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正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 ランドはもともとは関東レース倶楽部

正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」
正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」

ランドの御堂にインドから仏舎利を贈られれば、その記事を書かされた記者が、自嘲していった。

「ものの本で調べてみるとですね。世界中にバラまかれた仏舎利の、重さの合計は二トンになるそうです。すると、お釈迦さまというのは、大変な巨人だったのですね」と。

そのランドには、武が常務として送りこまれたが、もともとは、関東レース倶楽部という、競馬やオートレース屋の集まりである。読売の停年退職者も、何人かは入っているが、いずれも遊戯場の支配人程度の地位で、何の実権もないから、若い武にとっては、日テレの亨同様にハダカ同然の身の上である。

武に対する風当りは、特につよい。ことに正力の実の娘たちである、小林、関根両夫人などは、女性の本能的嫌悪感から、武のことを、正式には認めようとしないらしい。

しかし、武はその屈辱に堪えて、正力のセガレという立場をすてて、一人の実業人として生きようとしているらしく、第三者の評判も一番よいようだ。しかも、頭脳も気性も、大正力によく似ていて、武ならば、という支持者が多い。

だが、大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。

「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」

こんなイヤ味が、聞こえよがしに語られるという。しかし、とにもかくにも、代取副社長に、

正力の女婿関根長三郎という、興銀出身の、まともな人物がおり、監査役には亨夫人の父親、その他、読売系人物が取締役に名を連ねているので、ここばかりは、全く他人のモノになってしまう恐れはすくない。「タケシを……」という遺言に、私は、はじめて大正力の中に〝父親〟を感じたのである。最後に付言するならば、読売新聞という本拠は、今まで詳述してきたように、安泰であって、務台、小林両代取副社長制で、正力が生きていた当時と、全く同じような毎日が、明け暮れてゆくに違いない。

それよりも問題は、新社屋完成後の、ポスト・ムタイである。そのころまでに、小林が編集と業務を握り切れるかどうか。それが、読売新聞をどう変らせるか、にかかってきていよう。

〝マスコミとしての新聞〟とは

大正力の死につづく、正力コンツェルンの〝家庭の事情〟から、本論の明日の新聞界へと眼を転じてみよう。

さきごろ、某小日刊紙の座談会で、「新聞の内幕」というテーマが与えられた。「新聞は真実を伝えるか」にはじまり、「編集権と編集局長の権限」、「七〇年安保の論調予想」など、今日の新

聞の問題点について、〝新聞の現場の人〟三人が集まって、語りあったのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 送り手の主導者は販売・広告担当者

正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている。「編集権」が「経営権」に隷属し、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている。「編集権」が「経営権」に隷属し、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。

さきごろ、某小日刊紙の座談会で、「新聞の内幕」というテーマが与えられた。「新聞は真実を伝えるか」にはじまり、「編集権と編集局長の権限」、「七〇年安保の論調予想」など、今日の新

聞の問題点について、〝新聞の現場の人〟三人が集まって、語りあったのである。

新聞は果して真実を伝えているか——大きなテーマでありすぎるのだが、ここで、私は反論を出した。「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている、ということである。

マス・コミュニケーションという、和訳しにくいカタカナが、日本に入ってきてからというものは、新聞が変質してしまったことはすでに述べた。「大衆伝達」とでもしか、訳しようがないのであるが、このバタ臭い日本語の語感からしても、「真実の伝達」とは、ほど遠い感じがする。そして、事実、必ずしも「新聞」は「真実の伝達」を行なっていないのである。

そもそも、「編集権」というのは、「真実の伝達」に伴う、妨害や圧迫に対して、その意志の貫徹のために、「経営権」に対置されたものである。しかし、「真実の伝達」が必ずしも絶対条件ではなくなってきた、〝マスコミとしての新聞〟にとっては、それは床の間の置物と化してきているのである。

新聞経営の健全なあり方として、購読料収入と広告料収入の比率が、六対四であることがのぞましい、といわれるのは、すなわち、「編集権」の独立のための、裏付けなのであって、現在の四対六という比率は、すでに、「編集権」が「経営権」に隷属していることを示している。つまり、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。

