正力松太郎の死の後にくるもの p.262-263 偏向紙面をつくれば朝日は伸びてゆく

正力松太郎の死の後にくるもの p.262-263 何が左翼偏向、何が進歩的であろうか——この巨大化した、資本主義の権化のような「朝日新聞経営体」。口先民主主義者たちの〝欲求不満〟を、美事に組織したのが、いわゆる〝左翼偏向〟紙面の朝日新聞なのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.262-263 何が左翼偏向、何が進歩的であろうか——この巨大化した、資本主義の権化のような「朝日新聞経営体」。口先民主主義者たちの〝欲求不満〟を、美事に組織したのが、いわゆる〝左翼偏向〟紙面の朝日新聞なのである。

この、読売の誇る〝続きもの〟デスクの過去はどうだろうか。「東京租界」「朝眼がさめたらこうなっていた」「日本のムコ殿」など、多くの優れた〝続きもの〟を生んでいるのだが、必ずしもヒットしなかった。(葉)と同じである。彼の才能にプラスする資金(取材費)が、少なかったからである。ところが、「昭和史の天皇」になると、六、七名のスタッフを組んで、それこそ金に糸目をつけず、日本国中に記者を派して、埋れた〝目撃者〟を発掘してきているから、その

スケールの面白さが先立つのである。

エスキモーも、ニューギニアも同様であることは確かである。そして、その取材費のかけ方は、「昭和史の天皇」をしのぐものであることも確かであろう。このことは、新聞の資本主義的集中化が、いよいよ進み、われわれの既成概念からする「新聞」とは、全く別個の、全く異質の、新しいマスコミ産業である「新聞」が、生れ出ようとしていることを物語っている。

つまり、金がなければ、何もできないのである。金があれば、他社のやれないことがやれるのである。他社のやれないことがやれるから、売れるのであり、売れるから金が動かせるのである。その極端な例が朝日新聞の現実である。

この時、何が左翼偏向であろうか、何が進歩的であろうか——朝日の紙面について、云々する時に、この巨大化した、資本主義の権化のような、「朝日新聞経営体」を見逃してはいけない。

新宿の街角を肩で組み、腰を抱き、頬を寄せあって歩くアベックの顔をみてみたまえ、服装のセンスをみてみたまえ。これすべて、醜男と醜女のカッペである。——本当の美男美女は、もっと、その美しさに誇りをもっている。

グループ・サウンズなる連中の顔を、芸能週刊誌のカラー・グラビヤでみつめてみたまえ。あの異様な長髪は、これすべて、下品で野卑な顔だちのカモフラージュである。あのような、異様な風体をしなければ、正視にたえない顔である。G・Sでも、カワイコちゃんたちは、まともな

髪形をしているではないか。

梶山季之、北原武夫、川上宗薫らの猥雑で下劣で、春本そのものの〝小説〟を読み耽っているのは、中年男を中心とした、若い娘たちに存在を無視される男たちである。——プレイ・ボーイやドン・ファンたちは、あんなものを読むよりも、実践活動に忙しい。

ストリップやヌード・スタジオ、果ては、トルコ風呂の客たちは学校の先生、役人、銀行員といった、カタイ職業の連中が多いのはもはや定説である。

ことほどさように、今日ほど〝慢性欲求不満〟が、世をおおうている時代はあるまい。この時、朝日の幹部たちは、それらの風潮をみてとって、あの〝紙面〟を、意識的に作り出しているのである。

マイ・ホームとレジャーとギャンブルとによって、腑抜けの呆助となり果て、自らはゲバ棒一本握る行動力ももてない、口先民主主義者たちの〝欲求不満〟を、美事に組織したのが、いわゆる〝左翼偏向〟紙面の朝日新聞なのである。

自らは、血の一滴も流さずに、「ベトナムに平和を!」と叫ぶ〝職業的〟平和運動者たちと、全く軌を一にして、「嫉視、反発、陰謀、抗争、謀略、憎み合い」(細川隆元)の渦巻く中で、挑発的偏向紙面をつくれば、ベトナムに平和を! と唱和する〝愚民〟たちが、ふえてゆくのと同様に、朝日の発行部数は伸びてゆくのである。