例えば、従来まったくノー・コメントの態度をとっていた代表部が、二十六年六月三十日、 日本の新聞記者の代表として、左翼勢力が〝ブル新〟ときめつけていたうちの一つである共同通信社をえらび、藤田記者単独で正式に会見をしたのである。
どうして代表部が、この画期的な〝正式会見〟に記者団会見を行わず、共同通信だけをえらんだか? ということはいろいろな理由が考えられた。
当時は、日本の三大紙といわれる、朝日、毎日、読売三社も、共同通信社に加盟していたので、共同のニュースは全日本の新聞に流れるということも、その理由の一つでもあった。しかし、アカハタをはじめとする左翼系機関紙には、共同のニュースは流れないのである。通信社としては、他に時事通信社もある。いわばこの大特ダネを、どうして共同だけが独占できたかという疑問は、他の新聞社の記者たちのハギシリを尻目に、ふたたび現れたのであった。
すなわち、講和発効後、同社元モスクワ特派員、編集局次長坂田二郎氏が、はじめての日本人記者としてモスクワ入りをして、いまや共同通信社を脱退していた三大紙を口惜しがらせたのである。
藤田記者の単独会見、坂田記者の初のモスクワ入りと、相次ぐ〝事件〟の前に「外事特高」
と呼ばれて、対ソ関係に敏感な治安当局では、ようやく首をかしげはじめた。
一方、さる二十七年暮の鹿地・三橋スパイ事件で、はじめてソ連引揚者の重要な役割に気付いた当局では、今更のごとくあわてて、ソ連引揚者について真剣な研究をはじめ、個人カードの作製をはじめていた。これぞと思う引揚者の在ソ経歴、帰国後の履歴を詳細に調べて個人カードを作り、その一連の動きを観察して、方向をつかもうというのである。
こうして当局が地味な捜査をつづけているうちに、ある一人の引揚者によって、意外な〝偽装結婚〟の告白を得たのである。その引揚者(特に名を秘す)は次のようにその体験を語っている。
……結婚の翌日、私は病弱者として日本へ帰される事になりました。何が何だか分らない突然の命令だったのです。私は彼女とのあわただしい別れを借しみました。彼女はいいました。
『また、東京で! 九段の大村益次郞の銅像前で!』
もはや、私は彼女のいうがままでした。そして私が大村銅像前で逢ったのは、もちろん彼女ではありませんでした。そのソ連人は、いいました。
『彼女はその後、お前の子供を産んだ。彼女は子供と一緒に、お前が再び訪ねてくる日をたのしみにモスクワで働いている』