では、〝マスコミとしての新聞〟とは、一体、何であろうか。

マス(多数)にコミュニケート(伝える)する新聞である。新聞の一枚、一枚が、テレビの受像機と同じ意味でしかなくなり、朝日とか読売、毎日といった題号は、テレビのチャンネルと同じ意味しかない。ただ、電波を媒体とするか、活字を媒体とするかの違いだけである。

電波を媒体にすることによって、時間と空間とがゼロになるのに対し、活字媒体であるということは、新聞の一枚、一枚が印刷されるという工程のためと、その新聞紙が輸送されるために、時間と空間とは、相当程度に圧縮はされ得るが(各家庭、各職場にファクシミリが設置されることは、まだまだ、将来のことである)、決してゼロにはならない、という、本質的な差違であるだけである。

この物理的差違が、電波媒体の速報性とか臨場感に対し、活字媒体の随時性や記録性とかいった、機能的な差違をもたらす。しかし〝マス・コミとしての新聞〟は、これらの差違以外の〝マス・コミュニケーション〟としては、もはや、ラジオやテレビと全く同じものなのである。

すなわち、送り手の主導者は、テレビ受像機に相当する〝新聞紙〟の部数を確保し、拡張する、販売・広告担当者であって、記者と編集者ではない。部数が巨大でなければ、大衆伝達の効果が小さいから、もちろん、広告主もつきにくいし、広告料も高くはとれなくなる。発行部数が巨大化すればするほど、広告収入が増大し、広告は売り手市場になる。

正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 記事紙面は広告紙面の〝刺し身のツマ〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 かつて、読売の小島文夫編集局長が「記事がよいからとっている、はわずか五%」と、迷言を吐いた。当時は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 かつて、読売の小島文夫編集局長が「記事がよいからとっている、はわずか五%」と、迷言を吐いた。当時は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であった。

従って、記事紙面は広告紙面の〝刺し身のツマ〟なのであるから(刺し身のツマは、決して主役ではないが、旨いものもあって、やはり、なくてはならないものである)、ラジオ、テレビ番組における、番組自体とCMの関係とは、逆の立場になる。

するとやはり、「送り手」としては記者、編集者は、電波の編成局員よりも、小さな領域しか占めることはできない。何しろ、各種の調査でも「受け手」である大衆の、テレビに与える時間と、新聞に与える時間とは、大きく開いていることは、疑う余地がない。

そこで、新聞は、「受け手」である読者を、一定期間にわたって〝確保〟する、必要に迫られてくるのである。確保しておかねば、発行部数の巨大化が維持できないからだ。そのためには、「宅配制度」がどうしても必要なのである。

電波の受け手である大衆は、番組によって自由にチャンネルをまわす。瞬間、瞬間によって、番組の選択権を「受け手」が持っているのである。

ところが、新聞については、受け手の読者には、その選択権がないのである。あったとしても、極めて緩慢な、月単位のそれであって、それも決して自由ではない。なぜかならば、従来とっていた新聞をやめて、他の新聞に切りかえるためには、販売拡張員や配達員との間の、うるさい〝人間的関係〟が発生するからである。この心理的束縛感は、テレビのチューナーを廻すほど、自由ではない。

受け手に選択権が握られているか、いないか、ということは、同時に、送り手には、それぞれに緊張と怠惰とをもたらす。電波の送り手は、毎時毎分に、批判にさらされているのだが、新聞の送り手は、緩慢な批判にしかあわない。そこに、記者、編集者が、送り手としては、販売、広告などの営業担当者より、低い地位にあることの理由がある。

かつて、読売の小島文夫編集局長(故人)が、組合との団交の席上、「会社の調査では、読売の読者のうち、『社主の魅力』でとっているのが四〇%、『巨人軍』でとっているのが二〇%で、『記事がよいからとっている』というのは、わずか五%ぐらいだ」と、迷言を吐いて問題となったことを前に述べた。

当時(昭和四十年六月)は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたものだったが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であったわけである。

それを実証しているのが、朝日の紙面と発行部数の増加との関係である。あれほどに、デタラメな紙面を作っていながら、当面の責任者は、何らお構いなしで、しかも、部数は増加しているのである。

ということは、読売のみならず、朝日の場合でも、〝記事がよいからとっている〟のは五%以下なのであろうか。かくの如く、読者の自由な選択権を封殺する、「宅配制度」に守られて、巨大化を続けてゆく「新聞」であってみれば、〝紙面〟はその存在価値にほとんど影響を与えてお

