鹿地・三橋スパイ事件」タグアーカイブ

迎えにきたジープ p.000-001 佐々木は殺されたのです!

迎えにきたジープ p.000-001 The Kaji and Mitsuhashi spy cases were making a noise in 1952. I was visiting the bereaved family of Katsumi Sasaki, who was known as a liaison of the spy cases.
迎えにきたジープ p.000-001 The Kaji and Mitsuhashi spy cases were making a noise in 1952. I was visiting the bereaved family of Katsumi Sasaki, who was known as a liaison of the spy cases.

悲しき独立国民

一 默って死んだ日本人

鹿地・三橋スパイ事件が騒がれていた、昭和二十七年暮のある日のこと。私は三橋自供にレポとして名前の浮んできた佐々木克己氏の遺族を訪ねていた――

清子未亡人はツト顔をあげた。品の良い、まだお嬢さんらしいあどけなさの残っている頬に涙の跡が乾いている。耳のあたりから口許へと引かれた、深い深い苦悩のかげがいたましい。力強い高い言葉がこみあげてきたが、それが唇をついて出るころには、永年のたしなみがそうさせるのであろうか、叫びにはならないで低い呟きとなって訴える。

『誰が、誰が、この貧しくとも愉しい家庭から、幸福と平和とを奪ったのです! そうです、形は自殺でした。用意周到な覚悟の自殺でした。では、何故、佐々木は死なねばならなかったのです。妻と二人の子供とを残して……

佐々木は殺されたのです。そうですとも、殺されたのです。私も、子供たちも、そう信じています! 誰かが殺したのです!』

迎えにきたジープ p.168-169 幻兵団の一切を裏付け証明した

迎えにきたジープ p.168-169 This Kaji-Mitsuhashi spy case occurred in Tokyo, the capital of Japan, an independent country. But this struggle was between the US and Soviet Union. Moreover, the foreigners were forcing Japanese to become spies by threatening them.
迎えにきたジープ p.168-169 This Kaji-Mitsuhashi spy case occurred in Tokyo, the capital of Japan, an independent country. But this struggle was between the US and Soviet Union. Moreover, the foreigners were forcing Japanese to become spies by threatening them.

そして、この事実は元の参謀本部陸地測量部、現在の建設省千葉地理調査所で、正確な日本

地図を作らせて、タウン・プラン・マップと同様の地図を作ったことがあった(と私は思う)ということで裏付されるだろう。日本もまた、シベリヤ、樺太、大陸の各都市と同じように、「ST四三二一、消滅!」といった工合に、精確無比な爆撃を受ける可能性があるということである。

迎えにきたジープ

一 怪自動車の正体

二十五年十一月に発刊された赤沼三郎(政治評論家、花見達二氏のペンネームだと言われている)なる人の「新聞太平記」という著書をみると、戦後の各種事件についての項で、幻兵団の記事をこう取上げている。

ソ連捕虜をめぐる幻兵団事件というのも謎の話題で、未解決のままになっているが、これも読売社会部の三田記者(引揚げ者)の体験から、一群の〝スパイ強制団〟がソ連に居り、また引揚者の中にもいる、という事件であった。しかも、それを裏切ったものには恐ろしい脅迫状が来る、というのだ。

そして脅迫状は読売自身にも舞込んだ。読売はその脅迫状を凸版写しで社会面に掲載した。全く怪奇な

ニュースであるが、これには東京地検の阿部検事正や、自由党政調会の橋本竜伍氏などが、国際的見地からこの話題の拡大と追求は好ましくないというので、各方面をいろいろ奔走していた事実がある。

一面またこの問題をタネに名を売りこんで、参議院選挙に出る仕度をしていた男なども入り交って、幻兵団(魂を売った兵団の意味)事件は、曉に祈る吉村隊事件とは別の意味で近来の変り種であった。

〝謎の話題は未解決のままにはなって〟いたのであったが、二十七年暮、突如として大問題となった鹿地失踪事件が起き、それは一転して三橋スパイ事件に進展、いよいよ世界の耳目を集めたのだったが、三橋スパイ事件こそ、幻兵団の一切を裏付け、証明したものであった。

謎の話題は、恐しい話題となって解決したが、解決しない幾つもの問題が残された。それは、この鹿地・三橋スパイ事件は、独立国日本の首都東京で起き、登場した二人はともに日本人であるのに、この斗いを争っていたものは米ソという外国で、米ソの外国人が脅迫で日本人に強制していたということである。

そしてまた、この搜査に当ったスパイ事件の国警本部と、不法監禁事件の警視庁という、二つの有力な治安当局もまた、ついに真相を究明し得なかったということである。

真相を知っているのは、米ソ両国だけである。幻兵団というナゾの話題は、どうして恐しい話題になったのだろうか。ここで再び序章にのべた〝国際スパイ戦の道具にされた日本人〟佐

々木大尉とキスレンコ中佐との間の、奇しき因縁の物語を想い起してみよう。

迎えにきたジープ p.172-173 鹿地問題〝英文の怪文書〟

迎えにきたジープ p.172-173 Wataru Kaji says. "I was arrested during the walk. I was hit by several military person. I was handcuffed, blindfolded, and transported somewhere by car. I was hit on the knee with a stick in the car."
迎えにきたジープ p.172-173 Wataru Kaji says. “I was arrested during the walk. I was hit by several military person. I was handcuffed, blindfolded, and transported somewhere by car. I was hit on the knee with a stick in the car.”

