投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.288-289 コマーシャリズム第一主義を容認

正力松太郎の死の後にくるもの p.288-289 「売れていることは確かです」この問答の部分では、私は「読者にコビた編集方針をとっているのではないか」と、〝コビ〟るという言葉を使って質問したのだが、渡辺は気がついたのか、つかなかったのか
正力松太郎の死の後にくるもの p.288-289 「売れていることは確かです」この問答の部分では、私は「読者にコビた編集方針をとっているのではないか」と、〝コビ〟るという言葉を使って質問したのだが、渡辺は気がついたのか、つかなかったのか

〝創刊の趣旨はあんなものではなかった〟という趣旨の発言は、渡辺も現在のジャーナルの編集のあり方に、肯定的ではないということである。「もともとは、たとえ儲からなくても、ヒドイ赤字にさえならなければ、新聞社の出す週刊誌らしい、程度の高い理論誌をというネライだっ

たのだが、当事者にしてみれば、返本率だの、採算点だのが示されている以上、〝売れる雑誌〟にしたいと意気込むのは当然でしょう」

小和田は「コマーシャリズム上からも商売にプラスしてきた朝日ジャーナル」と、コマーシャリズムを〝からも〟と二次的な評価をしているのだが、事実は〝売れること〟が、社内的な実情から第一義とされていることが明らかである。

振り子はもどる朝日ジャーナル

「……そのため、読者層をハッキリ学生という若い年齢層に限定してしまって、現在のジャーナルの形ができあがってしまった。そのため、売れていることは確かです」

この問答の部分では、私は「読者にコビた編集方針をとっているのではないか」と、〝コビ〟るという言葉を使って質問したのだが、渡辺は気がついたのか、つかなかったのか、その言葉にはあえてこだわらず、肯定的であった。

「……しかし、四十三年の後半あたりから、ジャーナルの編集のあり方について、社内からの批

判もあって、だんだん変ってきているハズです」

小和田の見通しは我田引水であった。「いままでは、〝進歩的朝日のショーウインドー〟として黙認され」ていたわけではない。赤字でなければよいというのに、読者にコビて売りまくっていたのであって、〝ショーウインドー〟でもなければ〝黙認〟されていたわけでもない。しかも、編集方針は〝六九年中には方向転換〟どころか、昨年中に〝偏向是正〟へと動きだしていたのである。

「週刊朝日もツライ立場ですな。扇谷時代とまでいわれた、百万部もの独走ぶりからくらべると、雑誌社系の週刊誌などのハサミ打ちにあって、昔日のおもかげはないですよ。だから、何とか窮境を打開しようという当事者のあせりが、御指摘のようなことになるのでしょうな」

私は、週刊朝日が松本清張をハノイに〝本誌特派〟という肩書きを銘打って送りこみながら、その原稿を他紙誌と同時掲載するという醜態を演じたことを、芸能誌や女性誌の〝独占スクープ〟という名の共通ダネになぞらえて笑ったのである。つまり〝本誌特派〟という肩書きの〝売り方〟を問題にしたのであるが、渡辺は、「新聞と違って、出版局の雑誌には、過去のデータからくる〝返本率〟という目安がつきまとう。だからどうしても、担当者は〝売る〟〝部数を伸ばす〟ことが、第一になってしまう」と、その、コマーシャリズム第一主義を容認せざるを得ない、といった口吻であった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.290-291 社内での〝立身出世〟の道

正力松太郎の死の後にくるもの p.290-291 では、偏向朝日新聞から、一体、誰が辞めていったか? 敗戦の日、戦争協力の紙面を恥 じて〝大朝日〟を辞めた一先輩が、一人いるだけである。新聞界最右翼の朝日の高給を、おのれの信念のために投げうった記者の、誰がいるのだろうか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.290-291 では、偏向朝日新聞から、一体、誰が辞めていったか? 敗戦の日、戦争協力の紙面を恥 じて〝大朝日〟を辞めた一先輩が、一人いるだけである。新聞界最右翼の朝日の高給を、おのれの信念のために投げうった記者の、誰がいるのだろうか。

さて、これらの問答を通して考えてみるとき、果して「朝日は左翼偏向」であろうか。

答えは、否である。渡辺は「日本の新聞の発生からの体質として『反政府』的、野党精神の伝統があるのだから、それからいっても朝日が特に〝左翼偏向〟しているとは認められない」という。事実である。部外者がそれぞれに、自分の利害の立場から、片々たる現象を利用して、〝左翼偏向〟ときめつけ、〝進歩的朝日〟と称賛するにすぎないのである。

それらの〝利用される〟現象は、すべて、社内事情から表面化してくるものにすぎないのである。出版局のコマーシャリズム、編集局のハネあがり——すべてこれ、社内での〝立身出世〟の道なのである。

もし、本当に〝朝日がアカい〟のであれば、日共秘密党員が指導しているのであれば、共同通信から多くの人材が他社へ流出したように、朝日をあきたらなく思う人物は退社してゆくハズである。では、偏向朝日新聞から、一体、誰が辞めていったか? 敗戦の日、戦争協力の紙面を恥 じて〝大朝日〟を辞め、小新聞〝たいまつ〟を出した一先輩が、一人いるだけである。新聞界最右翼の朝日の高給を、おのれの信念のために投げうった記者の、誰がいるのだろうか。

卒直に、〝経営者〟としての信念を語る渡辺の実力は、笠信太郎でさえ認めざるを得なくて、笠も渡辺を登用したという。その笠でさえ、小和田には「六〇年安保以後の新聞、放送のたどった反動化の指針を示した」と、きめつけられ(前出「潮」別冊冬季号)、旧部下の佐藤信にも、

「常務の職と給与を前にして岩波進歩派グループからぬけた〝安全な思想家〟」と皮肉られるほど(同著「朝日新聞の内幕」)なのである。

朝日が左翼偏向しており、秘密共産党員が紙面をリードしている——これが〝神話〟でなくてなんであろうか。

大体からして、小和田次郎なる〝匿名〟の現役記者は、組織の中で、編集しかみていないのだから、「デスク日記」は書けるかもしれないが、新聞および新聞社というものを、マクロに眺めるには、ヨシのずいから天井をのぞいているようなものである。

六百万部の朝日を実現せんとする、隆々たる社運だから、「このため、広告界との力関係でも、金融資本や政府権力との力関係でも、相対的ながらもっとも独自性を保持しやすい条件におかれている、ということができる」と、単純な考え方をする。

過去五年間(自三十八年度、至四十二年度)の経営数字の一覧表(S銀行調査部調べ)によると、朝日の銀行借入れ金は、部数の伸びに比例して漸増の傾向を見せていることがわかる。

「大阪本社の新築経費の分で、長期借入れ金が増えているのは事実。短期資金がふえるのは、社業がのびているから、これも当然。一番苦しかったのは、広岡専務時代になった昭和四十年ごろ。二本のケイ光燈を一本消し、トイレット・ペーパーさえ節約した時代があった」と渡辺はいう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.292-293 資本主義下の〝マス〟コミュニケーション産業の特質

正力松太郎の死の後にくるもの p.292-293 小和田の見解の皮相さは明らかである。〝隆々たる社運〟になればなるほど、運転資金の需要は増大し、借入金への依存度が強まるのである。「金融資本や政府権力に対する独自性」は、いよいよ崩れてゆく
正力松太郎の死の後にくるもの p.292-293 小和田の見解の皮相さは明らかである。〝隆々たる社運〟になればなるほど、運転資金の需要は増大し、借入金への依存度が強まるのである。「金融資本や政府権力に対する独自性」は、いよいよ崩れてゆく

この五年間の借入金は、三十七億、三十九億、六十五億、六十五億、八十七億と倍増し、これを長期、短期に分類すれば、昭和38年度の各二十二億程度が、五年後には、短期三十六億、長期九十六億とハネ上っている。長期資金は大阪新築のせいで、この三年間、五十八億、七十六億、九十六億という巨額である。そして、部数の伸びを示すものは販売(購読料)収入の百分比が、三十六~七%台だった三年間ののち、42年度で四十三%になり、五十%近い広告収入が四十六・七%という、五年ぶりの低率になっている。

小和田の見解の皮相さは明らかである。五百数十万という部数を維持し、さらに六百万の大台に向って、〝隆々たる社運〟になればなるほど、運転資金の需要は増大し、借入金への依存度が強まるのである。仕事をバリバリやればやるほど、銀行が大切になるのである。「金融資本や政府権力に対する独自性」は、いよいよ崩れてゆくのが、資本主義下の〝マス〟コミュニケーション産業の特質ではないか。

〝広告界との力関係〟もなおさらである。新聞はオリンピックに際しての過剰な設備投資と、それにつづく不況のため、大手広告主の出稿手控えに苦しんだ経験をもっている。

「読売のような、案内広告が充実しているのが、新聞としての大きな強味です。ナショナル・スポンサーという、全国相手の大広告主は、好況の時は金高を問わず出稿して、不況時にはバッタリというのが、新聞にとっては一番困るのです。そんな大手広告主は、当然のように、紙面への

