昭和三十三年七月、私が横井事件に関係して引責退社することになったとき、私は務台に挨拶にいった。当時の小島編集局長(故人)という、私の上司は、「キミ、キミ。金はとってないだろうネ。金を!」という、大変失敬な返辞しかできない男だったが、務台専務は違っていた。
「ウム。事情はきいたよ、ナーニ、新聞記者としては、額にうけた向う傷サ。サッパリ片付けたら、また社にもどって働いてくれ給え。元気でナ」
警視庁へ出頭する前のこの言葉は、どんなにか私を感激させてしまったことだろうか。務台の人間的な魅力、人使いのうまさは、ここにあるようだ。そして、これらの言葉は、決してその場限りのものではなく、退社後も何回か、人づてに「務台さんが、三田はどうしたかナ、と心配されてたよ」と、激励の言葉をきかされているのだった。
報知と報知印刷とに赴いた、菅尾と岡本も、多分、務台の懇請に応じて、いわば死地に出陣したものであろう。ここで想起されるのが、昭和四十年春のいわゆる「務台事件」である。
その年の春闘で、読売労組は「七千五百円アップ」の賃上げを要求して、スト権確立の全員投票までを決定した。闘争気運が次第に盛り上ってきた三月十七日、代表取締役専務の務台は、「所感」をもって代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまった。
その詳細は、さきに述べた通りであるが、この「務台事件」の結果、〝正力の読売〟とは、その
前置詞として〝務台あっての〟正力の読売であることが、明らかにされた。
正力と務台との出合いは、今から四十年も前の昭和四年、当時全盛の報知新聞の市内課長であった務台を、販売部長として読売に迎えたのにはじまる。こうして、務台は正力の女房役として、販売一本槍で四十年を共に歩んできた。今日の読売の大をなした正力も、確かに、務台あったればこそのことであった。
務台は、明治二十九年六月六日生まれ。早大政経科を大正七年に出て、新聞界に入った。
思えば、わずか四年前のあの務台事件当時の危機を脱し、隆々たる今日の実力を回復したのは、果して何であろうか。
「朝日」取材の時に、朝日大阪編集局長の泰はいった。「宅配制度の崩壊は、時の流れでもあろう。読売の強力な追いあげに、朝日も懸命である。そして、三紙てい立の維持に必死の毎日——販売費はいよいよ高騰し、小刻み値上げが断続し、各社ともに戦力を使い果したとき、ようやく共販・共同集金などの合理化が検討されよう。その時、どの新聞が生き残っているかが問題である」と。
販売費の高騰——ということは、各社が血みどろの販売合戦に、どれだけ経費を注ぎこめるか、という、〝金融能力〟にかかってきている。
朝日は、大阪、名古屋などの新社屋建設のために借入金が増大し、毎日は、もはや担保に入れるべき自社社屋を失って、パレスサイド・ビルの借家人である。その時、読売が借金のできる体
制であることは、大変な強味であろう。