らず、それこそ、販売関係者の心意気を示す〝古語〟であった、「朝日新聞と題号さえついていれば、白い紙でも売ってみせます」という言葉が、全く別の語意で生きていることを、思い知らされるのである。「破廉恥」が「ハレンチ」となって生きてくる時代であるからこそに……。

正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 三社のうちでは最下位の毎日

正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 従業員一人当り部数。新聞経営の健全な形一人当り千部といわれている。読売の七三三部が一番ラクで、毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 従業員一人当り部数。新聞経営の健全な形一人当り千部といわれている。読売の七三三部が一番ラクで、毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.364

それを実証しているのが、朝日の紙面と発行部数の増加との関係である。あれほどに、デタラメな紙面を作っていながら、当面の責任者は、何らお構いなしで、しかも、部数は増加しているのである。
ということは、読売のみならず、朝日の場合でも、〝記事がよいからとっている〟のは五%以下なのであろうか。かくの如く、読者の自由な選択権を封殺する、「宅配制度」に守られて、巨大化を続けてゆく「新聞」であってみれば、〝紙面〟はその存在価値にほとんど影響を与えてお

らず、それこそ、販売関係者の心意気を示す〝古語〟であった、「朝日新聞と題号さえついていれば、白い紙でも売ってみせます」という言葉が、全く別の語意で生きていることを、思い知らされるのである。「破廉恥」が「ハレンチ」となって生きてくる時代であるからこそに……。

これが、「マスコミとしての新聞」の姿であって、「既成概念の新聞」と、全く区別されなければならないのである。と同時に、現在はまだ、その両方が入りまじった過渡期の時代でもある。

過渡期ではあるが、〝マスコミとしての新聞化〟現象は、この昭和四十年代の中盤期に入って、いよいよ進行していることは、各紙発行部数表(表1)にみる通りである。

五社発行部数表(表1)

少し古い数字で恐縮だが、昭和四十三年十月現在の数字で、その直後の十一月からの値上げ後の影響は、まだわからない。しかし、昭和四十年十月の前回値上げ後も、各紙は部数増加を続けていることが、表にみる通りで唯一の例外として、サンケイ大阪が二万八千余部の減紙となっている。

表中の従業員数は、新聞年鑑によったもので、参考までに、「一人当り部数」を算出してみた。新聞経営の健全な形の常識として一人当り千部といわれているのだから、読売の七三三部が一番ラクで、三社のうちでは、最下位の毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。

そして、たとえ〝四大紙〟と誇号していても、サンケイの百八十三万部、従業員一人当り四三三部という数字は、大新聞としての戦列から落伍し、命運すでにつきた感がするのを否めない。しかも、この表からは、大阪版の二・九%の減紙しかわからないが、昭和三十九年十月の数字でみれば、相当な減紙であって、急坂を転がりおちている実情である。

ついでなので、日経の数字も掲げたが、この一人当り四七〇部というのは、数字は低いけれども、読者が固定していて流動せず、販売経費がかからないのと、広告の増収という〝含み資産〟があるので、一般紙の数字と同じモノサシでは計れないことを、お断わりしておこう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 朝日と読売との一大激突

正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 東京、大阪の二大決戦場。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開している
正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 東京、大阪の二大決戦場。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開している
正力松太郎の死の後にくるもの p.366

ここ数年で読売が一位に……

さて、問題は、朝日と読売との一大激突である。ともに、五百万台という大台にのり、その差はわずか四十万部(正確には、四〇一、九〇七部)である。(表2)をみていただきたい。発行所別にまとめてみた。

朝・読 発行所別部数(表2)

第四項の「比較部数」というのは、朝・読のどちらが、どれだけ多いかというのは、該当社の欄にプラス記号+で示した。これでみると、朝日は大阪、名古屋、西部の三発行所で読売をリードしているが、東京、北海道は負けており、関東以北に強いという読売の伝統はくずれていない。もっとも、読売は名古屋がなくて北陸なのでこのところは比べられないし、朝日の三十六万に対し、読売九万という、勝負にならない数字である。

特に面白いのは、東京、大阪の二大決戦場である。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。

ところが、東京、大阪での両社の伸び率をみると、東京では、朝日十七%に対し、読売十三%。大阪では、朝日十二%に対し、読売十七%と、それぞれ逆になっている。ということは、大阪では読売が、東京では朝日が、それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開しているということである。つまり、攻撃側の方が懸命の戦いをしかけているので、伸び率が高いということを物語る。