さらにそれから一ヶ月後、一月二十九日の発信で、簡単に近況を報じて、『多分近日中に帰れると思います』という、前回と同じような書簡が、東京上落合の夫人宛配達されたが、それっきり音沙汰もなく九ヶ月という月日が経過した。

ところが、二十七年の総選挙も近づいた九月二十四日、大阪の国際新聞など一部の新聞に、〝英文の怪文書〟なるものが届けられて、一躍鹿地問題は、ジャーナリズムの表面に浮び上って来た。その全文は次の通りである。

作家並びに政治評論家として著名な鹿地亘氏は、一九五一年十一月二十五日以来、行方不明となっている。彼は手術をうけた後、神奈川県の鎌倉市に近い鵠沼で療養中であった。失踪当時は町の近在を、二十分間散歩する位にまで回復していた。そして彼は散歩の途中に行方不明になったのである。

しかし、本当に行方不明になったのではない。彼はワシントンに直結し、現在第一ホテルに宿泊中の米陸軍情報将校のG大佐に誘拐されたのだ。G大佐は中共のスパイという嫌疑で鹿地氏を捕えたが、彼は種々の反証をあげてこれを否認した。(中略)

鹿地氏は密告者によるねつ造された訴えで逮捕されたのである。密告者は、戦後アメリカから帰国した日本人牧師である。(中略)

逮捕後数週間、鹿地氏は非人道的で残忍な拷問を受けた。そして、一度野蛮な取扱いに抗議するために、便所でクレゾール液を呑んで自殺を企てたこともあった。

中共スパイとしての証拠を挙げることに失敗したので、G大佐は本年五月、遂に鹿地氏を釈放しようとした。

その時偶々日本に赴任して来たマーフィ大使は、鹿地氏の処置方法をG大佐に指示した。鹿地氏をアメリカのスパイとして日本共産党に入党さすべく、説得することになったのである。

この戦術転換の後、彼は〝賓客〟として取扱われるようになった。しかし嘆願や脅迫にも拘らず、彼はこれまでの凡ゆる提案を拒絶して来た。(下略)

夫人への手紙には、何者かに強制された作為が感じられ、ヘタクソな英文で綴った怪文書にも何か不自然さが感じられる。

ではこの間の消息を、鹿地氏自身の口から聞いてみることにしよう。

私は昨年十一月二十五日の夕食後の七時過ぎ、散歩中に逮捕された。場所は江ノ島鵠沼駅から藤沢に向って二百メートル位歩いたところで、偶々人通りがなかったが、前方から一台の乗用車が来て、ヘッドライトに眼がくらんだ一瞬、五、六人の制、私服の軍人に、ものも言わずに殴りつけられた。どういうことだか穏かに話してくれ、といったが英語で怒鳴られ、みぞおちを拳固で殴られ、手錠をはめられた上、白い布で眼かくしをされ自動車に担ぎこまれた。

車中二人の軍人に挾まれ、一時間以上かかって何処かへ運ばれた。その後で、名前を聞かれたが、知らないというと、棒のようなもので膝を殴りつけられた。何度もこれを繰り返された。

迎えにきたジープ p.174-175 アメリカのキャノン機関の仕業

迎えにきたジープ p.174-175 The two car abduction cases are undoubtedly the work of the Canon Unit of US. Only the Canon Unit can exert such a brute force and villainous gangster behavior.
迎えにきたジープ p.174-175 The two car abduction cases are undoubtedly the work of the Canon Unit of US. Only the Canon Unit can exert such a brute force and villainous gangster behavior.

その後横浜の病院に連れて行かれて、レントゲンを撮った。二十九日夜、目隠しされて川崎の別荘風の家に監禁された。鍵をかけた一室に閉ぢこめられ、べットに足かせをかけられたままの状態で、毎日米側から自分達の手先になれ、然らずんば死を選べと迫られ、精も魂も尽き果てて、十二月二日未明シャンデリアに帯をかけて自殺を図ったが果さず、それからクレゾールを呑んだがこれも失敗、これを見て飯運びの山田君が同情して、外部との連絡を取ってくれた(衆議院法務委員会における鹿地氏証言)

〝怪文書〟に衝撃をうけた池田幸子夫人は、二十七年十一月九日に夫君の搜索願を藤沢市署に提出し、市署では家出人としての搜索を始めたので、ここではじめて一流紙の報道するところとなった。それから一ヶ月近く経った十二月七日、鹿地氏が突然自宅に姿を現わして、大騷ぎとなったわけである。