口出しもするのです。

アメリカあたりでは、広告の出稿と掲載という、〝純〟経済行為と、紙面の記事とは無関係という、合理性につらぬかれているので問題はないようですが、日本の感覚的商習慣は、大きな広告を出しているのだから、記事で攻撃するなんて……、オチョウチンをもってもらいたい位だ、などという考え方をする。そこで、大広告主の記事介入といったような問題がでてくる。

ところが、案内広告のような小さな広告主は、それが団結して編集権に干渉するなんて考えられない。だから、小さなスポンサーを沢山もつというのが、編集、経営両面からみても一番得策なのです。

その上、一月八日付朝刊の各紙(読、毎、サンケイ、日経)にのった、『東大卒業生有志の会=代表安川第五郎』の『東大の学生諸君、大学を救うため全員が立ちあがろう』という意見広告の問題がある」

小和田の、部数が多いから広告面は売手市場だ、といったような単純なものではない。渡辺取締役は、この東大OBの会幹事との個人的なつながりから、この問題にタッチした真相を語る。週刊文春(二月三日号)の同記事に登場する〝重役〟とは渡辺のことである。

「朝日としては、あの意見広告を断わったりしたことから、いよいよ〝左翼偏向〟の証左の一つにされたりしてますが、そうではなくて、意見広告掲載の基準について、もう少し時間をかけ

て、統一見解をもとうとしていることなのです」

正力松太郎の死の後にくるもの p.294-295 右翼や商売人と同じ手合い

正力松太郎の死の後にくるもの p.294-295 小和田のいうような、「相対的主体性が、体制的本質の陰に喪失してゆく方向は、必至であろう」という、愚にもつかない、きまりきった判断を、類型的な漢字の羅列文で、もっともらしく表現するなど、笑止にたえない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.294-295 小和田のいうような、「相対的主体性が、体制的本質の陰に喪失してゆく方向は、必至であろう」という、愚にもつかない、きまりきった判断を、類型的な漢字の羅列文で、もっともらしく表現するなど、笑止にたえない。

「朝日としては、あの意見広告を断わったりしたことから、いよいよ〝左翼偏向〟の証左の一つにされたりしてますが、そうではなくて、意見広告掲載の基準について、もう少し時間をかけ

て、統一見解をもとうとしていることなのです」

意見広告が出せるとなれば、金のある奴は誰でも申しこんでくる。売名、政治と思想、宗教、何でも彼でも断われなくなってくる。金のある政党といえば、まず、公明党と共産党が全頁の意見広告を申しこんできたらどうしよう。それより、東大OBの会のよびかけに対抗して、全学連がきたら、これまた断わりきれまい——といったような、社内での意見が対立したらしい。文春誌は〝朝日の良識〟と皮肉ったが、事務ベースの問題であったというものである。

このようなことでさえ、〝左翼偏向〟の証左としてもち出されるということは、渡辺のいうように、〝意識的につくられ、意識的に流されている〟ことを、裏付けるものであろう。第一、最近、問題となりはじめている、朝日、読売、毎日三社の共同通信復帰でさえも、「これは、朝日と共同のアカが、合法的に手を握り合うための陰謀で、共同通信の〝偏向記事〟が、朝日の巨大な発行部数の紙面に、共同のクレジット付きで印刷される危険が増大している。共同の偏向記事は、今でこそ、一部地方紙にしか印刷されないのだが、これは大問題である」と、憂えている老新聞人もいる。

この稿の冒頭でのべた、村山社主夫人をして、「朝日のアカを退治してやる」とゴマ化して、〝黒い霧〟スターたちの不動産屋に引きずりこんだ〝他称・右翼の巨頭〟などをはじめとして、「朝日はアカい。だから七〇年安保は大変だ」と、危機感をあおって、自分の〝商売〟にしたり

する連中と、そのシリ馬にのった〝憂える〟部類の、ハヤリならカゼでも引きたいという愚民どもが「朝日はアカいという神話」を信奉しているのだ。

ましてや、小和田のいうような、「TBS、共同の〝転向〟が進展するなかで、朝日の孤立化は深められ、その相対的主体性が、商業マスコミ本来の、体制的本質の陰に喪失してゆく方向は、必至であろう」という、愚にもつかない、きまりきった判断を、類型的な漢字の羅列文で、もっともらしく表現するなど、笑止にたえない。

〝主体性が体制的本質の陰に喪失する〟などと、判りにくいことをいわなくても、新聞や放送が巨大化するということは資本主義体制が進むことであり、資本が安全であるためには、反体制を打ち出せないという、中学生にも納得できる論理であり、それが必至であろうなどと、もったいぶった御託宣など無意味である。これもまた、右翼や商売人と同じ手合いである。

私は問うた。「宅配制度は崩壊すると思うのだが、御意見は?」と。

渡辺は、さり気なくこの質問をかわして、宅配制度の見通しについての、ハッキリした意見はのべなかった。そして、いかに宅配制度を守るために、必死の努力をしているかという答をもって、これにあてた。つまるところ、大阪編集局長秦正流が「崩壊は時の流れでもあろう」と、直截に語ったのにくらべるならば、渡辺の発言はより重大な影響があるので、言葉を濁したのであろう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.296-297 宅配制度の見通しに対しての渡辺の発言

正力松太郎の死の後にくるもの p.296-297 渡辺とのインタビュー二時間半をふり返ってみると、将来における見通しについては、極めて慎重。もちろん、「経営、業績ともに好調」と断言する渡辺が、今、〝宅配は崩れる〟とはいえない立場であることは、明らかである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.296-297 渡辺とのインタビュー二時間半をふり返ってみると、将来における見通しについては、極めて慎重。もちろん、「経営、業績ともに好調」と断言する渡辺が、今、〝宅配は崩れる〟とはいえない立場であることは、明らかである。

渡辺とのインタビュー二時間半をふり返ってみると、過去の事実については、彼は極めて歯切れのよい発言をして、是は是、非は非としての、明快な結論を出すのだが、将来における見通しについては、極めて慎重であって、発言の影響やら、将来の、より重要な責任者としての〝食言〟を避ける配慮が、あのさわやかな弁説の流れの中で、よどみなく配られていたようである。

もちろん、広岡社長の下で、総合企画室長として、五カ年計画の立案者であり、「社主問題はもちろん、経営、業績ともに、広岡社長時代に入って、極めて好調である」と断言する渡辺が、今、〝宅配は崩れる〟とはいえない立場であることは、明らかである。

「さきごろの値上げ分八十円は、間違いなく全額を、宅配確保のための経費にまわした。これをどう使うかに、販売店ごとの実情に即して、店主に一任されている」「昔は、記者の待遇が一番よかったのだが、戦後は労働組合に、記者も工員も包含されて、同一賃金ベースになった。それが、今度は、宅配確保のために、販売店とその従業員までも、組合員に近い形で包含させられることを迫られつつある」「事実、退職金もなければ、昇給、栄進のない仕事では、労務管理上、極めてやりにくい。そこに人手確保の条件が、地域や時期(学校の試験、休暇)などで、それぞれ違うことが、さらに困難を加えている」「共販の問題はまだむずかしい。拡張の面からいうと、〝あの子が配達しているから〟といったように、配達員、集金員と読者との、人間的つながりが、部数確保、拡張などの面で、やはり無視できない要素である」

宅配制度の見通しに対しての、渡辺の発言は、大体、要旨このようなものであった。見通しについて、直接は答えていないけれど、これらの言葉の中には、私がいままで提起してきた、多くの問題について、はなはだ示唆的な回答が含まれている。

例えば、新聞経営は、部数の頭打ち(世帯数増加程度の伸びはある)で、読者の争奪戦となっている。これは、放送が二十四時間という、全時間を売り終った時と同じような状態で、利潤をあげるためには、値上げと合理化促進以外の途がなくなることを意味する。

従って、小刻み値上げはひん度を増すであろうし、合理化が徹底しなくてはならない。速報性を失った新聞にとっては、〝号外〟を刷るために整備された自営印刷工場も、今や負担になってきて、カラー印刷などの〝紙面効果〟以外に効用価値がなくなり、できれば、離して、外注にしたいあたりが本音であろう。

それなのに、労働組合があるため、工場部門を切りすてられないでいる。そこに切捨てに逆行して、販売店やその従業員までも、下手をすると、傘下に抱えこまねばならないとも限らない。東京都新聞販売同業組合PR版「読者と新聞」二月号は、今東光大僧正の談話として、「新聞社の準社員として社会的地位の向上はかれ」と早くも謳いだしている。これは新聞企業の自殺を意味することで、とうてい無理な注文であり、だから、「宅配は崩壊する」のである。

