正力松太郎の死の後にくるもの p.198-199 〝非現代的〟な人間模様の闘い

正力松太郎の死の後にくるもの p.198-199 新聞という企業は、不思議な近代企業である。新聞のすみずみにまで、あらゆる〝現代科学の粋〟がとり入れられていながら、それを造る人々の中には〝非現代的〟なあらゆるものが巣喰っているのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.198-199 新聞という企業は、不思議な近代企業である。新聞のすみずみにまで、あらゆる〝現代科学の粋〟がとり入れられていながら、それを造る人々の中には〝非現代的〟なあらゆるものが巣喰っているのである。

朝日は、大阪、名古屋などの新社屋建設のために借入金が増大し、毎日は、もはや担保に入れるべき自社社屋を失って、パレスサイド・ビルの借家人である。その時、読売が借金のできる体

制であることは、大変な強味であろう。

さて、一応の結論へと進まねばならない。ポスト・ショーリキとは、事実上はポスト・ムタイであるということである。正力は〝郷土の後進〟に選挙区をゆずるよりは、やはり、小林に渡したい気持ちは十分なのであろうが、今、読売が、正力、務台とたてつづけに失ったならば、一体どうなるであろうか。

原四郎編集局長は、務台に極めて近い、とされている。事実、務台——原ラインが、今の読売新聞をガッチリとおさえて、朝日打倒の陣を進めているのであろう。しかし、ポスト・ムタイである。小林を今読売から抜いたのでは、その時が心配なのであろう。

報知の〝正常化〟は、務台がのりだしたからには一安心。亨にはテレビ塔に専念させれば、レールは自分がひいておくから、これまた安心。他の細かいものは、武にみさせる。こんな〝跡目〟青写真が、正力の脳裏に描かれていたのであろう。私はそう考える。

問題は、日本テレビである。

正力亡きあとに、〝正力コンツェルン〟から、脱落し、あるいは離反するものは、日本テレビに違いない。

新聞という企業は、不思議な近代企業である。新聞のすみずみにまで、あらゆる〝現代科学の粋〟がとり入れられ、織りこまれていながら、それを造る人々の中には〝非現代的〟なあらゆる

ものが巣喰っているのである。

毎日のある記者がいう。「朝日には〝大朝日意識〟がある。読売は〝読売精神〟というでしょう。だが、毎日には何もない」と。

この言葉と、日テレ局員のいう「日テレには〝伝説〟がない」という言葉とを考え合わせるとき「新聞」という奇妙な近代企業の、不可思議な体質が暗示されるのである。現実に朝日新聞百年の王座を支えてきたものは、〝大朝日意識〟であったし、読売五十年の躍進を可能ならしめたものは、〝読売精神〟でもあった。そして、毎日が東京日々新聞以来の有楽町の古いビルをすてて、〝伝説〟を断絶させた時からの斜陽ぶりが、それを事実として示しているのだ。

朝日と読売という、超巨大紙の角逐は、実にこの〝非現代的〟な人間模様の闘い、とでもいい得よう。

〝伝説〟と〝神話〟との闘い——果して、六百万の大台に早くのるのは、朝日であろうか、読売であろうか。