正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 根ッからの新聞人〝新聞屋〟の姿

正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。

さきに、原の「記者としての体質」はどうなったか、という疑問の提起をしておいた。実はそ

こに〝一犬実に吠えて、万犬虚を伝う〟と、評した所以があるのであって、新聞の体質が変ったにもかかわらず、記者としての体質は、古き良き時代そのままに変っていない、と私は考えている。原ばかりではない。

〝販売と業務の神様〟務台もまた、古き良き時代の〝神サマ〟であり、その〝神格〟はさらに上昇して、今や、〝務台教〟の御本尊として本堂の奥深く鎮座ましまして、販売の現況を知らないとまで、販売店主に指弾されているのである。これは、読売の一販売店主からの切々の訴えで、私もまた、はじめて知らされたことであった。

現場から〝遊離〟したといわれる、務台—原ラインによって、なおかつ、読売は着々と部数を伸ばし、〝日本一の発行部数の新聞〟という、正力社主の悲願へのコースを突っ走っている——この矛盾を何と説明できようか。

七十三歳の〝ブンヤ副社長〟

私はまず、務台代表を訪ねた。この小柄で柔和な、七十三歳の老副社長も、談「新聞論」に及

ぶと、一変して闘志みなぎる〝青年〟と化した。忙しく応接とデスクを往来しては、資料を示していう。

「確かに、もはや私は販売店を〝歩いて〟いないから、〝現場〟を知らないかも知れない。しかし、〝販売〟の何たるかは、今でも知っている」

若い。決然たる言葉であった。私は、次の言葉を待った——務台副社長の、激しく力強い言葉に、私は一瞬、我れと我が耳を疑ったのであった。

卒直にいって、私が読売記者であったころの務台専務と、「新聞論」やら、「販売政策論」などを、話題とすることは絶無であったし、面談の機会があったとしても、それは、本社モノ取材の指示か儀礼的会話にすぎなかったのである。今、こうして、「新聞論」を話題として会見してみると、その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。

そこにあるのは、根ッからの新聞人、いうなれば〝新聞屋〟の姿であった。

「六百万の大台? 馬鹿も休み休みいいなさい。読売だって、朝日だって、それどころではない。読売にとっては、打倒朝日の、朝日を追い越すという、ただそれだけの、大きな目標ですよ。朝日だって、死にもの狂いで、読売を寄せつけまいとする。両者共に、苦闘死闘の真最中だ。……六百万の大台競争などとは、まだ、遠い話だ」