一部の読者は、「六人の刑事」キャンペーンを目し、朝日新聞の反権力闘争の一環として理解
しているようである。つまり、「警察不信」を宣伝する紙面が、意識的に(シロをクロとまではいわないにしても、訂正も取り消しもしない点)作られていることから、編集幹部の指揮のもとに、一定の方針にもとづいている〝反権力、反体制〟紙面だとうけとられているのである。
だが、私の見解は違う。「声」欄の高松喜八郎が、美術記者出身で、学芸部二十年。次長十年、部長三年の経歴をもっていて、なおもあのような〝無責任、的はずれ〟の弁解を活字にする人物である。伊藤牧夫は昭和二十四年入社、「八宝亭殺人事件」をはじめ、売春汚職などで活躍した、経歴十分の社会部記者で、その人柄からいっても、反体制紙面作りを意識できる男ではない。
元朝日社会部記者の佐藤信が、単純明快にこう〝解説〟する。
「伊藤は、例の九十六時間ストで、スト破りをやった男だ。それで、会社側、広岡社長の線に認められた。ところが、田代編集局長は広岡系列ではなく、田代局長は社会部長に、自分の子分の京都の岩井弘安支局長をもってこようとしている。伊藤社会部長としては直接上司の編集局長によって、部長の地位をおびやかされているワケだ。そのため、伊藤は何かヒットを打たねばと焦る。そのあげくにでてきたのが、ロケット、軍研究費、六人の刑事など、一連のゴリ押しキャンペーンである。もともと、それだけの器量のない人物が、部長の職につくのは、局長以上にとって敵にならないから安心なのだ。要するに、読者が理解できないというのは、人事派閥の暗闘という、新聞の次元でないところから生れた、キャンペーン記事だからサ」
佐藤の〝解説〟が正鵠を得ているかどうかは別として、伊藤牧夫は〝責任〟をとるどころか、西部とはいえ「局次長」に栄転していった。
司法記者の聖域〝特捜部〟
「何か書かねば——。何かやらねば——」といった、〝追いつめられた記者心理〟の好適例は、さる昭和二十五年九月二十七日の、「伊藤律架空会見記」という大虚報である。朝日の神戸支局員が、マ元帥政令による日共九幹部の追放で地下潜行中の伊藤律と、宝塚山中で会見したという、特ダネをモノした。ところが、その記事をよく読んでみるといろいろ疑点がでてきたわけだ。こうして、三日後には「ねつ造記事と判明、全文取消し陳謝」という社告となる。さすがにこの時は、編集局長にいたるまで、責任を問われたのであったが、原因は、海運記者から警察に配置換えになって抜かれっぱなし、何かヒットをということであったし、「職業と〝朝日〟の重みに押しつぶされたんだ」(当時大阪学芸部記者の作家・藤井重夫=週刊文春40・10・18)といわれる。
このような実例をもち出すまでもないが、社会部記者として十五年の経歴をもつ私にしてみて
も、佐藤の〝解説〟が、一番うなずけるのである。それ以外、どんな〝説〟も、やはり納得ができない。「六人の刑事」キャンペーンは、前述の〝佐藤解説〟で、それではじめて理解される。