正力松太郎の死の後にくるもの p.256-257 今や〝商魂〟の朝日新聞

正力松太郎の死の後にくるもの p.256-257 これらの人びとが、朝日記者のすべてではない。だが、どこに〝戦う左翼偏向記者〟の姿があるだろうか。あるものといえば、「それがウケるから」という、単純な商売の原則による、新聞づくりの姿ではないか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.256-257 これらの人びとが、朝日記者のすべてではない。だが、どこに〝戦う左翼偏向記者〟の姿があるだろうか。あるものといえば、「それがウケるから」という、単純な商売の原則による、新聞づくりの姿ではないか。

「検察えりぬきの三十二人の検事たち。平均年齢三十七、八歳。その頭脳と熱情は日本の正義を守る最後のトリデ、とも評されようか——」「起訴金額全部がワイロと認定されたことは、捜査技術の向上と高く評価されている」「いずれも力倆、識見ともにすぐれたひとかどの人物」「すばやい頭脳の回転、適格な判断力(傍点筆者)、論理的思考力、細心かつ大胆——である。鼻すじの通った整った顔つきで、ちょっとした二枚目。長身のタイプは外国商社マンといった感じだ」「こうした措置は疑点はあくまで糾明し、中途半端な妥協を排し、真実を徹底的に追及する特捜

部の厳しい態度のひとつ」

ゴマ油つきのラーメンの袋をみると、〝ゴマスリ〟の語源が書かれている。潤滑油をつくることから、ゴマスリが必要であったらしいが、その限りでは、このイヤらしい美文は、傲岸な検事たちをよろこばせ、その目的を達するであろう。

しかし、「捜査はあらゆる面の完ぺきさをもってしめくくるという。このため、特捜部の取扱った事件の首脳会議がもめることは、ほとんどないという」(数カ月後の日通事件・池田代議士のケースで、そのほとんどないことが起った)「しかし、解説と証拠は別の性質のものといえよう」ときて、最後に井本総長の訓辞でしめくくられる、——これは、新聞記者、ことに司法記者の文章ではない。

批判が全く失われているものに、やはり社会部の央(なかば)忠邦の「創価学会激動の七年」(財界誌に連載後、有紀書房より発行)がある。これも、引用するまでもなく、学会という〝権力〟べったりの叙述である。慶大卒、NHKから朝日に転じてきた記者である。

ついでながら、もう一つ加えれば、扇谷正造の停年退職にさいして、後輩に与うるの書の中にも(文春本誌43・5)「私は朝日新聞に編集局練習生として入ってきた」(傍点筆者)の一行がある。

今、朝日新聞を作っている人々、そしてこれから、朝日を荷なう人たちの、ある側面をとりあげてみた。もちろん、ここに述べたことが、名前をあげた人たちのすべてではなく、これらの人

びとが、朝日記者のすべてではない。だが、どこに〝戦う左翼偏向記者〟の姿があるだろうか。

あるものといえば、「それがウケるから、ウケて売れるから」という、単純な商売の原則による、新聞づくりの姿ではないか。

クオリティ・ペーパーといい、オピニオン・リーダーを自任した、かつての村山竜平の〝芸術〟は、どこに消え失せたのであろう。

竜平亡きあと、士魂商才はいつの間にか、〝商魂士才〟となり、さらに〝士才〟が失われて、今や〝商魂〟の朝日新聞がある。

米上院での〝朝・毎アカ証言〟によると、朝日新聞は共産主義者の巣窟であるかの如く思われる。そして、その紙面は左翼偏向であると、一部の人々に信じこまれている。

ある公安関係当局の調査によれば、朝日の共産党員は十四名である。私が、その名簿で当ってみると、工場と編集に大別して、半々で、しかも、編集関係の職場でいえば、新聞制作に直接タッチしない部(注。朝日のケースとしてではなく、記事審査=自社の記事を他社のそれと比較して、批評する係、調査など)に所属しているのだ。

ということは、朝日の紙面制作には、すくなくとも、政府機関である公安当局の調査による共産党員はいない、ということである。すると、いうところの、朝日の左翼偏向紙面、反米的紙面というのは、一体どういうことなのであろうか。