した。そして治安情報の一元化を図るというので、治安関係各省から専門家を供出させて、これらの出向者で出来上った寄合世帯であった。

この時、責任者となったのは〝内務官僚のソ連通〟村井氏であったが、〝外務官僚のソ連通〟曾野明氏もまた、次長格で出向する予定だった。しかしオーソリティを以て任ずる曾野氏は、村井氏の下風につくのを嫌って、その部下の日暮信則氏(ラ事件で二十九年八月十四日逮捕され、同月二十八日自殺した)を出向させたといわれる。

日暮氏はソ連畑の生え抜きで、欧米五課(ソ連関係)の前身である調査局第三課時代から当時の曾野課長の部下として、ソ連経済関係の情報収集に当っていた。曾野氏は二十二年四月調査二課長から同三課長に転任、いらい二十六年暮情報文化局第一課長になるまで、日暮氏の直接の上官であったばかりでなく、情報局に移ってからも日暮氏を引立てて、自分の関係雑誌や講演会に出させていた。

日暮氏もまた反共理論家として、曾野氏と共鳴するところが多く、郷里茨城県選出の自由党代議士塚原俊郎氏はじめ、官房長官だった増田甲子七氏ら政府有力者と、曾野氏との橋渡しをしていた。そして曾野氏は内閣調査室を蹴飛ばす一方、いわば商売仇の村井氏が何をするかを探らせるため、腹心の日暮氏を出向させたのだともいわれている。

一方村井氏はまた大いに日暮氏を信頼しており、ソ連月報の編集はもとよりその外遊記録である著書の草稿まで書かせたといわれ、ここに村井氏の腹心(度々腹心という言葉を使うが、日暮氏のソ連通としての能力は第一人者で、ことソ連に関して仕事をしようという役人は、誰でも日暮氏を腹心の部下として、その能力に頼らざるを得なかったのである)としての日暮氏、村井氏と敵対関係のような立場にある曾野氏の腹心としての日暮氏といった、村井―日暮―曾野の奇妙な三角関係が生れたのである。

さて、ヤミドル事件である。村井氏は二十八年八月十日「各国治安および情報機関の現況実情調査のため」という目的で、総理府事務官兼外務事務官という資格で、ラングーン経由、スイス、西独、フランス、イギリス、アメリカ、イタリヤ、スエーデンに行くとして、外交官旅券の申請をしている。

しかし、外部に対しては「MRA大会出席のため」という目的を発表した。その費用については二十八年九月二十三日付時事新報が

内閣調査室の語るところによると「村井氏は私費旅行であり、その旅費は中学同窓の某氏(この人もMRAに参加)の篤志によったものだと聞いている、調査室の公費は全然用いていない」というこ とである。