八十円の値上げ分が、社に入らなかったことは確かであろう。しかし、それが販売店主に渡さ

れるということは、地域差のため一律化がむずかしい(本社員に加え、組合員とすれば、従業員の待遇の一律化も可能である)とはいっても、タクシー値上げと同様に、会社が肥るだけで、運転手は依然としてカミカゼ、乗車拒否というのと同じである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.298-299 あの檄文を「声」欄に安川第五郎名儀で

正力松太郎の死の後にくるもの p.298-299 すると、安川老は一カツしたそうである。「新聞の投書欄に引きずりこもうというのか!」と。ニセ投書やらで〝声〟価をとみに落した〝声〟欄である。投書するのは常連で、それこそ〝車夫馬丁の集り〟ぐらいにしか、安川老には考えられないのだろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.298-299 すると、安川老は一カツしたそうである。「新聞の投書欄に引きずりこもうというのか!」と。ニセ投書やらで〝声〟価をとみに落した〝声〟欄である。投書するのは常連で、それこそ〝車夫馬丁の集り〟ぐらいにしか、安川老には考えられないのだろう。

八十円の値上げ分が、社に入らなかったことは確かであろう。しかし、それが販売店主に渡さ

れるということは、地域差のため一律化がむずかしい(本社員に加え、組合員とすれば、従業員の待遇の一律化も可能である)とはいっても、タクシー値上げと同様に、会社が肥るだけで、運転手は依然としてカミカゼ、乗車拒否というのと同じである。

そして、「宅配確保のため」という理由で、ともかくも、四十三年の値上げが読者に押しつけられたのであったが、ふたたび、四十四年度の値上げ九十円が、さまざまな理由で押しつけられた。トップを切った毎日が十月十五日、読売十九日、朝日二十二日、サンケイ、日経二十五日といった順である。国鉄の新聞運賃値上げが第一の理由で、菅野経企長官の撤回要求無視の上だ。

「レンタル・システムのファクシミリが各家庭に備えつけられて、家庭では、必要とする種類の通信をとって、その料金を支払うことになろう。そんな時、全面広告が送られてきたりして、その料金を請求されてモメたりするかもしれない。それでも、外国の学者や新聞人たちには、今の形の新聞は滅亡しないという意見が強い。その時代への準備は怠っていない」

簡単にハショッたが、渡辺の〝未来新聞学〟は、さながらSF小説のように面白かった感じが残っている。やはり、なかなかの人物のようである。

私は反問した。「部数が不安定では、経営が不安定だというのは新聞経営者としての一方的な考え方であって、そこでは〝読者不在〟ではないでしょうか」と。

事実、これからの「マスコミとしての新聞」においては、いよいよ読者不在の傾向が強くなっ

てゆくのである。それが、朝日、読売の二巨大紙の〝超巨大化〟を推進して、いわゆる言論機関としての機能が退化し、意見広告などの、広告面を中心とした〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。

意見広告を朝日に拒否された東大OBの会では、渡辺重役のあっせんで、あの檄文をそのまま、投書欄の「声」欄に安川第五郎名儀で掲載しようと申込まれた。すると、安川老は一カツしたそうである。「新聞の投書欄に引きずりこもうというのか!」と。竹山道雄の「ビルマの竪琴」論争やら、ニセ投書やらで〝声〟価をとみに落した〝声〟欄である。いくら、オピニオンのページと銘打っても、投書するのは常連が多い(太田秘書室長の話)ので、一部の特殊な人物に利用されているのだから、それこそ、〝車夫馬丁の集り〟ぐらいにしか、安川老には考えられないのだろう。

意見広告のすう勢に、同時に、言論機関としての、ミニコミ、小新聞、ガリ版新聞の隆盛を促してくるのだ。ここに、ハッキリと大新聞と小新聞の機能別併存が約束されよう。

「社主問題は、極めてよい状態へと向かっており、解決の曙光が見えてきている。それは、村山社主側が常に側近にまどわされて、朝日新聞にとって、悪い方の途をえらびつづけられたから、社内に支持者を失ったことと、広岡社長の下で、社運が隆盛へと進んでいること。さらに重大なことは、社主の次女富美子さん御夫妻が、解決への努力をつくされていること、などが理由です」

正力松太郎の死の後にくるもの p.300-301 〝凋落の毎日〟と極めつけるだけではなく

正力松太郎の死の後にくるもの p.300-301 毎日の歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実。
正力松太郎の死の後にくるもの p.300-301 毎日の歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実。

最後に、前項でのべたABCレポートによる、読売との全部数差四十万が、追い抜かれはしないだろうか、という質問をした。

渡辺は、この時はじめて、静かな闘志を瞳に輝かせて、答えたのである。

「部数競争が、新聞のすべてではない。しかし、部数がトップであるということは、大切なことだ。社員の士気からいっても、朝日はこの競争にも勝ち抜く!」

銀行借入金、ついに百億突破

毎日新聞についても、〝凋落の毎日〟と極めつけるだけではなく、一通りの解析を加えてみよう。

毎日は、大阪、東京、西部、中部の四本社制をとっているが、登記面では、大阪本店、東京、西部(北九州市)両本社が支店、名古屋の中部本社が別会社である。この歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実が、毎日新聞の分析の上で、大きなポイントにならざるを得ない。事業の主体が東京にありなが

ら、本田元社長の大阪編集主幹、上田前社長の大阪営業系出身とあっては、人事の主流は大阪系である。

本田〝天皇〟時代の様子については、すでに述べた通りであるが、その〝退位〟を迫ったのは、現会長の田中香苗ら東京系幹部による、一種のクーデターであった。そして、そのクーデターは、内外への影響を考え、流血の惨を避けて、暫定首班として人格穏健な上田常隆がえらばれたのであった。

国敗れて山河あり! 革命の推進力であった田中——梅島ラインには、この莫大な借金を背負った毎日新聞の経済復興には、メイン・バンク三和銀行との円滑な接衝が苦手だったらしい。そのため、銀行筋にもよい上田が浮んできたのである。

上田社長の就任第一声は、「社内民主化」であったからである。本田〝天皇〟時代の、全くのワンマン政治は、読売における正力の如く、実力とオーナーとしての権威に裏付けされた「ワンマン」と違って、法律的な代表権にのみ保護された、いわば、成り上り者の強権政治であったから、〝物言えば唇寒い〟陰湿な派閥を生んだのであった。

かつての毎日新聞は、営業が鹿倉吉次(現最高顧問兼東京放送相談役、四十四年十月死去)。 編集が高田元三郎(現最高顧問)の両氏に代表されており、やはり、営業系列の人が実権を握っていた。つまり、編集出身者は、ゼニコに弱いという、経営者としての資格にかけるうらみがあ

ったからである。そして、東西合併後も、不思議と営業系列は一本化していたのに対し、編集は常にいくつかの系列にわかれて対立していた。これは、営業が実権を握るために、煽動していたのではないかとも、疑われるフシが、ないでもなかった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.302-303 毎日と、朝日・読売との基本的な違い

正力松太郎の死の後にくるもの p.302-303 毎日には、資本家重役がいない。毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%…
正力松太郎の死の後にくるもの p.302-303 毎日には、資本家重役がいない。毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%…

かつての毎日新聞は、営業が鹿倉吉次(現最高顧問兼東京放送相談役、四十四年十月死去)。 編集が高田元三郎(現最高顧問)の両氏に代表されており、やはり、営業系列の人が実権を握っていた。つまり、編集出身者は、ゼニコに弱いという、経営者としての資格にかけるうらみがあ

ったからである。そして、東西合併後も、不思議と営業系列は一本化していたのに対し、編集は常にいくつかの系列にわかれて対立していた。これは、営業が実権を握るために、煽動していたのではないかとも、疑われるフシが、ないでもなかった。

そのように、営業畑が比較的波静かだったので、上田は、経理、広告、総務、人事などの部門を、順調に歩んできた。昭和九年ごろ、まだ三十歳の初期の青年上田常隆は、当時NHKで放送されて好評だった、友松円諦師の「法句経講義」に聞き入って、大いに開眼するところがあったという。この話からも判断されるように、その真面目で真摯な人柄が、次第に支持者をふやし、ことに、銀行筋の圧倒的信頼を集めていった。いうなれば、読売における務台副社長とも比肩される、銀行の支持だったのである。

上田社長は、その人柄ゆえに、社長となるや、直ちに、集団指導制の確立を図った。本田ワンマン時代の反動としても当然であるが、氏自身が、親分にへつらい、子分を養うタイプではなかったし、何よりも、彼の双肩には、「経営の建て直し」という、重大な使命が課せられていたからである。その第一声が、「社内民主化」であったということは、つまり、派閥という言葉をさけているが、派閥の存在を認め、その弊害が毎日の存立をおびやかした事実を卒直に承認した上での、派閥の打破であった。そのためにも、派閥の親分、師団長クラスを全部あつめて、その集団指導制をとり、その中で、派閥を序々にブチ壊してゆこうとしたかの如くみられる。つまり、河

