正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 「朝日文化人」(酒井寅吉)の推せん文

正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。

昭和三十五年以降の銀行資料によると、朝日の株主持株比率は、村山、上野両家で六割を占め、その間、全く変動がないのである。ところが、読売では、大株主の正力厚生会や、正力松太郎個人の、持株比率が毎年のように動いているのである。これは、読売社内に反正力派がいないことを物語る。正力一族の経営参加で、如何様にも持株を操作できるのだ。朝日では、「反村山派」

がいるので、そのようなサジ加減ができない。だから、村山家四名、上野家二名の持株は、微動だにしない。

こうして、全社員九千四百三十三名(昭和四十二年十一月名簿)に及ぶ、大集団の人間関係は、極めて複雑なものとなってくるのである。何故、複雑怪奇になってくるかといえば、東京閥、大阪閥(これは毎日とて同じである。西から東にきた新聞の持つ宿命である。発祥の地と、政治経済の中心との対立である)、それに加えて、硬派新聞(政経中心)の、硬派、軟派閥の対立があり、さらに加えて、反村山派という〝民族問題〟があるのだった。

単一民族の単一国家である日本には、米国のような民族問題の悩みがない。読売がそれである。正力一本である。毎日は、東西の対立こそあれ、朝日のように、反村山という、根源的な対立拮抗の要因がないので、権力の推移が明快単純で、暗さがない。

かつて、読売が立正佼成会に対して、糾弾のキャンペーンを、展開したことがあった。昭和三十一年のことである。このキャンペーンは、見るべき成果をあげることなく、長沼妙佼教祖の過去が、宿場町の娼婦であったということで、お茶を濁して転進せざるを得なかったのである。

この時の教訓は、宗教団体というのは、外部からの圧力には、内部問題はタナあげにして団結し、徹底して組織自体を守るということであった。歴史にまつまでもなく、宗教団体は、内部崩壊以外では倒れない。つまり、読売のキャンペーンが、偶発的にスタートしたもので、十分な内

偵と準備とをしていなかったから、内部に腐敗がありながら、いわば佼成会に〝団結の勝利〟を謳わせる結果となったのであった。

朝日の強さもここにある。長い社の歴史の間に培われた、「大朝日」意識は、もはや信仰に近い形で、全朝日新聞社員の中に、根を下ろし切っているのである。伝統である。

それだから、いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「朝日文化人」(酒井寅吉)という本の推せん文を書くに当って、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。

一体、この信仰に近い形にまで高められ、定着した「大朝日」意識とは何であろうか。やはり、昨日、今日の成り上りとは違った、伝統と実績の然らしむるところであろう。細川隆元(注。大正十二年入社、政治部長、ニューヨーク支局長を経て、終戦時の東京編集局長、昭和二十二年、編集局参与で立候補のため退社。現社友)によれば、大正十二年四月入社組が、日本の新聞の最初の試験入社組で、約二百五十人の受験者から十五人が採用されたという。そして、こののち試験入社組は、「練習生」と呼ばれて、朝日の人脈の中心となるのだ。「月給は普通採用の者より十円も多く(注。七十五円)、社内でもあまりコキ使ってはならぬといわれている。君たちが朝日の幹部になるんだからネといわれた」という。(「朝日新聞外史」)