この二つの怪自動車は間違いなくアメリカのキャノン機関の仕業である。これほど強引でデタラメな、ギャング振りを発揮できるのはキャノン機関以外にはないのだ。

キャノン機関の所属するCIAの前身が、戦時中重慶にあったOSSであったことはすでに述べた通りであるが、この第二次大戦中の各国の秘密機関は、それぞれの特色を持っていた。

OSSの得意とするのは謀略と逆スパイ工作であるといわれている。

逆スパイとスパイの逆用とは、全く違うことである。常識的に使われる二重スパイという言葉も、厳密にいうと間違っている。三橋氏が二重スパイだといわれるが、これは誤りで、彼はソ連のスパイだったのが、逆用されてアメリカのスパイになったのである。

二重スパイというのは、二つの陣営に全く同じ比重で接触しているものをいう。第一次大戦以後の各国の秘密機関は、諜報、防諜両面で飛躍的な進歩を遂げたため、スパイというのはその末端で必ず敵側と接触を持っていなければならなくなった。

つまり、大時代的な、個人プレイだけでは何もスパイできなくなり、組織の力が大きくなったのである。そのため、各国の諜報線は必らずどこかでクロスしており、七割与えて十割奪う形態をとるようになってきた。いいかえれば、すべてがいわゆる二重スパイなのである。ただ、その力関係がどちらの陣営に大きいか、どの陣営により奉仕しているか、ということで、そのスパイは比重の大なる陣営のスパイといわれるのである。

だから三橋氏の場合はアメリカのスパイであり、鹿地氏もまた、アメリカのスパイである。正確にいえば、逆スパイとは、スパイをスパイしてくるスパイのことであり、複スパイとは、スパイを監察するスパイのことである。逆スパイとスパイの逆用との違いは、その取扱法の上でハッキリ現れている。

迎えにきたジープ p.176-177 スパイの逆用が米国の常道

迎えにきたジープ p.176-177 In the reverse use of spies, find an enemy spy and obtain it with conciliation or intimidation. This is the usual way of American Intelligence agency. So they are always distrustful and like a gangster.
迎えにきたジープ p.176-177 In the reverse use of spies, find an enemy spy and obtain it with conciliation or intimidation. This is the usual way of American Intelligence agency. So they are always distrustful and like a gangster.

普通、スパイは次のような過程を経る。要員の発見→獲得→教育→投入→操縦→撤収。従って、任務で分類するならば正常なるスパイ、複スパイ、逆スパイなどはこの取扱法をうける。二重スパイというのは、二次的な状態だからもちろん例外である。

奇道である敵スパイ逆用の場合は次のようになる。要員の発見→接触→獲得→操縦→処置。つまりこれでみても分る通り、獲得前に接触が必要であり、獲得ののちは教育も投入も必要なく操縦することであり、最後は撤収するのではなく処置することである。

正常なるスパイは、自然な流れ作業によって、育てられてゆくのであるし、確りとした精神的根拠もしくは、それに物質的欲望がプラスされているのであるから、そこに同志的結合も生じてくる。

逆用工作では、要員の発見は我が陣営に協力し得る各種の条件のうちの、どれかを持った敵スパイをみつけ出し、それを懐柔または威嚇で獲得するのであるから、同志的結合などは全くないし、操縦者は常に一線を画して警戒心を怠らない。

これが、アメリカの秘密機関の常道になっているのであるから、彼らはつねに猜疑心が深く、ギャング化するのである。ところがラストヴォロフと志位元少佐との関係を見てみると、そこには人間的な交情さえ見出されるではないか。

正常スパイでは、任務が終れば味方であり同志であるから、最後にこれを撤収しなければならない。逆用スパイの場合は撤収とはいわず処置という。つまり殺すなり、金をやるなり、外国へ逃がすなりせねばならない。鹿地事件の発端は、この処置の失敗である。

鹿地氏と重慶の反戦同盟で一緒に仕事していた青山和夫氏は、鹿地氏出現以来の言動から次のような十の疑点をあげている。

1 USハウスはどれも金アミがあり、塀には鉄条網があるのが原則だ——これは占領中の日本人の暴動を予防するためMPの指令でそうなっている。

2 自由に新聞、雑誌、ラジオを聞き乍ら、なぜ独立後直ちに釈放を要求しないか、なぜハンストをしないのか、だまってダラダラ生活するのは何故か。左翼として、必ず、このような場合はハンスト戦術をするべきだ、自殺はおかしい——芝居か架空の事件ではないか。

3 監禁なら当然新聞、雑誌、ラジオを自由にさせないはずだが。

4 米将校が定期的に訪問会談するのは、アメリカ機関としてコンスタントになっている証拠だ。鹿地が本当に「拒絶」しているならばコンスタントの会談はない。

5 鹿地は右翼から狙われているとの理由で保護を求め代償に仕事し、これはおそらく北鮮問題をアメリカに提供したのではないか。北鮮との関係をホラをふいて、アメリカをだましたのではないか。

迎えにきたジープ p.178-179 鹿地亘の複雑すぎる過去

迎えにきたジープ p.178-179 Kaji has a very complex past history. He is a poet, a critic, an actor, a street speaker and a painter. His political activities changed rapidly. He was a member of the Japanese Communist Party, a propaganda agent of the KMT, and a spy on the Communist Party of China. During the war, he was engaged in work of the US secret agency.
迎えにきたジープ p.178-179 Kaji has a very complex past history. He is a poet, a critic, an actor, a street speaker and a painter. His political activities changed rapidly. He was a member of the Japanese Communist Party, a propaganda agent of the KMT, and a spy on the Communist Party of China. During the war, he was engaged in work of the US secret agency.