野一郎を大臣にして、閣内協力のワクをはめるのと同じように、実力者たちで重役陣を編成し、各派閥の長老たちには「顧問」の地位を用意した。能力ある者が、その能力を「最大限に発揮できる」ように、「徹底的ディスカッション」による「集団指導制」——その安定の上にのった、社長としての「カジ取り」を考えたのである。

ここでまず、毎日と朝日、読売との、基本的な違いをみつめねばならない。つまり、毎日には、明治十五年以来、一世紀近い歴史がありながら、その歴史と共に歩んできた、資本家重役がいない、ということ。これを裏返せば、毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。株式はもちろん、社内株であるが、大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%、前社長上田常隆一・一%、原為雄(相談役)、安部元喜(客員)各〇・九%、本田親男(元社長)、後藤弁吉(客員)各〇・八%という分布である。しかも、この数字を前年度以前と比べてみると、社長交代などの異動のたびごとに、常に動いているのである。

ところが、朝日では、村山長挙一二・〇%、村山於藤一一・三%、村山未知子、同富美子各八・六%(計、村山家で四〇・五%)、上野精一、一三・八%、上野淳一、五・七%(計、上野家で一九・五%)と、両家の合計は六割となり、この数字、比率は、戦後一度も動いていない。

また、読売の場合は、正力の個人持株を分離した、財団法人正力厚生会二〇・九%、正力松太

郎六・六%、小林与三次(副社長、正力女婿)六・二%、関根長三郎(正力女婿)五・五%、正力亭五・〇%(計、正力家で四四・二%)、務台光雄(副社長)四・〇%、高橋雄豺(顧問)三・四%となっている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.304-305 毎日の百二十五億の借入金は多すぎる

正力松太郎の死の後にくるもの p.304-305 読売の一行当り最高額は、住友の九億がトップで、合計四十一億。朝日は住友二十二億を頂点に、合計九十四億で、読売の二倍強。毎日は三和の四十二億を最高に、合計百二十五億で、読売の三倍強という、借金である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.304-305 読売の一行当り最高額は、住友の九億がトップで、合計四十一億。朝日は住友二十二億を頂点に、合計九十四億で、読売の二倍強。毎日は三和の四十二億を最高に、合計百二十五億で、読売の三倍強という、借金である。

また、読売の場合は、正力の個人持株を分離した、財団法人正力厚生会二〇・九%、正力松太

郎六・六%、小林与三次(副社長、正力女婿)六・二%、関根長三郎(正力女婿)五・五%、正力亭五・〇%(計、正力家で四四・二%)、務台光雄(副社長)四・〇%、高橋雄豺(顧問)三・四%となっている。

このような、株主構成、つまり、経営体のあり方の差は、同時に、銀行資金の流入状態にも現れてくるのは否めない。「正力の読売」として、前だれ姿の〝正力商店〟ともいうべき、零細企業から出発し、中小企業から、大企業と育ってきた読売には、いわゆるメイン・バンクがないことは、先にも述べたが、これを銀行別に借入金を調べてみると、住友の九二六(単位百万円)を筆頭に、以下、三井九二四、富士五八四、勧銀五六○と続き、大阪読売では、三和、富士、住友、東海の各一五四(計六一六)、三井信託一五八、安田信託一五〇、三菱信託一一六、長銀一一一となっている。東京本社の新社屋建設に備えてか、東京での借入金を整理して減らし、これを大阪読売に転嫁している。

「新聞の公器性ゆえに、銀行としては、新聞社には、ある程度の融資のおつきあいは申しあげねばならない」とは、某行幹部の言葉だが、読売の実情をみると、このおつきあいらしく、住友など十行から、合計四十一億四千五百万円を借りている。

これに対し、朝日はメイン・バンク住友から二二一七、長銀一六九八、日本生命一三七五、住友信託二一〇五、三菱信託八二八、富士七一三、三和五五二と、七行合計九十四億八千八百万

円。

毎日はどうかといえば、朝日の住友の二十二億をグンと引き放して、そのメイン・バンク三和から四二三一、日本生命二〇〇五、三菱二一七〇、大和一七〇七、住友九五〇、三井九七二、東洋信託四八八。七行合計百二十五億二千三百万円という、巨額の借入金を抱えている。

これを比べてみると、読売の一行当り最高額は、住友の九億がトップで、合計四十一億。朝日は住友二十二億を頂点に、合計九十四億で、読売の二倍強。毎日は三和の四十二億を最高に、合計百二十五億で、読売の三倍強という、借金である。もっとも、朝日も大阪本社の新社屋建設、毎日はパレス・サイドビル移転と、朝毎は移転、新築を終っているのに対し、読売はこれから二百億の本社建設にとりかかるから、借入金もふえるのだが、それにしても、毎日の百二十五億の借入金は多すぎる。有楽町から〝名誉ある撤退〟をして、土地を売ったにしては(四十三年度の資料の数字だが)相当な赤字だということがうかがえよう。

過去五年間の借入金合計をみてみよう。三十九年度九十億(三和三十七億)(端数四捨五入)、四十年度八十三億(三十三億)、四十一年度八十六億(三十四億)、四十二年度百億(三十四億)と、一度四十年度に下った数字が、以後はどんどん上っている。これも本田時代の三十五年度の五十五億からみれば、物価の上昇率を上廻っての、借入金激増であり、メイン・バンクの三和が、四十、四十一、四十二年度は三十三億台をもちつづけていたのにもかかわらず、借入金合計が上昇していることは、〝借りれるところすべてを借り廻っている〟感じで、四十三年度に、三和が三三八

六から一挙に四二三一と上昇すると同時に、トータルでは九九五〇から一二五二三(いずれも単位百万円)と、大膨張していることは、注目しなければならない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 今や東大出でないとダメなんだよ

正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど。ところが、上田時代の役員一覧表をみると、ナント東大が七名、官公立が過半数を占め、慶応はわずかに一名。
正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど。ところが、上田時代の役員一覧表をみると、ナント東大が七名、官公立が過半数を占め、慶応はわずかに一名。

過去五年間の借入金合計をみてみよう。三十九年度九十億(三和三十七億)(端数四捨五入)、四十年度八十三億(三十三億)、四十一年度八十六億(三十四億)、四十二年度百億(三十四億)と、一度四十年度に下った数字が、以後はどんどん上っている。これも本田時代の三十五年度の五十五億からみれば、物価の上昇率を上廻っての、借入金激増であり、メイン・バンクの三和が、四十、四十一、四十二年度は三十三億台をもちつづけていたのにもかかわらず、借入金合計が上昇していることは、〝借りれるところすべてを借り廻っている〟感じで、四十三年度に、三和が三三八

六から一挙に四二三一と上昇すると同時に、トータルでは九九五〇から一二五二三(いずれも単位百万円)と、大膨張していることは、注目しなければならない。

この数字だけみても、毎日の調落ぶりは明らかである。本田から上田への政権交代が、三十六年一月だから、四十年度に合計で約七億(三和だけで四億)減らしたのは、上田の功績ともいえるが、有楽町から竹橋への移転は四十一年秋、つまり、有楽町の土地などを処分した時期なのだから、当然であろう。しかも、上田から現会長田中香苗、現社長梅島楨のコンビに変ったとたんに、借入金が二十六億もふえたのである。金融能力があったといえばいえようが、これでは、毎日新聞は全く斜陽の一途をたどっているとしかいえないだろう。しかも、発行部数は四百万の大台割れに近づき、読売の三倍の借金を抱えているのである。付言するならば、田中、梅島ともに、東京入社の東京系。本田、上田の大阪系に対する〝クーデター〟とみる所以だ。

東京拮抗の毎日人事閥

さて、数字による例証が、いささか長きに失したようである。角度をかえて、田中業績は未知

として、上田業績を眺めてみたい。

私が読売に入社した昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど、学閥華やかであったらしい。日大の私が、学閥なしで実力次第といわれていた、当時の読売をえらんだ理由の一つに、それがある。

ところが、上田時代の役員一覧表をみると、十六名の取締役に、三名の監査役、酒井衍(東大)、梶山仁(青学)、高原四郎(東大)と、十九名中、ナント東大が七名、京大二名、東北大一、商大三(東京、神戸、大阪)と官公立が十三名の過半数を占め、慶応はわずかに一名、早、明、青学、東亜同文、府立高工芸の各一名が続いている。「慶応でなければ人にあらず」どころか、官学にとって代わられているではないか。

さきごろ、停年退職した慶応出の毎日記者をたずねて聞いてみると、「今の毎日は変った。今や、役人と仲よくできる奴、つまり東大出でないとダメなんだよ」という。戦前に「三田会」(慶大出身者の会)を結成しようとして、同氏が社内を駈けまわったところ、「毎日三田会の会員でないと、人でないような傾向が出そうなほど、慶大出身の社員が多いから、会の結成はやめろ」と、社の幹部に注意されたという。ところが、同氏の停年間際になって「今度は人数が少ないから結成してもよい」と、お許しが出たのだ、と、同氏は嘆ずる。

