私は昭和十八年十月の読売入社であったが、戦前の実歴は、わずか一カ月。十名入社したほとんどが、間もなく入隊する。たしか、八名ぐらいが、社会部に配属されたが、慶応大学の「三田新聞」をやっていた青木照夫と、劇団の宣伝部で、新聞作りをしていた私との二人が、即日、働ける新人であった。
徳間康快は、同期でも、ひとり整理部に配属されて、とうとう、兵隊に行かなかった。そして、幸か不幸かの結論はまだだが、戦後の二度の、読売争議に関係して、読売を去ることになる。私も青木も、二度目の争議が終わった時に、シベリアから帰ってきたので、読売を辞めずに済んだのだった。
もしも、兵隊に取られずに、社に残っていたならば、私は、鈴木東民について、郷里の岩手県、釜石か盛岡に落ちていっただろう。
徳間の〝幸運〟は、読売を辞めて、左翼系の「東京民報」に入り、しかも、営業に移ったことにある。彼は、ここで、〝商売人〟としての力をつけた。
新聞社で、エラくなるには、編集ではダメなのだ。販売で、商売を覚えねばならない。原四郎が、出版局長になった時、局内外の不評は、相当にキビシイものだった。「週刊読売」などという、いまだに垢抜けない、赤字雑誌を抱えていながら、販売の会議には出ても、あとの宴会には出ないのだ、という。
販売店のオヤジたちとなんか、酒が呑めるか、という、原四郎のプライドが、欠席の理由だった、とか。それこそ、務臺光雄のバックアップがなかったら、原四郎も、出版局長止まりだったかも知れ
ない。
徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。読売でも、「娯楽よみうり」などという、週刊紙を出したりした時代があったが、この「アサヒ芸能新聞」も、同じようにツブれた。
その時、退職金代わりに、この題号をもらった徳間は、独立して、「週刊アサヒ芸能」という、いまのスタイルの週刊誌にした。新聞スタイルを止めたのだった。そこに、「週刊新潮」の創刊などで、いわゆる〝週刊誌ブーム〟が起きて、アサ芸も軌道に乗った。
さらに、徳間と平和相互銀行を結びつける事件が起きる。平相の小宮山一族に、南方の島に勤務していた、海軍中尉がいた。読売の海軍報道班員だった、社会部の藤尾正行記者は、この男と仲良しになった。
平相の小宮山英蔵は、政治家とのコネを求め、藤尾の第一回の選挙などは、相当な応援をした、という。人によっては、〝平相の丸抱え〟だったともいう。このあたりが、平相と福田派との、付き合いの始まりだ。
だが、当選してしまうと、英蔵の思う通りには動かない。そこで、弟の重四郎を政治家にすることになる。その第一回の選挙は、徹底した金権選挙であった。もちろん落選ではあったが、埼玉県警の違反摘発が進む。
この小宮山重四郎の初出馬の参謀が、徳間だった。平相は、まず、元皇族の竹田恒徳を社長とする、 ペーパーカンパニーを作り、そこの手形を平相が割った形で、重四郎の選挙資金を捻出した。