6 釈放の時、鹿地自身が外苑で自動車からおろして貰ったのではないか、普通なら自宅まで自動車でおくるのがアメリカ人の習慣になっている。

7 出たままの姿で帰るのはおかしい、一年間に別の着物ができているはずだ。

8 自宅にはアメリカから送金があったのではないか、池田や看護婦や子供の一年間の生活は仲々むずかしい。

9 監禁等は芝居で何か別のこと、日共ヘの入党、来年の参議院選挙をあてこんでいるのではないだろうか。

10 鹿地も池田も苦しい生活に堪えることのできない人だ。

二 新版〝ハダカの王樣〟

これらのナゾに応えるものは、複雑極まりない彼の過去の経歴である。

鹿地氏は詩人であり、批評家であり、俳優でもあり、街頭演説もやれば、繊細な水彩画も画く。本質的には弱々しい神経質な人間だけあって、彼の政治活動は目まぐるしく変転した。

日共党員であったこともあるし、国民党の宣伝工作員になったこともあり、延安当時には中共のスパイにもなった。戦時中には中国にあった米国秘密機関の謀略、宣伝工作に従事したかと思うと、一方、米国の秘密を探っていたという疑いをいだく向きもあり、また戦後の東京で

は貿易商社の重役にもなったが、その会社は中日貿易を目的としながら、殆んど商売らしい商売もしていなかったといわれている。

彼は大正末期に「新人会」を経て国際共産党の仕事に携ったといわれている。当時の彼の主な任務は、学生層や文化人グループ内に、共産主義思想の浸透をはかることにあった、とみられている。

昭和七年ごろ、彼はその文化人としての立場をすてて、当時死滅にひんしていた日本共産党を救うために活躍、同九年には日共の他の幹部たちと一緒に逮捕された。そこで彼は日共から離れて大陸へ渡り、左翼作家として反日運動を指導することになった。

上海時代の鹿地氏は、同地で書店を経営していた内山完造氏を通じて、国民政府に喰い入った。そのころの彼は、蒋介石などの要人から公然と命令を受けるという地位にあったが、同時に当時国府に入っていた中共の代表者周恩来からも、秘密裡に指令を受けていたという噂があった。

そんなことも影響したのか、国府は彼を警戒しはじめ、彼が日本人捕虜を集めて作っていた「鹿地調査室」や、その表看板であった「民主日本建設同盟」を廃止してしまった。

鹿地氏は早速米国機関に接近してそこで働らいていたが、やがて戦時中の米国諜報機関とし

て極秘の存在であったOSS(海外秘密情報戦略本部)に近づいた。ここで働らいていたときに、彼は日本人捕虜を利用する詳細な計画を立てた。

迎えにきたジープ p.180-181 鹿地氏の重慶時代の仕事

迎えにきたジープ p.180-181 In Chongqing, Kaji was planning an operation by a Japanese group called "Democratic Japan Construction Alliance" to disturb Japan, as a Spy on the KMT side.
迎えにきたジープ p.180-181 In Chongqing, Kaji was planning an operation by a Japanese group called “Democratic Japan Construction Alliance” to disturb Japan, as a Spy on the KMT side.

鹿地氏は早速米国機関に接近してそこで働らいていたが、やがて戦時中の米国諜報機関とし

て極秘の存在であったOSS(海外秘密情報戦略本部)に近づいた。ここで働らいていたときに、彼は日本人捕虜を利用する詳細な計画を立てた。

このOSSとの協力も、再びどうしたことか中絶してしまった。これは国府が警戒したのと同様、米側が鹿地氏の過去の行動を知ったためらしいのであるが、彼は米国との関係に執着していたものとみえ、戦後の二十年九月に再びOSSと接触し、日本で行う諜報活動計画を提出した。