かつての官尊民卑の時代、新聞記者はタネトリとさげすまれ、河原乞食である役者と同列にみ なされていた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 「上田社長の人柄はおわかりでしょう」

正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 上田社長出現は、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 上田社長出現は、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。

かつての官尊民卑の時代、新聞記者はタネトリとさげすまれ、河原乞食である役者と同列にみ

なされていた。この風潮は、明治から大正、昭和とうけつがれ、野党精神旺盛な記者稼業は、私学出身者のよりどころであったのだが、戦後の民主化時代は、新聞を花形職業とし、新聞社は一流企業と肩を伍するにいたった。

競争の激しい入社試験で、一定成績以上のものを採用するとなると、答案作成技術のうまい、官学出身者が多くなる。そして、平均値の高い模範社員がふえる。私学出には型破りが多いから、平均値が下がるのである。こうして、毎日から学閥はついえ去った。現役の連中にたずねまわっても、学閥があるというものは皆無であった。

学閥はなくなったが、すでに新しい人事閥が生れていた。学閥なるものは、客観的にも先輩、後輩の仲であり、立証もやさしいが、利害、恩怨、愛憎、好悪による人事閥の説明はむずかしい。しかし、毎日を語るに、この人事派閥にふれずに通ることはできまい。

本田が十三年間もワンマンとして君臨した事実からみて、当然、本田派と反本田派とがあったことはいえる。反本田派の巨頭としては、田中香苗があげられよう。上田社長出現の経緯は、さきに説明した通りで、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。副社長工藤信一良もまた、派閥の毎日にあって、子分のない人、あるいはつくれない人である。氏の副社長兼大阪代表は、引退の花道と評されている。とすると、師団長クラ

スとなって、いずれも東京系の代表取締役である、営業の梅島楨専務、編集の田中香苗主幹、山本光春常務とならざるを得ない。

田中の反本田に対し、山本常務は本田派と社内でいわれるのだから、田中派と山本派の対立が、やはり大きな派閥を形づくっているのであろうか。株主構成からいって、誰もオールマイティーの切り札をもっていない。出身はみな同じ平社員で、新聞社の門を叩くからには、能力いずれも秀でた人ばかりとあっては、水準の高低を無視すれば、ドングリ揃いでもある。

このような、毎日の特殊事情は、労働組合にとっても、まことに不都合なことであるらしい。つまり、資本家に対して〝闘争〟して〝闘い取る〟といった、悲壮感が一向にモリ上ってこないのである。これは、台所の苦しい毎日にあって、経済闘争をやる場合、一そう奇妙なものになってくる。ある組合幹部はその悩みをこう洩らす。

「上田社長の人柄はおわかりでしょう。会社側は経営内容を卒直に出します。ガラス張りです。と認めていいでしょう。不正も、汚職もなく、またやろうにもできない、貧乏世帯です。重役の給与も、同程度の他の会社にくらべて、まず高くはない。ベース・アップもボーナス闘争も、手の内をみせられては、強いことをいえないではありませんか。御用組合だといわれ、下からの突きあげもありますが、経済闘争といっても、経営努力への叱咤勉励に終らざるを得ないのです」

サエない話だと笑ってはならない。朝日、読売が体験した体質改善の、そのチャンスさえ、つ

かめないのである。毎日の現実の中では〝革命〟はあり得ない。そして、それゆえにこそ、派閥がハビこるのではないかと思えるのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.310-311 この〝ショック療法〟は確かに成功であった

正力松太郎の死の後にくるもの p.310-311 毎日紙面は全く沈滞し、読者を失っていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.310-311 毎日紙面は全く沈滞し、読者を失っていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。

サエない話だと笑ってはならない。朝日、読売が体験した体質改善の、そのチャンスさえ、つ

かめないのである。毎日の現実の中では〝革命〟はあり得ない。そして、それゆえにこそ、派閥がハビこるのではないかと思えるのだ。

第一、当時、闘争中の「賃闘」で、毎日労組東京支部青年部が、出入りの社員にビラをまいている。そのビラそのものから、いわゆる闘志はニジミでてこない。見出しこそ、「会社、組合に挑戦、ふざけきった百円増額(年齢手当)」などとあるが、ビラの中にある「本部声明」は、「……本部は今後の道のけわしさを、今論じない……」と、所詮は、といったタメ息が、早くも洩れている感じだ。それに、「会社、組合に挑戦」とリキンだところで、その会社なるものは、このビラまき青年の〝明日〟なのである。

上田を評価するに、毎日記者の多くの人々が、彼の派閥打破への意欲と、人材登用の英断とを認める。上田自身の表現による、「社内民主化」とは、まず、東西四本社における人事の交流であった。四本社間の転勤、移動であるから、これは金をくう仕事である。だが、彼は断行した。この〝ショック療法〟(私はこうよぶ)は、確かに成功であった。折しも、朝日は社主との紛争事件の長期化が、社内の志気を沈滞させ、読売は「よみうりランド」の建設に没頭する正力の〝悲願〟にあおられて、これまたヤル気をなくしていた。

毎日自身は、それ以前から、本田〝天皇〟の末期症状で、同様にヤル気をなくして、紙面は全く沈滞し、読者を失っていっていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日

の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。

この刷新は、同時にスター記者の売り出しであった。毎日の記事には、署名記事が目立って多くなり、「吉展ちゃん事件」の成功では、担当事件記者の都内遊説といった手まで打たれた。〝事件記者、来る!〟というガリ版刷りの折り込みチラシが、バラまかれるといった調子である。「森」シリーズの記者たち、外信部長に〝国際事件記者〟というニックネームをつけ、社会部長もまた、何かにつけては、紙面に登場してきた。

一般的な「新聞紙面」はどうであったろうか。毎日の躍進に驚いた朝日と読売は、反省して陣容を立て直した。読売でいえば、正力の女婿小林与三次住宅公団総裁(元自治次官)が入社して、務台専務とともに副社長となり、正力ワンマン・コントロールの影響を防ぐ一方で、原出版局長が常務編集局長として、積極的な紙面造りをはじめた。

そのころまで、毎日の独走だった〝熱のある紙面〟は、にわかにシボンで、また、以前の沈滞がよどみはじめた。この現象を、ある毎日幹部は、「朝日、読売の立ち直りで、以前ほど光らないだけだ」と説明するが、一人の毎日社会部の古手記者はいう。

「田舎記者をこの大東京にもってきて、即座に戦力たり得るだろうか。マンモス東京のもつ環境的な悪条件が、清浄な地方の条件に適応していた彼の肉体や精神に変化を与えるのが当然だ。た

とえば、興亜建設大橋事件の抜かれっ放しなど、地方の区検と、東京地検特捜部とを同一検察庁とみるに等しい。そりゃ、上京当時こそハッスルするだろうが」
彼は、派閥打破の上田の意欲に、十分に納得し、それに賛成した上で、こう、技術的に批判する。

正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 毎日の〝ショック療法〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。
正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。

「田舎記者をこの大東京にもってきて、即座に戦力たり得るだろうか。マンモス東京のもつ環境的な悪条件が、清浄な地方の条件に適応していた彼の肉体や精神に変化を与えるのが当然だ。た

とえば、興亜建設大橋事件の抜かれっ放しなど、地方の区検と、東京地検特捜部とを同一検察庁とみるに等しい。そりゃ、上京当時こそハッスルするだろうが」

彼は、派閥打破の上田の意欲に、十分に納得し、それに賛成した上で、こう、技術的に批判する。

電波の発達によって、新聞はその速報性を奪われたという。確かにそうであろう。しかし、新聞が失った速報性は、ホンの一部のニュースの分野で、である。またいう。速報性を失った新聞は、その解説性を強調すべきであり、記録性をも具備しなければならない、と。事実である。だが、新聞はすべての分野で、速報性を失っていない。

新聞が解説を主力とするならば、解説は主観が入るのだから、署名記事にすべきで、署名が入るから、スター記者が生れるのが当然である——この論理の組み立ては、一応筋道が立ってはいるが、重大な誤ちを犯している。第一前提である、「新聞は解説を主力記事とする」という点で。

今、三紙の記事量の何パーセントが解説であろうか。速報性をほとんど失っていない新聞の現状で、かつまた、現在の新聞が必死になって、維持しようとしている「宅配」の習慣、そして、紙面をひろげてみるという、随時性の長所に、完全に馴らされている読者の現況の中で、新聞は依然としてその速報性を失っていないのである。

テレビ受信機の普及率、トランジスタ・ラジオの生産台数、カー・ラジオの……と、どんなデータをあげても、新聞が奪われた速報性は、ホンの僅かであり、それを立証するものは、一日に

