このような実例をもち出すまでもないが、社会部記者として十五年の経歴をもつ私にしてみて
も、佐藤の〝解説〟が、一番うなずけるのである。それ以外、どんな〝説〟も、やはり納得ができない。「六人の刑事」キャンペーンは、前述の〝佐藤解説〟で、それではじめて理解される。
ここでまた、私は考える。朝日記者の反権力、反体制意識は、ホンモノだろうか、と。
昨四十三年秋、井本総長会食事件というのが起った。小さな経済誌とアカハタ紙との同時発表のスクープである。その件についての、井本検事総長の記者会見が行なわれ、一般紙は九月三日付朝刊から報道しはじめた。この時の三紙の報道ぶりをみると、朝、読が地検特捜部べったりの大扱いだったが、毎日だけは、そのスクープのされ方に疑問を感じたらしく、第二トップという地味な扱い方をして、記事中にも「検事総長、池田代議士らをはじめ、関係者が語る〝事実〟は——」と事実に〝 〟をつけている。
司法記者クラブ。検察庁担当のこの記者クラブは、警視庁クラブと並んで、事件担当の社会部の重要クラブである。他の記者クラブ(警視庁クラブも含めて)が、その担当官庁に対して、反権力的な自由な批判が可能なのに比べて、司法クラブだけは、東京地検べったりにならざるを得ない。地検には特捜部があるからである。
東京地検特捜部のあり方について、外部では極めて批判が多い。記者たちにも、その感があるであろう。しかし、ここでは地検特捜部を批判することはできない。事件がはじまった時、その記者と所属社は、特捜部で何も取材できなくなってしまうからである。
スポークスマンである次席検事の発表だけでは、大事件の時に紙面は埋らない。どうしても検事の自宅訪問をやらねば、ネタは拾えないのである。そして、検事たちは、国家公務員法第百条、秘密を守る義務に違反して、記者たちに捜査の進行を教える。これは、厳密な意味で違反であるが、国民の「知る権利」の代理行使である「公正なる報道」によって、黙認される慣行となっている。
だから、司法記者たちは、どうしても、検察権力に密着せざるを得ない。朝日とて同様である。朝日社会部記者で、同クラブに所属している野村二郎が、「財界」誌(43・5・15)に、特別読物「東京地検特捜部」を書いている。クラブ記者だから、検察権力に密着せざるを得ない実情はわかるのだが、彼のこの一文は、彼が本質的に権力側についていると判断されるのだ。いくつかの名文句を拾ってみようか。練習生ではないがキャップだ。
「検察えりぬきの三十二人の検事たち。平均年齢三十七、八歳。その頭脳と熱情は日本の正義を守る最後のトリデ、とも評されようか——」「起訴金額全部がワイロと認定されたことは、捜査技術の向上と高く評価されている」「いずれも力倆、識見ともにすぐれたひとかどの人物」「すばやい頭脳の回転、適格な判断力(傍点筆者)、論理的思考力、細心かつ大胆——である。鼻すじの通った整った顔つきで、ちょっとした二枚目。長身のタイプは外国商社マンといった感じだ」「こうした措置は疑点はあくまで糾明し、中途半端な妥協を排し、真実を徹底的に追及する特捜
部の厳しい態度のひとつ」
ゴマ油つきのラーメンの袋をみると、〝ゴマスリ〟の語源が書かれている。潤滑油をつくることから、ゴマスリが必要であったらしいが、その限りでは、このイヤらしい美文は、傲岸な検事たちをよろこばせ、その目的を達するであろう。