この当時親交を結んでいたのは、長谷川敏三という明大出の少尉で、鹿地氏が米側をクビになって帰国した後、この男と組んで貿易商社を作ったほどだった。

鹿地氏の重慶時代の仕事として、彼の署名のある「日本人グループの工作計画」と題する案がある。外務省筋から入手したものだが、これを紹介してみよう。

宣伝に関する工作

A、文字による宣伝

a、民主日本建設同盟の署名による日本人団体のビラ、パンフレット。

b、民主日本建設同盟機関紙の型式による小型新聞。

c、軍、民団、警察、自治会の布告の形式によるポスター。

d、広告ポスター、広告ビラ、広告マッチ等の形式による各種宣伝品。

e、家信、兵士の手紙等の形式による書簡、葉書。

f、国内および占領区各会社、商店等の用件の形式による書簡。

g、軍、警察、自治会等の公件(例へば命令書)の形式による謀略。

h、壁、建築物(日本軍後方の)への楽書。

a及びbは正面からの日本人による宣伝であるが、c以下は謀略的宣伝である。充分な啓蒙的効果は前者によって挙げられる。だが、後者には特殊の深い印象をねらう宣伝効果を挙げ得る。

B、無電、ラジオ放送による宣伝

a、講演、ニュース、宣伝音楽、ラジオドラマ等の放送。

b、民主日本建設同盟電台(例えば北イタリー、ポーランド等で活躍する自由電台の形式による)の如き秘密電信による宣伝。

特に後者は大きい効果を有する。電台及びラジオ宣伝の技術的方法については別に述べる。

C、火線及び敵後方に於ける工作隊の派遣による宣伝

a、軍隊(第一線)と協同して、若干名(経験によれば五名前後を適当とする)を一組とする宣伝工作隊を派遣し、対陣中の敵日本軍、又は作戦中の日本軍にラウドスピーカーを以て宣伝する。情況によってはメガホンによる談話を交換する。第一線に於ては過去の経験によれば、ビラを菓子箱に

入れて贈り、又は夜間に敵の鉄条網にプレゼントを掲げておき、又は物品の交換等の交歓手段を使用するなど、各種の有効な宣伝を行い得る。

迎えにきたジープ p.182-183 鹿地は米ソの二重スパイだった

迎えにきたジープ p.182-183 And the US arrested a man, a Soviet spy. This man was Kaji, who was supposed to be a US spy. No wonder the US side got angry. "Bite the hand that feeds you."
迎えにきたジープ p.182-183 And the US arrested a man, a Soviet spy. This man was Kaji, who was supposed to be a US spy. No wonder the US side got angry. “Bite the hand that feeds you.”

C、火線及び敵後方に於ける工作隊の派遣による宣伝

a、軍隊(第一線)と協同して、若干名(経験によれば五名前後を適当とする)を一組とする宣伝工作隊を派遣し、対陣中の敵日本軍、又は作戦中の日本軍にラウドスピーカーを以て宣伝する。情況によってはメガホンによる談話を交換する。第一線に於ては過去の経験によれば、ビラを菓子箱に

入れて贈り、又は夜間に敵の鉄条網にプレゼントを掲げておき、又は物品の交換等の交歓手段を使用するなど、各種の有効な宣伝を行い得る。

b、小数の訓練されたる秘密人員で組織した後方攪乱部隊の宣伝

右は遊撃隊と協同することにより、日本軍の駐住すると予想される町村の宿舎、厨房、学校等にさまざまな宣伝品を前もって散布する方法。駐屯地各城市中に潜入しての各種宣伝の方法等が考えられる。

情報に関する工作

A、俘虜調査による情報蒐集

俘虜の教育過程に、われわれの過去の経験によれば、軍事、政治、日本国内の人民生活、その心理的情況等に関する豊富な材料を獲得ができる。

B、捕獲物品、文件の調査等による情報の獲得。(以下略)

彼の〝転身〟の経過を整理してみると、第一の時期は、日本軍閥に反抗して中国に渡り、当時の国共合作時代の重慶(国府)延安(中共)と、これを後援していた米国の三者側についた。

それがのちに二つに割れ、中共をソ連が応援しだすと、まず延安側についた。左翼作家だった鹿地氏としては当然のことである。

ところが、次の時期には重慶側についたのである。日本の敗戦時には重慶におり、マ元帥顧

問だと自称して、得意満面のうちに帰国してきたのだ。

この〈米—国府側〉対〈ソ—中共側〉との間の往復回数は、さらに多かったかも知れない。しかし戦後帰国した際には、重慶で米国のOSS(戦略本部)や、OWI(戦時情報局)に働いていたほどだったから、当然米国側について、重慶時代と同じように、諜報や謀略の仕事をしていたに違いない。

これをみても明らかな通り、彼は一言にしていえば、米ソの二重スパイであったのだ。そして、米国側ではソ連スパイ鹿地を逆用して米国スパイに仕立てあげたつもりでいたのである。

一方、米国側では、前に述べたように「幻兵団」の存在を探知して、これの摘発に懸命に努力していたのである。そして、その一味である「三橋正雄」なる人物を摘発、これを逆用スパイとして利用していた。

その結果、米国側では三橋の報告により、そのレポとしてソ連のスパイである一人の男を逮捕した。調べてみると意外なことには、この男は米側スパイであるはずの鹿地氏だということが判ったから大変だ。米国側が怒ったのも無理はない。飼犬に手をかまれていたのだ。それから鹿地氏証言にあるような拷問(?)が行われた。

米国側には鹿地氏が米国スパイとして働いた記録があり、やはり裏切者への怒りが爆発した のであろう。

迎えにきたジープ p.184-185 『敵の手で敵を斃す』諜報謀略

迎えにきたジープ p.184-185 The Soviet Union learned from Mitsuhashi's report that Kaji was arrested by the US. So, the Soviet might have used Japanese public opinion to release Kaji and use it to boost anti-American sentiment.
迎えにきたジープ p.184-185 The Soviet Union learned from Mitsuhashi’s report that Kaji was arrested by the US. So, the Soviet might have used Japanese public opinion to release Kaji and use it to boost anti-American sentiment.

