正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 記事紙面は広告紙面の〝刺し身のツマ〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 かつて、読売の小島文夫編集局長が「記事がよいからとっている、はわずか五%」と、迷言を吐いた。当時は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 かつて、読売の小島文夫編集局長が「記事がよいからとっている、はわずか五%」と、迷言を吐いた。当時は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であった。

従って、記事紙面は広告紙面の〝刺し身のツマ〟なのであるから(刺し身のツマは、決して主役ではないが、旨いものもあって、やはり、なくてはならないものである)、ラジオ、テレビ番組における、番組自体とCMの関係とは、逆の立場になる。

するとやはり、「送り手」としては記者、編集者は、電波の編成局員よりも、小さな領域しか占めることはできない。何しろ、各種の調査でも「受け手」である大衆の、テレビに与える時間と、新聞に与える時間とは、大きく開いていることは、疑う余地がない。

そこで、新聞は、「受け手」である読者を、一定期間にわたって〝確保〟する、必要に迫られてくるのである。確保しておかねば、発行部数の巨大化が維持できないからだ。そのためには、「宅配制度」がどうしても必要なのである。

電波の受け手である大衆は、番組によって自由にチャンネルをまわす。瞬間、瞬間によって、番組の選択権を「受け手」が持っているのである。

ところが、新聞については、受け手の読者には、その選択権がないのである。あったとしても、極めて緩慢な、月単位のそれであって、それも決して自由ではない。なぜかならば、従来とっていた新聞をやめて、他の新聞に切りかえるためには、販売拡張員や配達員との間の、うるさい〝人間的関係〟が発生するからである。この心理的束縛感は、テレビのチューナーを廻すほど、自由ではない。

受け手に選択権が握られているか、いないか、ということは、同時に、送り手には、それぞれに緊張と怠惰とをもたらす。電波の送り手は、毎時毎分に、批判にさらされているのだが、新聞の送り手は、緩慢な批判にしかあわない。そこに、記者、編集者が、送り手としては、販売、広告などの営業担当者より、低い地位にあることの理由がある。

かつて、読売の小島文夫編集局長(故人)が、組合との団交の席上、「会社の調査では、読売の読者のうち、『社主の魅力』でとっているのが四〇%、『巨人軍』でとっているのが二〇%で、『記事がよいからとっている』というのは、わずか五%ぐらいだ」と、迷言を吐いて問題となったことを前に述べた。

当時(昭和四十年六月)は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたものだったが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であったわけである。

それを実証しているのが、朝日の紙面と発行部数の増加との関係である。あれほどに、デタラメな紙面を作っていながら、当面の責任者は、何らお構いなしで、しかも、部数は増加しているのである。

ということは、読売のみならず、朝日の場合でも、〝記事がよいからとっている〟のは五%以下なのであろうか。かくの如く、読者の自由な選択権を封殺する、「宅配制度」に守られて、巨大化を続けてゆく「新聞」であってみれば、〝紙面〟はその存在価値にほとんど影響を与えてお

らず、それこそ、販売関係者の心意気を示す〝古語〟であった、「朝日新聞と題号さえついていれば、白い紙でも売ってみせます」という言葉が、全く別の語意で生きていることを、思い知らされるのである。「破廉恥」が「ハレンチ」となって生きてくる時代であるからこそに……。