三千万枚も発行されている新聞紙面で、ニュースの占めているパーセンテージである。これが、私のいう、毎日の〝ショック療法〟の根拠である。スター記者は意識して造られたもの、なのである。毎日新聞の退勢挽回のコマーシャリズムのため、〝売り出された〟ものである。この、スター売り出しが、ショックとなって、全社が立ち直るかと判断されて、大きなショックを与えてみたのである。人事交流しかり、若手抜てきしかりだ。大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。

〝外報の毎日〟はどこへ

例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。

大森記者の退社をめぐるイキサツも、各種の情報が入り乱れて、真相はつかみ難い。しかし、その〝各種の情報〟が出るところに、今日の毎日の性格が現れている、と、みることは偏見にすぎるであろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.314-315 「外報の毎日」という金看板を背負っていた

正力松太郎の死の後にくるもの p.314-315 毎日の中で、大森記者がもっとも売り出され、またファンをつかんでいった。大森実という、スター記者の名前と写真とは、大きな活字で何百万部も印刷されて、日本全国津々浦々までバラまかれ、毎日外信部の名をあげた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.314-315 毎日の中で、大森記者がもっとも売り出され、またファンをつかんでいった。大森実という、スター記者の名前と写真とは、大きな活字で何百万部も印刷されて、日本全国津々浦々までバラまかれ、毎日外信部の名をあげた。

大森とのライバル関係にあったのが、朝日の外報部長秦正流である。そして、ともに、「外報の朝日」「外報の毎日」という、金看板を背負っていたのである。「事件の読売」は、このさいラチ外である。どうしても、この機会に、外報部についてふれねばならないだろう。

毎日の数多いスター記者たちの中で、大森記者がもっとも売り出され、またファンをつかんでいったのである。大森実という、スター記者の名前と写真とは、大きな活字で何百万部も印刷されて、日本全国津々浦々までバラまかれ、毎日外信部の名をあげた。〝外報〟が強いのは毎日の伝統といえる。日本の興隆期、大陸に兵を進めていた時代に、毎日は陸軍とタイアップし、大陸各地にくまなく特派員を配置し、従軍記者を派して、この声価を得た。現役でいうならば、東亜同文書院(注。上海にあった日系大学)出身の、田中香苗をトップとする〝外報閥〟である。高田、工藤、橘、といった人たちだ。

上田社長の東西交流により、神戸支局採用の傍系記者だった大森実も、稲野治兵衛社会部長らと同じく、東京へ転勤してきて、田中香苗の認めるところとなった。彼ら大阪勢は田中主幹に大いに使われたのであった。その活躍ぶりに、白い眼を向ける部長クラスもまた、多数いたことは否めまい。

毎日の伝統的ライバルは朝日である。その意味で、たとえ読売がどんなに実力を発揮しようとも、朝・毎は表面、歯牙にもかけないのだ。だから読売の敵は朝・毎二社であり、同時にこの二

社のライバル意識を利用して、朝毎二社は読売の味方である。朝日がスクープすると、毎日と読売は手を握り、毎日の場合は反対になる。しかし、読売のスクープに対して、朝、毎は決して手を握らない。したがって、朝、毎の記者間には友情も生れない。

朝日の外報部長秦正流は、モスクワ育ちの外報記者である。これに対するに、毎日の大森実はワシントン育ち。両者のライバル意識がさらに燃え上るのは、無理もないことであった。しかし、秦、大森の人間的比較ではなくて、自由、共産両世界の外国記者たちは、ともすれば、より多く、秦に教えを乞うた。彼がモスクワ育ちであるという理由で。

そして、それだけに、その事実を知るが故に、大森はさらにスパークしたに違いない。秦と大森の知名度を比べれば、大森が全世界を通して、はるかに秦を抜いていた。いうなれば、批評家の賞める映画と、興収をあげる映画の違いであろうか。秦は組織に納まれる人間であり、大森はハミ出る人間として、先天的な差もあったに違いない。

そもそも、解説、解説と称しながら、果して、大森記者の署名記事は、すべて「解説」であったろうか。「ニュース」ではなかったろうか。スター記者に、署名でニュースを書かせた時代は、すでに遠くすぎさった。個人の記者が、その能力と才智とコネと、さらに幸運とで、かくされたニュースを発掘した時代は、精々、昭和三十年までである。

今は、新聞のもつ、強大な組織と物量と資金とで、ニュースも、解説も、「商品」として、「生

産」される時代である。記者はその小さな部分のオペレーターであって、タレントではない。毎日新聞幹部の、このアナクロニズムを、私は〝ショック療法〟の失敗と指摘した。誤診である。ショックが終ったのちに、病状が悪化していなければ、幸いである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.316-317 ニュースも解説も「商品」として「生産」される時代

正力松太郎の死の後にくるもの p.316-317 朝日の本多勝一記者は、カナダ・エスキモーの報道で、第一二回菊池寛賞…。〝朝日の本多〟が書いているのではなく、「朝日」が企画し、「朝日」が準備し、「朝日」が実行し、「朝日」が書いているのである。本多記者はその担当者にすぎない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.316-317 朝日の本多勝一記者は、カナダ・エスキモーの報道で、第一二回菊池寛賞…。〝朝日の本多〟が書いているのではなく、「朝日」が企画し、「朝日」が準備し、「朝日」が実行し、「朝日」が書いているのである。本多記者はその担当者にすぎない。

今は、新聞のもつ、強大な組織と物量と資金とで、ニュースも、解説も、「商品」として、「生

産」される時代である。記者はその小さな部分のオペレーターであって、タレントではない。毎日新聞幹部の、このアナクロニズムを、私は〝ショック療法〟の失敗と指摘した。誤診である。ショックが終ったのちに、病状が悪化していなければ、幸いである。

設問しよう。朝日の本多勝一記者は、カナダ・エスキモーの報道で、第一二回(昭和三十九年度)菊池寛賞を、藤木カメラマンとともに受け、以後、何回となく好読物を紙面に提供したが、果して彼は、朝日のスター記者であるだろうか。全日空機の沈没地点にダイバーとともにもぐった、読売の富尾信一郎カメラマンは、スターだろうか。

私は、いずれもノーと答える。両人とも所属新聞社の組織の一員で、専門的な、技術的なオペレーターの一人にすぎない。〝朝日の本多〟が書いているのではなく、「朝日」が企画し、「朝日」が準備し、「朝日」が実行し、「朝日」が書いているのである。本多記者はその担当者にすぎない。チョコレートの包み紙に押されている個人名のハンコ、あれと同じ立場が本多記者である。そして「朝日」なればこそ、可能な取材なのである。

ところが、毎日の場合は、〝売り出し〟が決ってからというものは、「毎日の大森」だったのが、やがて、単なる「大森」が書く結果になってきた。——この、立論の根拠を示さねばならない。

大森の退社問題は、私は四十年暮れに耳にして、毎日の友人に問い合せたが、彼は知らなかっ

た。耳にしたのは、週刊誌記者からであった。その時の、私自身の感想は、「来るべき時がきたナ」というのにすぎなかったが、毎日社内で情報通である友人が知らずに、週刊誌記者が知っていることに、フト不自然なものを感じた。

しかし、実現すればしたで、週刊誌が書くであろうことを思い、その理由のつけ方に、ひそかに興味を抱いていたのだった。私は私なりの取材を試みたかったからである。果して、三流週刊誌が第一番に取りあげて、「アメリカの圧力」だとか、「銀行筋の指令」だとか、いわゆる〝黒い霧〟ムードをマキ散らして、結構、商売をしていた。

私の取材の結果は、純粋な社内問題と、個人の〝一身上の都合〟の二つの理由が、真相であると思う。この社内問題というのに、問題点があるのだ。毎日労組としても、不当な人事干渉が、外部からあったかの如き流説が聞えては、放ってもおけず、一応の調査をして、大森氏自身の言葉を、会社側にブツけて、確認してみたという。

この組合調査が、正鵠を得ていると思われるのだが、それによると「メヌエル氏病で、健康が外信部長の職に堪えられない。かつ、自分のわがままで、フリーになってしたいことをしてみたい——この二点で、退社を申し出て、幾度かの慰留をうけたが、辞意を押し通した」と、いうにある。私自身が会社側に当った限りでも、慰留の事実は認められ、辞表受理はやむを得なかった、と思われた。しかし、この二つの一身上の都合にも、それだけの背景はあるのであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.318-319 銀行借入金の急増と〝明日の毎日〟を暗示

正力松太郎の死の後にくるもの p.318-319 チミモウリョウが最新式ビルであるパレスサイド・ビルにうごめくという結果にもなった。私が、かつて上田にインタビューした時、「私が去る時は、毎日の去る時だ」という意味の発言をしていた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.318-319 チミモウリョウが最新式ビルであるパレスサイド・ビルにうごめくという結果にもなった。私が、かつて上田にインタビューした時、「私が去る時は、毎日の去る時だ」という意味の発言をしていた。

