第一、私には、前にものべたように、教育と名誉と地位と将来とがあるのである。黙っていて社からもらうサラリーが約四万二千円。それに取材費として、私は月最低一万二千円、多い時には三万円を社に請求した。その上自家用車ともいえる社の自動車がある。そればかりではない。数字を明らかにしたくないが、私が月々得る雑誌原稿料は相当なものであった。
この私が、どうして、十万やそこらのメクサレ金で、刑事訴追を受けるような危険を冒すであろうか。もしも、誰かが一千万円も出すといって頼みにくれば、しばらくは考えこむだろうが、百万円もらってもイヤである。私の将来がなくなるからである。私の二人の可愛い子供たちが、学校へ行けなくなるし、三田姓を名乗る一族のすべてが、肩身せまくなるからである。
私の意志は、小笠原のこの突然の、虫の良すぎる申出の前で、全く自由であった。彼の意志に反して、彼の眼前で警視庁へ電話して突き出すことにも、恐怖なぞ感じなかった。私は取材で、記事で、もっと恐いことを味わっている。
私は決断を迫られた。私の無言に、小笠原は誠心誠意、人間の信義をかけて、再び頼みこんできた。私は彼の眼をジッとみつめて、しばらく考えこんだ。ホンの数分である。イヤ数十秒かも知れない。——私は決心した。「よろしい。やってみましょう。ただ、北海道といえば、頼める人はただ一人、旭川にいた私の昔の大隊長だけです。その人がウンといったら、紹介してあげます。もし、ダメだといったら、あきらめて自首なさい」
私はこの瞬間に、大勝負へ踏み切ったのであった。新聞記者として一世一代の大仕事である。
まさにノルカソルカであった。戦争と捕虜とで〝人を信ずる〟という教訓を得た私は、小笠原を信じたのである。
人は笑うかも知れない。「何だ、タカがグレン隊の若僧に…」「信ずべからざるものを信ず るなンて…」と。そして、実際このような言葉を聞いた。
(写真キャプション)内幕モノを書いた(右)身が、告白モノも書く(左)
雄壮なる構想を描いて
だが私にも、決断するだけの根拠があった。まず第一に、絶対に一点の私心さえない純粋な新聞記者としての取材であったことである。これこそ、俯仰天地に恥じない私の気持である。だからこそ、二十五日の拘禁生活も、よく眠りよく食い、調べ室では与太話で心の底から笑って、かえって、肥って帰ったほどである。
私の計画の根拠は、花田の出現であった。彼
がフクに連れられて「奈良」に現れたことは、当然、連絡であった。フクは王の家の時にもいたのだから、日共用語でいえば、テク(防衛)とレポ(連絡)である。