のちに、岐阜二区から代議士に出てきた、古屋亨が刑事部長。当時、警察と新聞は、土建屋の談合にも似て、ある時は癒着し、ある時は対立した。下山国鉄総裁の死をめぐる、朝日、読売の他殺説と、毎日の自殺説の対立は、東大対慶大の両法医学教室の対立ばかりではなく、警視庁内部の、捜査一課と捜査二課との対立による、新聞社のニュースソースの対立だった、という時代である。
警視庁七社会——警視庁記者クラブの名称である。朝日、毎日、読売、東京、日経、時事新報、共同通信の七社で組織されていたので、そう呼ばれていた。
刑事部長の仕事に、大きな比重を占めていたのは、この七社会の〝操縦〟であった。つまり、七社のキャップと、〝懇談〟と称して仲良くなることであった。クラブ員とキャップとは、鉄の規律で縛られていたから、キャップを握っておくことが、肝要であった。
私は、昭和三十年に警視庁クラブを下番して、通産省の虎ノ門クラブに移る。ここは、経済部が主流で、社会部、地方部、政治部から、記者がきている。ところが、社会部は別格なのである。
東京電力、東京ガス、自転車振興会が、それぞれに、社会部記者と〝懇談〟したがる。東電は停電つづき、ガスは値上げつづき、自転車は競輪をスタートさせよう、というのだから、記者の筆先きで、世論が動くのだ。
東電では、平岩総務課長、那須総務係長が接待の主人公役。ガスでは、安西副社長が出てくれば、神楽坂の「松ヶ枝」で、総務課長あたりでは、小待合を使う、といった工合だった。…私の、貴重な人脈である。
同じように、古屋刑事部長が、銀座七丁目あたりのクラブに、各社のキャップを良く連れていった。兵隊はダメ、キャップだけだ。
その店に、オシゲがいたのである。当時はすでに私とオシゲとは、切れていた。なにしろ、酒乱のオシゲである。読売が、いまのプランタンの位置に、本社を構えていたころ、深夜の編集局に、酔ったオシゲが現れて「三田はどうしたッ」と、わめくのだから、切れないほうがオカシイ。そして、私が警視庁クラブに移ったので、オシゲの編集局急襲も途絶えていた。
新入店のオシゲの前に、警視庁のキャップ連中が現われたのだから、彼女にとっては、干天の慈雨というべきだろうか。正面玄関にはふたりの警官が立っているにもかわらず、オシゲの〝七社会急襲〟が始まった。
こうして、中年の社会部記者と、ソプラノ歌手志願の若いホステスとの、〝色恋〟がスタートした。蛇足ながら、私の信条は「覆水盆にかえらず」なのだから、これは、Pキャップのことである。
ほとんど、同棲同様だったのではあるまいか。Pは、目立ってやつれてきて、やがて別れがきたようだ。伝聞の形をとったのは、私が、事実を確かめてはいないからだ。
しかし、Pは、この〝色恋〟を、仕事には影響させてはいなかった。このあたりが、読売社会部の〝誇るべき伝統〟なのか。もちろん、部下である私に、オシゲの〝前夫〟としての、態度の変化もなかった。