しかし、東京での伸び率の朝日十七%対読売十三%で、四十七万の差があるのにくらべると、大阪で朝日十二%対読売十七%で、二十五万の差というのでは、大阪での読売の追いあげの凄まじさが、しのばれるというものである。

ことに、北海道をみると、四十年の朝日十三万対読売十二万という、ほぼ同数だったものが

三年後には逆転して、読売がリードを奪っており、しかも伸び率が、朝日の二十六%に対して、読売は五十%、約倍の高率である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 エイムズ(AYMS)という新しい言葉

正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。新聞界の序列AYMSは、サンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。新聞界の序列AYMSは、サンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。

しかし、東京での伸び率の朝日十七%対読売十三%で、四十七万の差があるのにくらべると、大阪で朝日十二%対読売十七%で、二十五万の差というのでは、大阪での読売の追いあげの凄まじさが、しのばれるというものである。
ことに、北海道をみると、四十年の朝日十三万対読売十二万という、ほぼ同数だったものが

三年後には逆転して、読売がリードを奪っており、しかも伸び率が、朝日の二十六%に対して、読売は五十%、約倍の高率である。

西部と名古屋(読売は北陸)では、朝日の優位は読売をよせつけないほどであるが、少くとも、大阪の形勢をみると、もう数年で逆転の可能性が認められる。現在の差(総部数)の四十万部ほどは、大阪で読売が首位を奪取すれば、ラクにつめられるほどの小差なのだから、この成り行きは興味深いものがある。

こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。そして、もし毎日が現在の四百万台を割るようであれば、サンケイのように、急速な転落の道をたどることになろう。

世帯数増加の正確な数字がないので、断言するのをはばかるが、新聞購読人口はほぼ頭打ちの状態にあり、世帯数の伸び率以外には他紙をさん食しなければ、伸びないといわれている。従って、朝・読の巨大化の第一の犠牲がサンケイということになる。

エイムズ(AYMS)という、新しい言葉が使われはじめている。新聞界の序列を示すものなのだが、朝(A)読(Y)毎(M)はわかるとしても、最後のSは、残念ながらサンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。

そして、毎日はどうか。朝、読との闘いを諦らめた毎日は、編集出身の田中会長の統卒下にあ

るらしく、「広報伝達紙」たることを避け、本来の意味での「新聞」に立ちもどりつつある。

最近の毎日新聞の紙面は、権力に抵抗し、ヤミ取引を排除して、清新、爽快なものに変りつつあることは事実だ。四百万の大台を割り、二百万、百万と下っていっても、私は、この毎日新聞の進む道を壮としたい。このような新聞こそ、明日の日本という、民族と国家とのために、必要欠くべからざるものなのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき

正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき
正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき

あとがき

この稿は、月刊「現代の眼」誌と、月刊「軍事研究」誌とに、「現代新聞論」と銘打って連載したものを、想を新たにして書き改めたものである。

読売を退社してから、はじめて「新聞」を客観的にみることを知り、現場からの〝新聞論〟を書きたいと、考えていた。新聞は、依然として、マスコミの王座にあって、放送その他をリードしているからである。

そんな時、「現代の眼」の榊原編集長と語りあって、四十年九月号から同誌に連載のつもりで、まず「読売の内幕」(八十枚)を書いた。その反響は、同社の社長を驚かせたらしい。一発で中止になった。翌年四月号に、編集長の独断で「毎日の内幕」(八十枚)が掲載されたが、以後は全く絶望的であった。

こんなふうに、「真実を伝える」ということには、勇気が要り、困難が伴うものだ。

やがて、四十三年夏、軍事研究社の小名社長から話があり、再び、連載の約束をとって執筆を

はじめた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき)

正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき) 著者紹介 奥付
正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき) 著者紹介 奥付