この組合調査が、正鵠を得ていると思われるのだが、それによると「メヌエル氏病で、健康が外信部長の職に堪えられない。かつ、自分のわがままで、フリーになってしたいことをしてみたい——この二点で、退社を申し出て、幾度かの慰留をうけたが、辞意を押し通した」と、いうにある。私自身が会社側に当った限りでも、慰留の事実は認められ、辞表受理はやむを得なかった、と思われた。しかし、この二つの一身上の都合にも、それだけの背景はあるのであった。

まず、第一番には、会社側のとった〝スター記者〟主義に、アナクロニズムという、大義名分からの反対論があったということ。これが、その大義名分からみれば、本来は「大森が可哀想」と出てくるはずであるのだが、反発は逆作用して、会社側へではなく、大森個人へ当った。

第二には、物書き業共通の感情である自己顕示欲からくる、〝盛名ぶり〟への反感とシット。これが意外にも強かった。これらの基本的な条件としての、従来からの派閥根性が基底にあった。

記者に共通する自己顕示欲は、情実とコネにイージーに依存できる〝派閥〟がある状態では、〝ナニクソ! オレもやったるでェ〟と反発せず(会社側は、こんな形でのショックを期待したのだろうが)、裏目に出て、「大森の野郎、ノボセてる!」と、ならざるを得ない。

大森が辞任したあと、彼が外信部長の肩書きをつけて、サンデー毎日誌に連載中の記事が、どうなるかも、一つの問題であった。彼の辞意が伝えられるや、サンデーのデスクが早速訪問してきて、連載継続を申入れたり、組合側も「会社に何か御不満でも?」と現れてきたことも、部下への不信感に打ちのめされていた彼には、素直に取れなかったらしい。

大森は「奴らがオレの様子をスパイしにきた」と怒って、いよいよ辞意を固めたようだ。一方、サンデーの機敏さは、そんな意味の御忠勤さがあったようだが、会社側では、「一切の糧道を絶っては、何するかわからんと考えて、肩書をとって、連載継続を認めた」と、解説する消息通もいる。

この消息通(現役記者)は、やはり、上田のとった、派閥打破の措置を歓迎しつつも、「過渡的な現象であろうが、人事交流によって、従来の派閥系列は確かに崩れた。しかし、東西四社をゴチャまぜにし、若手抜てきで上下にカキまわした結果、社内は全く混沌として、小派閥の分立、乱立で、いまだに過去の派閥の化けものが、うごめいている状態だ。

その実例として、大阪の社会部長は、本田、浅井、斎藤栄一とつづき、本来ならば斎藤栄一は本田社長派に列すべきなのに、彼は何故か、本田時代は冷や飯組であった。斎藤社会部長の部下に、稲野、大森らがいた。上田時代になって、反本田の田中香苗と斎藤とは緊密化し、ようやく、斎藤は重役コースにのった。だから、斎藤の部下、稲野、大森らが東京に移って、田中主幹に登用されたのもうなずける。それなのに、大森を斬ったのは、田中ラインの右派である。混とんとして、インドネシア情勢みたいでわからない」と、嘆じたのである。

こうして、チミモウリョウが最新式ビルであるパレスサイド・ビルにうごめくという結果にもなったのであるが、上田は退陣してバトンを田中—梅島ラインに渡した。私が、かつて上田にインタビューした時、「私が去る時は、毎日の去る時だ」という意味の発言をしていた。その言葉は、前述した銀行借入金の急増とニラミ合せてみると、〝明日の毎日〟を暗示するのだろうか。

インドネシアといえば、さる四十一年二月二十四日付毎日夕刊は(シンガポール二十四日UPI)として、シンガポールできいたジャカルタ放送が、インドネシア・クーデターの主謀者ウン

トン中佐が、公判廷で反逆、殺人の容疑を否認、次のように述べたことを報じている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.320-321 ウントン自供書なるものは米CIAの謀略文書

正力松太郎の死の後にくるもの p.320-321 大森氏は「自供書を入手」したのであるが、社会部出身の記者としては、「自供書の写しを入手」と書くべきであったと思う。昨年入手できるのは「ウントン自供書と称される文書」であるはずだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.320-321 大森氏は「自供書を入手」したのであるが、社会部出身の記者としては、「自供書の写しを入手」と書くべきであったと思う。昨年入手できるのは「ウントン自供書と称される文書」であるはずだ。

インドネシアといえば、さる四十一年二月二十四日付毎日夕刊は(シンガポール二十四日UPI)として、シンガポールできいたジャカルタ放送が、インドネシア・クーデターの主謀者ウン

トン中佐が、公判廷で反逆、殺人の容疑を否認、次のように述べたことを報じている。

「公判前の証言は偽りであり撤回する。私は九・三〇事件の主謀者ではない。政府に対し反逆を企てたこともなく、反乱軍の指導者であったこともなく、また共謀に加担したこともない」

私はこの記事が、毎日のみで、朝日、読売にないこと、翌二十五日の両紙朝刊にもないことに、大変興味を覚えた。何故かというと、毎日こそ、昨四十年十一月二十日付朝刊第一面に大きく、「ウントン中佐の自供書を入手」と特筆大書して、大森外信部長の署名記事(断るまでもないが、これは解説ではなく、ニュースである)を掲載しているからだ。つまり、この大スクープの署名記事を、全く否定する外電が、大森なきあとの外信部の手で、同じ毎日に掲載されているということだ。

その大森署名記事に付された、短かい前文によると、「ジャカルタ行きを中止して、東京に帰った。以来約五十日間、九・三○クーデターの真相と、その背景を追究すべく、いくつかのルートを通じ情報を取材してきたが……(中略)……私が入手した自供書によれば……」とある。

この前文で明らかな通り、大森氏は東京にいて、「いくつかのルート」で、取材しており、その結果、「自供書を入手」したのであるが、社会部出身の記者としては、「自供書の写しを入手」と書くべきであったと思う。簡単にいえば、大阪府警がやっている事件の調書(司法警察員調書および検察官調書ともに)は、東京の警視庁にはないし、東京地検にもない。公判がはじまれ

ば、法廷に調書が出されるのだから、関係者は謄写することができる。まだ、公判が開かれていない、昨年十一月二十日の時点に、東京で入手できるのは「ウントン自供書と称される文書」であるはずだ。そして、記者としては、その〝称される文書〟の信ぴょう性の確認をすべきなのであって、その裏付けのため、入手経路やら、信ぴょう性を立証できる人物、もしくは、立証できると信じられる人物の談話、をも併載して、読者の疑問に答えるのが、大新聞ならびに大新聞記者としての、当然の措置であったと思う。

〝殷鑑遠からず〟で、昭和二十五年九月二十七日付朝日新聞は、社会面のトップで、大スクープ「伊藤律会見記」を掲載した。今、この「ウントン自供否定」の小さな外電をみて、毎日新聞ならびに大森外信部長に、それだけの慎重さを望みたかったと、私は考える。というのは、他でもない。私がこの毎日新聞論の取材を進めている時、大森事件の真相をも、同時に調べていたのである。その時、意外な証言者に出会った。

「大森外信部長の退社の真相は、例の大スクープ、ウントン自供書ですよ。ウントン自供書なるものは、米CIAの謀略文書だったのです。彼があれを強引に発表したのち、毎日内部、論説系の人たちの間から、猛然と批判の火の手が上りました。

そして、彼も責任をとらざるを得なくなったのです。紙面の問題だからこそ、狩野編集局長

も、出版担当へと異動させられたのです。論説や編集幹部の間では、CIAの謀略文書を意識して掲載したと、判断されたのです。汚職みたいなものです」

正力松太郎の死の後にくるもの p.322-323 大森さんは佃書記官からあの文書を入手

正力松太郎の死の後にくるもの p.322-323 驚いた私は、この毎日OB記者の証言の、さらに裏付けを求めて、走り廻った。ある外交評論家が肯定した。「デビ夫人の話やら、スカルノ亡命説など、国民はもっとウラを考える必要がある」
正力松太郎の死の後にくるもの p.322-323 驚いた私は、この毎日OB記者の証言の、さらに裏付けを求めて、走り廻った。ある外交評論家が肯定した。「デビ夫人の話やら、スカルノ亡命説など、国民はもっとウラを考える必要がある」

「大森外信部長の退社の真相は、例の大スクープ、ウントン自供書ですよ。ウントン自供書なるものは、米CIAの謀略文書だったのです。彼があれを強引に発表したのち、毎日内部、論説系の人たちの間から、猛然と批判の火の手が上りました。
そして、彼も責任をとらざるを得なくなったのです。紙面の問題だからこそ、狩野編集局長

も、出版担当へと異動させられたのです。論説や編集幹部の間では、CIAの謀略文書を意識して掲載したと、判断されたのです。汚職みたいなものです」

驚いた私は、この毎日OB記者の証言の、さらに裏付けを求めて、走り廻った。ある外交評論家で、インドネシアの現地も踏んでいる人物が肯定した。

「今、日本の新聞、雑誌にハンランしているデビ夫人の話やら、スカルノ亡命説など、国民はもっとウラを考える必要がある。亡命説などは、ある意図のもとに、CIAが流している与論形成です。毎日のウントン自供書なるモノも、CIAの謀略用文書であることは、間違いありません。どうして、大森さんは、あんなものを見破れず、堂々と署名して出したのでしょうか。判断に苦しみます。しかし、その責任を明らかにしたことは、流石に、大毎日です。