米国側には鹿地氏が米国スパイとして働いた記録があり、やはり裏切者への怒りが爆発した

のであろう。その頃には、米国側では〝処置〟として鹿地氏を殺すべく計画していたかも知れない。そして鹿地氏は、その米国側の企図を察知したのか、または他の理由で自殺(狂言?)を図った。

折よく肺病が再発したので各所を転々、殺すか、釈放するかを打合せ中、〝謀略のマーフィー〟といわれるマーフィ大使が着任、さらに利用価値があるかも知れないというので、たらい回しのまま時が経ってしまった。

またソ連側では、鹿地氏が消息を絶ったので、調べてみると(三橋のソ側への報告から?)米側に逮捕されたと分った。そこで、日本の世論を沸せて、鹿地氏を釈放させ、さらにこれを反米感情をたかめるのに利用したのではあるまいか。

それを証拠だてる有力な資料が前掲した怪文書である。この英文怪文書の正体は、いまだにつかめないのであるが、戦後、帝銀、三鷹、松川の怪事件にも登場しており、つねにその事件が米国の謀略であるという内容をもっている。

これらの文書が米側から流されたという判断は、その内容や起きることが予想される反響とから考えられないことである。すると左翼系から出たことになる。なぜか「アカハタ」にはこの好個のニュースが一言半句も掲載されなかったが。鹿地氏逮捕を知ったソ連側が、鹿地氏に

行われた虐待を、反米感情をかき立てる材料として、ヘタクソな英文に託して怪文書なるものを作成させ、バラまかせたことは容易に推測できる。

これは『敵の手で敵を斃す』という、諜報謀略の原則からも肯ける推測であろう。しかし、日本の治安当局は、これら四通の怪文書を入手して、その英文、用紙、タイプの癖などからその正体を突きとめることは出来なかった。

三 せせり出てきた敵役

鹿地事件における日本世論の硬化に驚いた米側では、ついに鹿地氏を釈放せざるを得ない破目に追いつめられた。

自らの不手際のため、鹿地問題でその虚をつかれた米国側としては、釈放に当って鹿地氏から、『私はソ連のスパイだった。この事件で米国に対しては賠償要求などしない』と、一札をとってもいたけれど、すでに鹿地氏を反米斗争の英雄として、祭り上げるお膳立ができているところへ放すのだから、鹿地事件をつぶす準備だけは忘れなかった。

すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。

何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力

で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。

迎えにきたジープ p.186-187 三橋の身柄までつけて国警に

迎えにきたジープ p186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.
迎えにきたジープ p.186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.

すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。

何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力

で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。

日本の独立後は、CICとCISとは対内的防諜に専念し、対外的防諜は国警が担当、その全般的な情況を、強化されたCIAがみるような仕掛けになっていたらしい。

そのためCICは、二十六年末頃から、今までの業務と資料とを国警に譲り渡す準備を始めていたし、国警もまた外事警察確立のため、ソ連引揚者の調査などを始めようとしていた。事実十月頃から「幻兵団」容疑者六千名の名簿を作りつつあった。

そこへ、米国側からこの通告である。経験も知識もなく「幻兵団」を大人の紙芝居位にしか考えていなかった当時の国警東京都本部では、ソ連スパイならアクチヴ(積極的共産分子)だろうと思ってさがしてみると、いた、いた!

三橋忠男という元軍曹、埼玉県の男だ。マサオとタダオだから、米国側が間違えたのだろうと思って、この男のことを調べ出したが、全くの別人なのだから、何が何だか分らない。

何故通告があったというかといえば、国警都本部では遅くも十二月五日に復員局へ行って、ミハシ某なる引揚者を調べている事実がある。また、ローマ字でというのは、漢字ならば間違えない「正雄」と「忠男」なのに、三橋忠男の名を持って帰っているのである。

そうこうするうちに、米国側が予想した通り、鹿地問題の火の手が上ってきた。米国側としては、鹿地事件が表面化すれば米諜報機関の内幕も曝露されるだろうから、喧嘩両成敗で、ソ連側の「幻兵団」も曝露させてやろうと思っていただろう。

ところが待てど暮せど国警は三橋事件を発表しない。一体何をしているんだ、と問合せてみたら、ナンと国警ではピント外れの男を追っかけて首を捻っている。今更ながら呆れて、九日頃再度三橋の詳しい資料を揃え、しかも『身の危険を感じて自首』してきたという、三橋の身柄までつけて国警に渡してやった。

