読売梁山泊の記者たち p.092-093 次席次長は長谷川実雄

読売梁山泊の記者たち p.092-093 古い戦前からの社会部記者は、テキヤやバクトに近い存在として、さげすまれていたものだった。そんな時代でも、高木健夫、森村正平、長谷川といった、〝知性派〟もいたのだ。
読売梁山泊の記者たち p.092-093 古い戦前からの社会部記者は、テキヤやバクトに近い存在として、さげすまれていたものだった。そんな時代でも、高木健夫、森村正平、長谷川といった、〝知性派〟もいたのだ。

向島のカラ出張がバレてから、一カ月ぐらい過ぎたころだったろうか。

「三田クン、伝票切って、すぐ福島へ行ってくれ。あの件だ」

「…でも、ナカさん。私は、出張禁止中の身ですから…」

「バカヤロー! ハラチンはナ、『箱根から西へ出張させるナ』という、命令だ。福島は箱根から、コッチだぞ!」

ナカさんは、ニヤリと笑う。既成事実で、出張禁止を解除してやろう、という、親心なのであった。剛腹の下に文弱なし、だった。

次席次長は、長谷川実雄。ついこの間まで巨人軍代表だったので、最後まで、マスコミに登場していた人だ。私が、シベリアから生還して、読売に復職した当時は、労働省詰めで労働班長だった。

古い、戦前からの社会部記者というのは、どちらかといえば、テキヤやバクトに近い存在として、さげすまれていたものだった。

そんな時代でも、高木健夫、森村正平(竹内部長の筆頭次長。のち報知編集局長で没)長谷川といった、〝知性派〟もいたのだ。私が、安藤組事件で読売を退社する決心を、最初に相談に行ったのも、婦人部長になって、すでに社会部を離れていた、長谷川の家であった。

だから、百人近い社会部員は、筆頭次長の羽中田の人徳によって、原への不平不満を解消させられ、実務家の次席・長谷川の指導下に、いわゆる〈社会部帝国主義〉に、団結させられていた、というべきだろう。

そして、原・社会部は、戦前型の社会部記者を淘汰しつつ、「社会部の読売」時代を築き上げていった。そこには、原の透徹した時代感覚が、〝社会部は事件〟から脱皮し、政治、経済、国際、文化、科学と、全天候型・社会部記者の育成へと、眼を注がせていたのであった。

いまでは、もう、すっかり〝いいお爺ちゃん〟になって、静かに、余生を愉しんでおられるので、仮名でP氏としておこう。

このP、私の警視庁クラブ時代のキャップで、若いころは、私など、足許にも寄れないスクープ記者であった。彼もまた、原四郎のもとで、花開いた男のひとりであろう。

「東京祖界」以前に、読売社会部は、新宿粛正キャンペーンをやり、「第一回菊池寛賞」受賞の理由も、「暗黒面摘発活動」とされているので、このPがキャップとして働いた、新宿摘発以来の実績が、認められた、というべきであろう。

このPの〝過去〟も、なかなかのものであった。銀座のクラブホステス〝 オシゲ〟との、色恋沙汰は、読売の警視庁キャップとしては、目を覆わしめるものがあった。

国立音大の学生であったオシゲは、クラブホステスのアルバイトをしていた。私の兵隊の同期生で、東京銀行に勤務していた小倉正平(故人)という男がいた。オシゲは、この小倉にホレていたらしい。しかし、銀行員である。

どこで、どうした機会があったのか、いまは、もう忘れてしまったが、小倉と呑みに行った時、私が、世田谷区の梅ケ丘に住んでおり、彼女が、ほど近い代田二丁目に下宿していたので、銀行員に見切りをつけ、新聞記者に、乗り換えたのであった。

昭和二十年代の後半。前半の帝銀事件、三鷹事件、下山事件、寿産院事件などのあとだから、警視庁の主流は、コロシ、タタキである。それのボスが刑事部長だ。