読売梁山泊の記者たち p.062-063 読売を去った徳間康快

読売梁山泊の記者たち p.062-063 同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。——徳間の奴に、差をつけられたナ。
読売梁山泊の記者たち p.062-063 同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。——徳間の奴に、差をつけられたナ。

〝白亜の恋〟の第一報は、井野のスクープで、私は下働きだったが、この記事から、各社(雑誌も)は、ヒロインの服装について、触れるようになってきた。昭和二十四年十二月のことだ。

翌二十五年春、竹内四郎の社会部長時代は終わる。戦後の混乱期も、ようやく納まりはじめて、朝鮮動乱による、経済復興の時代がくるのである。

それまでの紙面は、労働争議、共産党の騒ぎ。引き揚げでは、人民裁判や暁に祈るといった、同胞相剋の事件がつづいて、暗い、重苦しいものだった。

服装だって、園田直が松谷天光光を口説いたころの国会議員も、戦争の名残りをとどめて園田は、戦車隊の半長靴でドタドタと、天光光は、カスリのモンペ姿であった。

だが、二十五年、原四郎が文化部長から社会部長となり、竹内四郎が、その栄転のために新設された、企画調査局長となると、紙面もガラッと変わった。

「戦後、強くなったものは、靴下と女」という、警句に表現されるように、女性と愛情の問題が、大きな社会現象になってくる。

警察廻りを、短期間で卒業し、司法記者クラブ一年。国会遊軍と、本社遊軍を兼務していた私には、オール・ラウンド・プレイヤーとしての、忙しい毎日がつづいた。

争議に関連して読売を去った徳間康快

昭和二十年八月十五日未明、長春南郊外のタコツボにひそんで、有力なるソ軍戦車集団の来襲を待

ちながら、間違いなく、死に直面していた——天皇陛下万歳とは叫ぶ気がしなかった。愛する女性の名を呼びながら、集束手榴弾で戦車に体当たり…そんなひとの名前は、どう考えても思い浮かばない。

お母さーん!

敗戦の八月十五日昼、私は新京(長春)にいた。正午。錦ケ丘高女の校庭に、中隊は整列した。感度の悪いラジオで、戦争が終わったことを知った。

——また、読売に戻れるんだゾ!

湧き起こる希望に、敗戦の悲壮感は、まったくなかった。激しいスポーツに、ベストをつくして敗れた感じだった。しかし、敗けたということは、つぎに勝つ、という希望につながってくる。

——質屋へ入れてきた背広、流れたかナ?

一週間ぶんの新聞が、まとめて二週間遅れで、北支の駐屯地に配達される。

フト、広げた「華北新聞」の社会面トップに、「東京の地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員(注=徳間書店社長)は、こう報じている」とあるのを見て、同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。

——徳間の奴に、差をつけられたナ。

シベリアに送られる貨車の中でも、私は、「読売新聞シベリア特派員」だと、そう考えていた。丸二年の捕虜から、社へ戻った時、徳間は、第二次争議で退社して、東京民報の営業に移り、さらに、埼玉新聞へと行く。