やがて、四十三年夏、軍事研究社の小名社長から話があり、再び、連載の約束をとって執筆を

はじめた。同誌九月号から、本年三月号まで七回で「朝日の内幕」(二百八十枚)を、つづいて、本年六月号から「読売の内幕」をと、書きつづけている。

そこに、正力さんが亡くなった。これを機会にと、創魂出版にすすめられて、改めて一本にまとめたという次第である。

その間に、私は、四十二年元旦付から、大判二貢の「正論新聞」という、小さな旬刊の一般紙を、独力で出しはじめた。正統派の小新聞を、業界紙や恐かつ紙しかないこの日本の国で、育ててみたいと思ったからだ。幸い、この〝未熟児〟は、読売の諸先輩はじめ同僚たちの声援で、ともかく、この三年間で七十号を重ね、第三種郵便物の認可も得、日本新聞年鑑にも登載されて、順調に育ちつつある。この実践活動の中から生れたものなので、〝現場からの新聞論〟という所以だ。

それにしても、正力さんという人は、偉い人であった。彼を批判することとは別に、その偉大さにはうたれるものが多い。

この書を、私を新聞記者として育てて下さった正力さんの霊前に、感謝と追慕の念をもって、捧げることのできる私は、また何と幸運な男か、と感じている。

昭和四十四年十二月一日                  三 田 和 夫

著者紹介
1929年/盛岡市に生まれる。
1943年/日大芸術科卒業、読売新聞入社。
1958年/読売新聞を退社。
現在/評論、報道のフリーのジャーナリストとして執筆活動を続けるかたわら、一般旬刊紙として「正論新聞」を三年前に創刊。ひきつづき主宰している。
著書/東京コンフィデンシャル・シリーズ「迎えにきたジープ」「赤い広場—霞ヶ関」 (1956年刊) 「最後の事件記者」(1958年刊)「事件記者と犯罪の間」(現代教養全集第5巻収録)=文春読者賞=(1960年刊)「黒幕・政商たち」(1968年刊)
現住所/東京都新宿区西大久保1の361 金光コーポ505号

正力松太郎の死の後にくるもの
定価 480円
1969年12月15日 第1版発行
著者 © 三 田 和 夫
発行者 峰 村 暢 一
印刷所 株式会社 鳳 翔
発行所 株式会社 創 魂 出 版
東京都新宿区左門町2 四谷産業ビル403号
電話 東京(359)8646
郵便番号 160
振替 東京71352番
落丁・乱丁本はおとりかえいたします

正力松太郎の死の後にくるもの あそび紙 見返し 裏表紙 そで 背 腰巻

正力松太郎の死の後にくるもの あそび紙
正力松太郎の死の後にくるもの あそび紙
正力松太郎の死の後にくるもの 見返し
正力松太郎の死の後にくるもの 見返し
正力松太郎の死の後にくるもの 裏表紙 腰巻
正力松太郎の死の後にくるもの 裏表紙 腰巻
正力松太郎の死の後にくるもの 見返し カバーそで
正力松太郎の死の後にくるもの 見返し カバーそで
正力松太郎の死の後にくるもの 背 腰巻背
正力松太郎の死の後にくるもの 背 腰巻背
正力松太郎の死の後にくるもの カバー 腰巻
正力松太郎の死の後にくるもの カバー 腰巻

読売梁山泊の記者たち 表紙 戦後・新聞風雲録 三田和夫

読売梁山泊の記者たち 表紙 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita (デザイン背景は三田和夫原稿筆跡)
読売梁山泊の記者たち 表紙 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita (デザイン背景は三田和夫原稿筆跡)
読売梁山泊の記者たち 腰巻 作家・大下英治「昭和二十年代、読売新聞は社会部全盛時代。そこには強烈な個性を持った名物記者たちが、梁山泊さながらに群れ集っていた。そのひとりの、〝最後の事件記者〟といわれる著者が経験した事件を通して、新聞記者のロマンと哀愁と非情とを語る。読み始めたらやめられない面白さである。」
読売梁山泊の記者たち 腰巻 作家・大下英治「昭和二十年代、読売新聞は社会部全盛時代。そこには強烈な個性を持った名物記者たちが、梁山泊さながらに群れ集っていた。そのひとりの、〝最後の事件記者〟といわれる著者が経験した事件を通して、新聞記者のロマンと哀愁と非情とを語る。読み始めたらやめられない面白さである。」