アメリカは、スカルノに石油会社などを接収されて、情報活動のアジトを失ってから、在インドネシア日本大使館への、情報依存度を高めています。従って、斎藤大使、遠藤公使以下、大使館員は大変です。機密費だって本省からくる分では足りないらしく、デビ夫人や商社とからんでの、黒い噂が出るほどです。

アメリカのグリーン大使というのが、CIA出身ですから、日本側からは連絡係として、佃泰一等書記官が、PKI視察の専門家として派遣されているほどです。大森さんは佃書記官から、あの文書を入手したはずですよ」

さらに調査を進めると、「空路、羽田に飛んできた男を待ち構えていて、銀座のバーで書類をうけとった」とか、「TBSの前に構えた事務所をごらんなさい。彼の資金は豊富ですよ」など、さらに「アメリカの黒い霧に包まれた退社などの話が、つきつめてみると彼の周辺から流されている」「大宅壮一氏と組んで雑誌を出すらしい」「彼の周辺というのは大宅氏のクチコミです。だから、週刊誌が一番に動いた」などと、真偽を判じ難い情報がうずまいている。

しかし、明らかになったことは、佃一等書記官は、二十三年組の警視正で、外務省に出向していた警察官である。いわば対共産党の専門家、CIA係の大使館員としては、CIA担当官であることは、十分うなずける。また、TBS前の新赤坂ビルの事務所というのは、毎日の先輩であり、四十年サイエンス・ランドで御喜家氏と組んで活躍していた、小谷正一の関係での入居であり、格別、〝豊富な資金〟などと、〝黒い……〟 ムードの表現は不必要であること、などであった。

そしてまた、大森自身もまた、当時、このことを否定して、私に会いたがっていた、ということを聞いた。

私の結論としては、ウントン自供書なるものが、CIAの謀略文書であるかどうかは、「データ評論」という(昨今の評論家たちのはすべて〝ムード評論〟でありすぎる)、データにもとづく評論という、私の主張から、にわかには断じ難い。ただ、前述のように、外信部長として、

「自供書」と断定して発表するには、慎重を失したといえよう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.324-325 朝毎は「アカの巣くつ」証言

正力松太郎の死の後にくるもの p.324-325 各社の外報記者たちは、ライシャワー大使に会見を求めて、米大使館につめかけていた。朝日の外報部長だった秦正流が突如として口を切った。「どうだい、みんな。こんな問題はなかったことにしようじゃないか」
正力松太郎の死の後にくるもの p.324-325 各社の外報記者たちは、ライシャワー大使に会見を求めて、米大使館につめかけていた。朝日の外報部長だった秦正流が突如として口を切った。「どうだい、みんな。こんな問題はなかったことにしようじゃないか」

私の結論としては、ウントン自供書なるものが、CIAの謀略文書であるかどうかは、「データ評論」という(昨今の評論家たちのはすべて〝ムード評論〟でありすぎる)、データにもとづく評論という、私の主張から、にわかには断じ難い。ただ、前述のように、外信部長として、

「自供書」と断定して発表するには、慎重を失したといえよう。

はたまた〝外報の朝日〟か

かつて朝日は、〝外報の朝日〟とさえよばれていた。だが、内部でさえも、「森恭三(社友、論説顧問)の退役で、〝外報の朝日〟は終った」と、批判する者もいる。外報記者——外国特派員に要求されるものの第一は、高度な判断力である。何しろ、遠い異境の地にあって、ただ一人で記者活動をするのであるから、単なる現象を報ずるリポーターであってはならない。

国内のつまらない事件ならば、少々ばかり宣伝に利用されても、大した影響がないのだから、まだよかろうが、これが、外報記者の問題となってくると、いささか違う。そこに広く深い知識、素養にもとづく、高度な判断力が要求されてくるのである。

朝日が、〝外報の朝日〟の名をほしいままにしていたということは、それに値するだけの外国特派員群をもっていたことである。だが、その昔日の栄光は消えて、今や〝スポーツの朝日〟なのだそうである。これもまた、硬派対軟派の抗争なのであろうか。

さる四十年四月二十九日、アメリカの二大通信社であるAP、UPIが、そろって打電した記事は、朝毎は、「アカの巣くつで、そのためアメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。米上院外交委員会が、四月七日に開いた、一九六六会計年度の軍事援助に関する秘密聴聞会での、ポール国務次官、マッカーサー同補の証言内容についての記事であった。

これに対し、朝日、毎日両紙は、それこそ〝猛然〟と反ばくしたが、翌日の両紙を見くらべると、毎日の怒りにみちた大扱いに対して、朝日のそれは、何事か次の段階のことを考慮したようなタメライを感じさせた。

不思議に思った私は、当時、その事情を調べてみると、入電した各社の外報記者たちは、ライシャワー大使に会見を求めて、米大使館につめかけていた。大使が現れるのを待っている間に、朝日の外報部長だった秦正流(大阪編集局長)が突如として口を切った。

「どうだい、みんな。こんな問題はなかったことにしようじゃないか」

すぐ反対したのはNHKだった。もうニュースとして流してしまったという。この話を、当時同席していた十社ほどの外報記者の一人から聞かされて、これは一体何だろうかと考えてみた。そして、翌日の反ばく紙面が、朝日と毎日と大きく違っていることと併せ考えさせられたのであった。

毎日の外報部長大森実がハノイに入った時、秦も後を追うようにハノイに入った。二人が北ベ

トナムから出てくると、アメリカは二人をワシントンに招待した。ラスク国務長官に会わせるから、というのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 三流週刊誌のデッチあげの手口と同じ

正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 林理介の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。この〝中傷〟は当然である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 林理介の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。この〝中傷〟は当然である。

毎日の外報部長大森実がハノイに入った時、秦も後を追うようにハノイに入った。二人が北ベ

トナムから出てくると、アメリカは二人をワシントンに招待した。ラスク国務長官に会わせるから、というのである。

その話を聞いた時、私はハハンとうなずいた。私が抑留されてシベリアにいた時、ソ連人の強制労働者たちに、意外にアメリカ・ファンが多いのである。不思議に思って聞いてみると、こうだ。

彼らは独ソ戦で捕虜となり、ドイツの収容所にいたのだが、やがて米軍がやってきて、彼らを接収した。向う側まできているソ連軍に引渡されるかと思うと、彼らは全員アメリカ本国へ〝連行〟されて、資本主義的〝洗脳〟を施されたのである。そして、祖国ソ連に凱旋した。するとドイツに捕虜となった罪状で、シベリアに〝矯正労働〟へと送られたという次第であった。

彼らは口を揃えていう。「カピタリズムはいい。食べ物も着るものも沢山ある。もし、アメリカと戦争になったら、投降してアメリカに行くんだ」と。

大森はアメリカの招待を断ったが、秦はよろこんで出かけ、ラスク長官との会見記をモノにした。アメリカの記者でさえ、ラスクにはなかなか会見できない時であったのに……。

一体、秦をこうさせるのは何だろうか。

昭和四十一年二月七日付の朝日は、林理介ジャカルタ特派員の大スクープを掲載した。九・三○クーデターの立役者、アイジットの自供書である。林は、この特ダネで、社長賞として金メダ

ルと金十万円也を獲得したという。全面を埋めたアイジット自供書には、さらにアイジットの最後の姿を伝える、三枚の写真がそえられていた。社長賞、結構である。写真も迫力があり、自供書も面白い。だが私は疑問をもった。林特派員は、その前文で「……本社は入手した。……」とのみしか書いていない。そこが一点ひっかかるのであった。

その前年、といっても二カ月ほど前の、四十年十一月二十日付の毎日新聞朝刊第一面は、前述の通り「ウントン中佐の自供書を入手」と、大森の署名入り大原稿で埋められていたのであった。これもまた、前文では「……私が(東京で)入手した自供書によれば……」とある。

林のスクープは、この毎日記事への対抗記事であることは明らかである。外報の場合、「何日何処発——」と、クレジットを付すのが常識である。このクレジットが読者にその記事の信ぴょう性を判断させるためのものであることは、新聞のイロハである。

さて、林の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。抜かれた社のイヤガラセだともいえるが、この〝中傷〟は当然である。写真についても、転載なら転載と書くべきだし、自供書も、ただ「本社は入手した」では困る。これは、三流週刊誌のデッチあげの手口と同じだからだ。

大森のウントン自供書は、彼の退社後に、公判廷でウントンが否認したと、「シンガポールで

きいたジャカルタ放送=UPI」の外電が伝えた。しかし、アイジットは死んでいるので、自供書は否定されなかった。死人に口なし、書けば書き得、であった。