この時の様子を二十八年一月十八日付朝日新聞はこう伝えている。

三橋は講和後、米CIA(中央情報局)のM氏からの指令で二重スパイの役割を果していた。鹿地問題が世間に騒がれるようになってから、三橋はM氏と度々打合せを行ったといい、昨年十二月八日夜(発表の三日前)にはM氏の来訪をうけ、『鹿地問題がうるさくなったので、君には気の毒だが、日本の警察へ出頭してもらわねばならなくなった』といわれ、当座の生活費二万五千円を渡された。
翌九日午後、三橋はM氏の指令通り警視庁表玄関付近をブラついた。すると、M氏からの連絡で張り込み中の国警都本部員が「職務質問」の形で三橋を警視庁に連行、同夜は留置場に泊められた。

国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力

的にスラスラと一切を自供に及んだ。

迎えにきたジープ p.188-189 ソ連スパイ三橋の取調べ

迎えにきたジープ p.188-189 Masao Mitsuhashi signed a spy pledge at the Morshansk camp. After returning to Japan, he regularly made contact with Katsumi Sasaki, Wataru Kaji and others.
迎えにきたジープ p.188-189 Masao Mitsuhashi signed a spy pledge at the Morshansk camp. After returning to Japan, he regularly made contact with Katsumi Sasaki, Wataru Kaji and others.

国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力

的にスラスラと一切を自供に及んだ。

上野の岩倉鉄道学校を卒業後、昭和十年に帝国電波会社に入り、十九年千葉の野戦重砲隊に召集され、続いて新京の関東軍固定通信隊司令部に転属、通信一等兵として無電技術を覚えた。

入ソしてからは、欧露マルシャンスク収容所にいたが、二十一年春に、〝モスクワから来た少佐〟に調べられた挙句、脅迫されてスパイ誓約書に署名した。

それから七月になって、モスクワ郊外にあるスパースクの特殊収容所に移された。ここは収容所というものの、実はスパイ学校で、各地から集められた連中が、無電、暗号、スパイなどの特殊技術を教えられるのだ。ここで約一年間、二十二年十月まで教育をうけた。

それから日本人将校と同道でハバロフスクに移され、病弱者として十二月三日舞鶴入港の朝嵐丸で帰国した。帰国の際、上野公園付近で、合言葉の男と連絡をとるように命ぜられた。

翌二十三年四月十七日、上野公園入口交番裏の石碑付近で、ソ連代表部員クリスタレフ氏とはじめて逢った。この男は無電技師だということだった。合言葉は不忍池のそばで、『この池には魚はいますか→戦時中はいましたが今はいません』というものだ。

それからは毎月一回、都内の各所でレポに逢い、無電機やら二、三万円の現金を受取った。レポは、三人のソ連人らしい男と日本人で、日本人として最初のレポは、二十四年三月から元駐ソ日本大使館付武官佐々木克己氏で、鹿地氏がレポになったのは二十六年五月からだった。

ところが二十四年春頃、東京駅前の郵船ビルに呼び出され、ソ連スパイとして追究をうけ遂に一切を自白して、逆スパイになることになった。それからは、レポの日時、人相、さらにソ連側から打電を命ぜられた暗号文などを、みんな米側に報告することになった。

二十六年十一月頃、米側から新しいレポとの連絡を報告するようにいわれ、鵠沼で逢うことを話したところ、そのレポ中に米側の係官がやって来てレポを逮捕してしまった。その後米側で写真をみせられ、その男がはじめて鹿地氏だと分った。

レポとの連絡方法は、指令された場所に行きレポと逢い、土中に埋められた送信用の暗号電文と現金を受取った。殆ど会話はしていない。都下北多摩郡へ移転してからは石神井公園や、自宅近くの稲荷神社脇の土中に暗号電文が埋められ、それは金属性のマッチ箱大の箱に入れてあった。

レンガがそこに置いてあれば、埋めてある知らせだった。こちらで受信したものはその代りに、箱へ入れて埋めていた。

さる六日(二十七年十二月)レンガは置いてあったが、暗号電文はなく、こちらが埋めて置いたのがそのままになっていた。そんなことは今までになく、自分が米側に協力していることが分ってしまったと思い、不安がつのり自首してきた。

この自供に基いて国警当局は、直ちに鵠沼をはじめ、都内十数カ所の現場検証を行った。そして、自供通りの現場をみて、自供は真実なりとの結論を下した。

迎えにきたジープ p.190-191 志位氏はソ連研究家として一流

迎えにきたジープ p.190-191 Regarding the Soviet secret agency, there were jurisdiction of the Ministry of Interior Affairs (MVD) and the Red Army. In the Red Army, about 8,000 Japanese POWs in Primorye, Vladivostok, Voroshilov, Iman, and Chita were called "Red Army Labor Battalion" and engaged in base construction.
迎えにきたジープ p.190-191 Regarding the Soviet secret agency, there were jurisdiction of the Ministry of Interior Affairs (MVD) and the Red Army. In the Red Army, about 8,000 Japanese POWs in Primorye, Vladivostok, Voroshilov, Iman, and Chita were called “Red Army Labor Battalion” and engaged in base construction.

