正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 正力が高文合格者いずれも内務官僚

正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。
正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。

小林副社長〝モウベン〟中

正力松太郎の政界引退声明にこめられた〝声なき声〟を承けて、その女婿の小林与三次は、今や真剣に「読売新聞」に取組んで、猛ベン中である。

というのは他でもない。ここ数カ月来、小林は編集各部の中堅デスク・クラスと、〝勉強会〟を継続的にもっているからである。

小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。正力が明治四十四年採用の高文合格者であり、長く僚友として読売をもりたてた品川主計が、同四十五年の一期後輩。また、副社長を勤めた高橋雄豺は大正四年の、田中耕太郎や唐沢俊樹(故人)らの同期生である。そして、娘のムコとした小林が、昭和十一年採用という、いずれも内務官僚である。小林の同期といえば、元警視総監の原文兵衛、陸幕長の山田正雄らがいる。そして、小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。

読売に入社した小林は、衆議院議員正力松太郎の後継者と目されていた。というのは、業務に務台光雄、編集に原四郎という〝大黒柱〟があって、小林の〝戦闘正面〟に特記すべきものがな

かったからである。いわば予備隊的存在に近かったからである。

それこそ、務台は〝業務と販売の神様〟であり、原は法政を出て国民新聞に入り、昭和十一年読売に移籍。社会部長在任七年にもおよんだ、というベテランとあってみれば、小林が代議士の跡目とみられたのは、その官僚経歴からしても当然であろう。

だが、事態は変った。

前に述べたように、正力の政界引退声明には、読売だけ削除はしたものの、「郷土には人材も多く、後進に道をゆずることが、最善だと考えている」旨の正力談話があり、小林を指名していないのである。

そして、小林の〝勉強会〟の講師は、決して部長や古参次長ではなくて、もう一クラス下の、いうなれば四、五年先の部長候補クラスなのである。これは、何を物語るのであろうか。

小林は、読売の副社長である。彼に編集各部の仕事の内容や実情について、御進講申しあげるべき人物は、部長でなければ、筆頭次長(注。新聞は朝夕刊あるので、勤務が交代制になるため次長が三~七名ほどいる)クラスであるのが、自然というべきである。

現況把握のための〝勉強会〟であるなら、部長がデスクやキャップから話をきくように、副社長は、部長クラスか、編集総務(注。編集局長の補佐役として、同様に数人いる)あたりにレクチュアさせるべきだろう。それなのに、小林は、もっと若手を講師に起用して、二次会へと流れても、

器用にその連中の気持ちをつかんでいるようである。つまり、小林は編集の現場とのコミュニケーションをもとうとしていると、解されるのである。