読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状

読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状01
読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状01
読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状02
読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状02
読売梁山泊の記者たち (見返しに挟み込み) あいさつ状03 正論新聞25周年パーティに合わせて本書を発行し、来訪者へのおみやげのひとつとして贈呈したことがわかる。文中でふれている縮刷版刊行と35周年(没年の前年に当たる)パーティは実現しなかった。
読売梁山泊の記者たち (見返しに挟み込み) あいさつ状03 正論新聞25周年パーティに合わせて本書を発行し、来訪者へのおみやげのひとつとして贈呈したことがわかる。文中でふれている縮刷版刊行と35周年(没年の前年に当たる)パーティは実現しなかった。

(見返し挟み込み あいさつ状)

本日は、ご多忙中にもかかわらず、「正論新聞の二十五年を祝う会」に、ご臨席を賜りまして、誠にありがとうございました。

厚く御礼を申しあげます。

いかがでございましたでしょうか。パーティーは、お愉しみいただけましたでしょうか。

同封にて『読売・梁山泊の記者たち』(正論新聞連載「原四郎の時代」改題)(紀尾井書房刊)を、お届けいたします。

年寄りの繰り言、などとおっしゃらずに、温故知新のお気持で、この新聞の変革期に際して、心新たにお目通しいただければ、幸甚と存じます。

また、正論新聞(第六〇七号)も添えました。明年には、創刊号以来の縮刷版を刊行いたす計画でございます。

いずれにせよ、新世紀になります十年後には、今日にひきつづき「三十五年を祝う会」で、みなさまのお元気なお顔に接する喜びをご一緒したいと願っております。

本日は、ほんとうにありがとうございました。

平成三年十一月二十六日

発起人一同

三田 和夫

読売梁山泊の記者たち 見返し(あそび紙)-p.001 本文扉

読売梁山泊の記者たち 見返し(あそび紙)-p.001本文扉 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita
読売梁山泊の記者たち 見返し(あそび紙)-p.001 本文扉 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita

読売梁山泊の記者たち p.002-003 献詞 三田和夫

読売梁山泊の記者たち p.002-003 献詞 平成三年十一月二十六日 三田和夫
読売梁山泊の記者たち p.002-003 献詞 平成三年十一月二十六日 三田和夫

献詞

平成三年十一月二十六日  三田和夫

もう、半世紀にもなろうという、昔、
昭和十八年十月一日。
大観の富士山が飾られた社長室。
正力松太郎社長から、親しく辞令を受け、
私の人生が、決定づけられました。

そして、戦後の二十年代、
「社会部の読売」という名声が、
朝・毎時代から、朝・毎・読の時代へ。
さらに、朝・読の時代を経て、
一千万部の読売新聞が、築かれました。

それも、これも、
販売の務臺光雄、紙面の原四郎という、
二人の巨人が、
大巨人・正力松太郎の衣鉢を継いだから、
だと思います——。
然るに、噫…、
お三方ともに、
すでに、幽明、境を異にされました。
ここに、本書をもって、
先哲の事蹟を明らかにし、
鎮魂の詞(ことば)といたします。

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01
読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01

序に代えて 務臺没後の読売

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
覇道を突き進む読売・渡辺社長 

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

戦地から復員、記者として再出発
「梁山泊」さながらの竹内社会部
記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々
帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋
争議に関連して読売を去った徳間康快 

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

いい仕事、いい紙面だけが勝負
カラ出張とねやの中の新聞社論
遠藤美佐雄と日テレ創設秘話
「社会部の読売」時代の武勇伝
あまりにも人情家だった景山部長 

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ
スパイ誓約書に署名させられた実体験
幻兵団を実証する事件がつぎつぎと
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
近代諜報戦が変えたスパイの概念

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」
国際ギャングによる日本のナワ張り争い
戦後史の闇に生きつづけた上海の王
警視庁タイアップの華麗なスクープ

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次(つづき) 章扉

読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次02 序に代えて 務臺没後の読売(扉)
読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次02 序に代えて 務臺没後の読売(扉)

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

政治的思惑で立松を利用した河井検事
もしデマのネタモトを暴露していたら…
事件の後始末、スター記者時代の終わり

第六章 安藤組事件・最後の事件記者

ころがり込んできた指名手配犯人
犯人を旭川へ、サイは投げられた
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ

あとがき

序に代えて 務臺没後の読売

読売梁山泊の記者たち p.012-013 池島信平社長が会いたいと

読売梁山泊の記者たち p.012-013 「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」
読売梁山泊の記者たち p.012-013 「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺

