正力松太郎の死の後にくるもの p.260-261 才能にプラスする資金(取材費)

正力松太郎の死の後にくるもの p.260-261 つまり、最近の企画は、才能プラス資金という、絶対条件を前提としている。例えば、「昭和史の天皇」。金に糸目をつけず、日本国中に記者を派して、埋れた〝目撃者〟を発掘してきているから、そのスケールの面白さが先立つのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.260-261 つまり、最近の企画は、才能プラス資金という、絶対条件を前提としている。例えば、「昭和史の天皇」。金に糸目をつけず、日本国中に記者を派して、埋れた〝目撃者〟を発掘してきているから、そのスケールの面白さが先立つのである。

朝日の露骨な〝左翼偏向〟紙面とは、時流にコビた商業主義であることをみ抜けば、それなりの〝攻撃・糾弾〟の途があったのに、ユーモアのない老人が真顔でイキリ立つものだから、まと

もな「朝日批判」が消されてしまうのであった。朝日の紙面に眉をひそめる知識人たちも、声を大にすれば、渡辺・野依輩の亜流にランクされることを恐れた。だから、沈黙のまま購読を中止する程度の〝批判〟しかできなくなってしまうのである。

読売の「東風西風」欄で桶谷繁雄が「反・体制屋」について、「ところが、日本は逆で、そういうのが、カッコイイことになる——。」と、書いている。それは前述したが、渡辺、野依御両所には、この〝カッコよさ〟が理解できないのである。事実、朝日は反体制、反権力という、カッコイイセールス・ポイントを、ポーズとしてもっている。

「昭和三十年、戦後期に入った日本人に、科学とフロンティア魂をふるいおこさせようと、二億円近い社費を使わせて、宗谷をプリンス・ハラルド海岸に送ったものの、接岸点発見と、昭和基地ができるまでの四週間、眠れぬ夜をすごしたこと——」

二十七年間勤めて、ヒラ企画部員(ただし部長待遇)のまま定年退職した、社会部出身の矢田喜美雄記者の、挨拶状の一節である。

さて、この挨拶状の中の問題点は、「……二億円近い社費を使わせて……」にある。もちろん、矢田個人が使ったわけではない。この企画にそれだけの経費を注ぎこんだということである。昭和三十年、十四年前の二億円である。さすがに、朝日ならではの〝壮挙〟ではある。

だが、このことは、一体、何を意味しているのだろうか。新聞を批判するときに、十分に考え

てみる値打ちのあることではないか。

朝日の紙面企画を想い出してみよう。かつて、昭和二十年代に、「人物天気図」などの好読物の続きものがヒットしたのだが、最近では、本多・藤木コンビの「エスキモー」であり、「ニューギニア」「ベトナム」である。(葉)署名の「人物天気図」は、あくまで、個人プレイである。(葉)の才能を、朝日が引き出して〝利用〟したのである。(葉)の才能は、必ずしも、朝日の紙面であることを必要とはしない。ところが、本多・藤木の才能は、やはり朝日であることを必要とするのである。

例えば、このコンビがサンケイの記者であったならば、あの面白いルポは生れない。少くとも、「エスキモー」は書かれなかったであろう。「人物天気図」は活字になったとしても……。

つまり、最近の企画は、才能プラス資金という、絶対条件を前提としている。例えば、読売が連載中に菊池寛賞をうけた、「昭和史の天皇」の筆者、辻本芳雄前社会部長が好適例である。

この、読売の誇る〝続きもの〟デスクの過去はどうだろうか。「東京租界」「朝眼がさめたらこうなっていた」「日本のムコ殿」など、多くの優れた〝続きもの〟を生んでいるのだが、必ずしもヒットしなかった。(葉)と同じである。彼の才能にプラスする資金(取材費)が、少なかったからである。ところが、「昭和史の天皇」になると、六、七名のスタッフを組んで、それこそ金に糸目をつけず、日本国中に記者を派して、埋れた〝目撃者〟を発掘してきているから、その

スケールの面白さが先立つのである。