正力松太郎の死の後にくるもの p.058-059 十年後の「新聞」を暗示

正力松太郎の死の後にくるもの p.058-059 『イヤ、社会部は事件だという、オレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』 私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが、『古い』ンだって?
正力松太郎の死の後にくるもの p.058-059 『イヤ、社会部は事件だという、オレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』 私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが、『古い』ンだって?

前述したような小島の〝安全運転〟ぶりや、部長やデスクの〝事件記事圧殺〟によって、当時の読売社会部は、最近の大学のように荒廃してきた。私は、心中ひそかに決意しはじめていた。何かの事件を機会に、「社会部は事件」という実物教育をやってやろう、ということである。い

うなれば、社会部記者としてのクーデターである。

小島局長、金久保部長、そして社会部デスクたちへの〝反逆〟である。その当時の雰囲気を私が読売を退社した直後に、文芸春秋昭和三十三年十月号に書いた、「事件記者と犯罪の間。—我が名は悪徳記者—」から引用しよう。

「私がもし、サラリーマン記者だったなら、もちろん、〝日本一の社会部記者〟などという、大望など抱かなかったから、こんな目にも会わなかったろう。(注。私は昭和三十三年六月十一日、銀座のビルで発生した、渋谷の安藤組による、横井社長殺人未遂事件にからんで、指名手配=あとで 誤認と判明=犯人の一人をかくまったカドで、犯人隠避容疑に問われた)もし、それで逮捕されたとしても、起訴はされなかったろう。

七月の四日すぎ(昭和三十三年)、多分、七日の月曜日であったろうか。警視庁キャップの萩原君が、ブラリと最高裁のクラブにやってきた。二人で日比谷公園にまで、お茶をのみに出かけた。

『オイ、岸首相が総監を呼びつけた(注。横井事件の早期解決指示のため)という大ニュースが、どうしてウチには入らなかったのだい。まさか、政治部まかせじゃあるまい』

と、私はきいた。

『ウン、原稿は出したのだが、それが削られているんだ。実際、ニュース・センスを疑うな。削った奴の……』

彼は渋い顔をして答えた。

『どうして、ウチは事件の記事がのらねェンだろう。全く、立松事件の影響は凄いよ』

『イヤ、社会部は事件だという、オレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』

『エ? じゃ、社会部は、婦人部や文化部や、科学部の出店でいいというのか?』

私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが、『古い』ンだって?」

私はガク然とした——という記憶を、今だに持っている。萩原のこの言葉は、いみじくも十年後の「新聞」を暗示していたのであった。そして、それから旬日余りのちに、私のクーデターは失敗して、「横井事件の五人の指名手配犯人の生け捕り」計画は、ウラ目に出る。

七月二十一日の月曜日朝、部長と同道して、警視庁に新井刑事部長(前警視庁長官)を訪ねた私は、犯人隠避の事情を説明して引責退社の手続きの猶予を乞うた。翌二十二日午前中に、依願退社が決定され、私は正午に警視庁の表玄関の石段を上っていった。二十日の日曜日、別の事件のため出社した私は、旭川支局からの原稿「横井事件特捜本部は旭川に指名手配犯人の立廻り方

を手配してきた。立廻り先は……」を読んで、我が事敗れたりと知ったのであった。