「アイ・シャル・リターン!」

この言葉は、マッカーサー元帥が、日本軍に追われて、フィリピンを脱出する時の、有名な言葉である。そして、マ元帥は、その言葉を実行した。

読売新聞広告局長、氏家斎一郎もまた、日本テレビに出向してゆく時、離任の挨拶で、「アイ・シャル・リターン!」と叫んだが、彼はついに再び読売新聞に、その名を刻することはなかった。

私は、昭和十八年十月一日の読売入社。四年の兵隊、捕虜で、二十二年十月復員、復社した。社会部一筋で、三十三年七月、横井英樹殺害未遂事件で、安藤組員の犯人隠避事件を起こして、自己都合退社した。のち、昭和四十二年元旦から、独力で「正論新聞」を創刊、二十五年が経過して、現在にいたっている。

そして、氏家と具体的に関係のできたのが、読売を退社して、正論新聞を創刊してからであった。

読売を退社してから、私は文筆業として、原稿を書き出していた。だが雑誌原稿で生計をたてることの難しさは、すぐにやってきた。

警視庁の留置場に、妻からの連絡で月刊「文芸春秋」誌に「安藤組事件の原稿を書いてくれ」という、依頼があったので、二十五日間の生活が終わって、保釈出所すると、すぐ田川博一編集長に会いにいった。

「タイトルは『我が名は悪徳記者』で、サブ・タイトルは事件記者と犯罪の間、でいきましょう。何枚でもいいです。書きたいだけ、書いてみてください」

田川は、話が終わったあと、語調を変えていった。

「三田クン、西巣鴨第五小学校の六年生で、一年間一緒だった田川だよ」

「ア、転校してきた、田川!」

意外な縁に驚きながらも、私は百五十枚の原稿を書いた。と、田川から社に来てくれ、という電話があった。

「原稿、ツマランですか?」

「イヤ、おもしろいんだよ。だけど、池島信平社長が会いたい、と…」

その話も終わらないうちに、ドアをあけて、池島が入ってきた。

「オイ、三田クン、キミは五中だナ」

「ハイ、十六回卒業です」

「オレは、第一回、先輩だよ」

「ハイ、お目にかかるのは初めてですが、読売の竹内社会部長も第一回卒ですので、お名前は存じあげてました」

「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」

読売梁山泊の記者たち p.014-015 中央に児玉右側に渡辺恒雄

読売梁山泊の記者たち p.014-015 児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。」
読売梁山泊の記者たち p.014-015 児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。」

その話も終わらないうちに、ドアをあけて、池島が入ってきた。

「オイ、三田クン、キミは五中だナ」

「ハイ、十六回卒業です」

「オレは、第一回、先輩だよ」

「ハイ、お目にかかるのは初めてですが、読売の竹内社会部長も第一回卒ですので、お名前は存じあげてました」

「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」

「……」

「ナ、いいだろう?」

「ハ、ハイ」

私は、読売記者のカンバンを外してからの、第一回の作品で、早くも、新聞社と雑誌社の違いに、直面したのだった。…が、内心、池島の話のもっていき方のウマさに、驚いていた。

「アノ部分も載せたいけれど、オレに面会を求めてくる連中が、ウルサイんだよ」

そして、「財界」誌。さらに、「現代の眼」誌…。私が書く時事モノは、媒体各社でトラブルが続出した。ホントウのことを書けば、モメるのだ。

…そして私は、ついに、雑誌に原稿を書くことに、限界を感じていた。自分がライターであり、エディターであり、パブリッシャーであること…それ以外に、真実は書けない、と。

そうして、私は「正論新聞」の創刊を考えた。紙面の目玉は、児玉キャンペーン。昭和四十一年の〝黒い霧〟解散のころ、児玉の勢力の絶頂時代に、まさに、蟷螂(とうろう)の斧を振るわんとしているのだった。

その第四号。昭和四十二年八月一日付で「九頭竜ダム疑惑」を取り上げた。水没補償問題で、政治家を渡り歩いていた、緒方克行という男(のちに、「権力の陰謀」という著書を出して、真相をブチまけた)に出会って、詳しい話を聞いたからだ。

十二月二十七日、児玉から緒方に電話があって、「話のメドがついたから現金一千万円を持ってこい」という。

児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。

緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。

「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。(一千万円のうちから、三百万円を取り出し)この分はこの男(渡辺を指した)の関係している、弘文堂という出版社の株式にするからな」

緒方の話を聞いていて、私は考えこんでいた。渡辺も氏家も、交際はなかったものの、顔見知りの仲である。果たして、書いたものか、どうか。私情ではなくとも、いきなり背後からバラリ、ズンと斬れるものではない。

妙案が浮かんだ。かつての社会部長で、七年間もその下で仕事をした原四郎が、二人の上司で編集局長である。

「そうだ。原チンに下駄を預けよう」

読売に原を訪ね、「九頭竜ダムを取材していたら、渡辺と氏家の名前が出てきたんです」

緒方の話を詳しく伝える間、原は黙って聞いていた。聞き終わって、

「お前、その話はホントか?」

「部長、イヤ、局長。あなたは七年間も使っていた私の、取材力を疑うんですか。ホントか、はないでしょう!」

しばらくの沈黙ののち、原は「本人たちの話を聞いてからにしよう」と、その日の結論を出した。

読売梁山泊の記者たち p.016-017 傲岸不遜な渡辺も、鞠躬如

読売梁山泊の記者たち p.016-017 鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。
読売梁山泊の記者たち p.016-017 鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。

しばらくの沈黙ののち、原は「本人たちの話を聞いてからにしよう」と、その日の結論を出した。

その夜、渡辺から電話がきた。

「局長に呼ばれて、叱られたよ。ともかく名前だけはカンベンしてよ。明日、逢いたいんだ。中曾根にも会ってくださいよ。将来、総理になる男だから知っていてソンはないよ」

翌日、約束の場所にいってみると、氏家がきていた。

「ナベさんは、仕事でどうしても来られないんです。局長には、『お前たち同じカマの飯を食った仲だから、お前たちで片づけろ』といわれました。

で、ともかく中曾根に会って、彼の話を聞いてやってよ。知っておいて悪い男じゃないんだから」

「中曾根に、どんな質問をしてもよいというなら、会ってもいいよ」

原に会った時のフンイキや、お前たちで片づけろ、という返事など、私はやはり実名は出せないナと、そう考えていたので、中曾根会見を承知した。その話は省略するが、いかにも、中曾根らしい返事だった。

この時以来、渡辺、氏家の二人三脚は、東大以来つづいているのだ、と感じていた。

だが、昭和四十九年名簿でみると、氏家は一等部長の経済部長、渡辺は三等部長の解説部長。昭和五十年には、氏家は広告局長、渡辺は編集局長の下の五番目のドンジリ局次長。

昭和五十二年では氏家が取締役広告局長、渡辺はやっと、編集局長の次の次の編集総務である。氏家にドンドン先を越されているのだから、おもしろかろうハズがない。

昭和五十七年では氏家の名前がない。日本テレビの専務に出ていった時の挨拶が、冒頭のアイ・シャル・リターンで、読売に帰ってくるぞ、ということだ。

渡辺はこの時、務臺代取会長から数えて、八人目の常務・論説委員長。先輩の編集総務だった水上達也は、渡辺の次の次で、ヒラ取・編集局長だ。

その二年後――昭和五十九年に、日本プロ野球五十年、すなわち、巨人軍の五十周年記念パーティが、ホテル・ニューオータニで盛大に催された。

専務取締役・主筆・論説委員長になって、六番目に栄進していた渡辺が、ファンファーレとともに、時の総理大臣・中曾根康弘を先導して、鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。待ち受けているのは、代表取締役・名誉会長の務臺光雄。

わざわざ、事典をひいて、〝鞠躬如〟という言葉を使ったのは、「身をかがめ、恐れ慎んでいるさま」(新潮国語辞典)そのままだったからである。

もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。

この年の名簿が、手許にないのだが、昭和六十年では、務臺の肩書は代取・名誉会長になっている。多分、この五十年パーティの時も、ひとたび剥がれた代取を、もう取り戻していた、と思う。つまり、あの傲岸不遜な渡辺も、務臺の前では、〝鞠躬如〟だったのである。

かつて、読売新聞では、ヒラの政治部記者・藤尾正行が、傲岸不遜の代表であった。その頃、小田

急梅ケ丘駅で、時の政治部長・古田徳次郎と藤尾、そして私の三人が、朝一緒になったことがある。