四 三橋と消えた八人

この辺で少し、ソ連の秘密機関を系統的にみてみよう。ソ連側の直接の指導には、内務省系のものと赤軍系のものとがあった。赤軍系というのは沿海州地区をはじめ、ウラジオ、ウォロシーロフ、イマン、チタ各地区に一ヶ大隊約五百名、四十ヶ大隊約八千名の日本人が、「赤軍労働大隊」と呼ばれて、直接赤軍の管理下におかれたところがあったのである。ここでは日本人捕虜も赤軍兵士と同様の条件で、基地建設などの土工作業を行っていた。

他の日本人捕虜収容所は、ナホトカで帰還の送出をする第二分所が外務省の管轄であるのを除いては、すべて内務省の監督下にあった。

内務省の管轄にある捕虜の〝再武装〟教育ということは、とりも直さずオルグ要員の政治教育とスパイ要員の技術教育の二種類があったということである。

これらの学校のうちで、明らかにされたその名前をあげるならば、モスクワ共産学校、ホルモリン青年学校、同政治学校、同民主主義学校、ハバロフスク政治学校、チタ政治学校などの「政治教育機関」と、モスクワ無線学校、同情報学校、ハバロフスク諜報学校、イルクーツク無線学校などの「技術教育機関」とがある。

モスクワ無線学校というのは、三橋正雄氏の入ったスパースク、議員団のたずねた将官収容

所のあるイワノーヴォ、またクラスナゴルスクなど、モスクワ近郊に散在している。

たびたび引用するが、志位氏はソ連研究家として一流の人物であるから、同氏の近著「ソ連人」に、現れている部分を抜いてみる。これは同氏がスパイ誓約を強制させられる当時の、取調べに関連して書かれたものである。

三回目の呼び出しの時、私は自分の調書を読むことができた。それは訊問官が上役らしい大佐に呼びつけられて、あわてて事務所を出て行ったとき、机の上に一件書類が残されていたからである。

これによって私たちをいままで逮捕し、取調べていた機関がすっかりわかった。まず終戦直後の奉天で猛威を揮ったのが、ザバイカル方面軍司令部配属の「スメルシ」であった。この「スメルシ」というのは、「スメルチ・シュピオーヌウ!」(スパイに死を!)の略語で、文字通りのいわば防諜機関である。

これが進駐とともにやってきて、私たちを自由から〝解放〟したのだ。調書は「スメルシ」からチタの「臨時NKVD(エヌカーベーデー)検察部」に廻され、さらに、モスクワの「MVD(エムベーデー)戦犯審査委員会」に達している。

NKVD(内務人民委員部)は呼称の改正に伴って、昨年の二月頃からMVD(内務省)になったのだから、私たちの調書は逮捕から、半年後にはモスクワに着いたわけだ。ところで、いまここで訊

問している連中は、MGB(エムゲーベー)(国家保安省)の「戦犯査問委員会」に属している。これは恐らく旧NKVDのうちの、ゲー・ペー・ウーだけがMGBに移って、俘虜や戦犯の管理はMVDで、訊問や摘発はMGBでやるようになったのだろう。

迎えにきたジープ p.194-195 スパイ要員として特殊教育

迎えにきたジープ p.194-195 The Soviet captain said. "Communicate with the Soviet representative and the Soviet government. The equipment is a very small machine. There is no fear of being discovered. The wavelength, calling code and the time changes with each communication."
迎えにきたジープ p.194-195 The Soviet captain said. “Communicate with the Soviet representative and the Soviet government. The equipment is a very small machine. There is no fear of being discovered. The wavelength, calling code and the time changes with each communication.”

国内警備隊が、コルホーズ、工場、鉄道、都市各警備隊をもっているのでも、ソ連が並々ならぬ軍事国家であり、圧政を敷いているということが分るだろう。

赤軍には軍諜報部があり、その参謀部第四課が対外諜報の担当で、第二課が四課の収集した情報を整理分析する。この他、外務省、貿易省、党機関がそれぞれに対外諜報機関を持っており、或る場合にはそれがダブって動いている。

スパイ要員として特殊教育をうけた人たち、これがいわゆる「幻兵団」である。その適例として三橋正雄氏の場合はどうだろうか。山本昇編「鹿地・三橋事件」第四部「三橋の告白」の項に、彼のスパースクでの教育内容が具体的に書かれているから摘記しよう。

(二十二年二月ごろ、マルシャンスク収容所で〝モスクワの調査団〟にスパイ誓約書を書かされたのち)二十二年の四月でした。誰、誰と、名前を呼び出されました。その中に私が入っておったわけです。やっぱり前に希望した各地の日本人技術者なんです。

当時大体モスクワへ行くという噂が飛んでいました。そこから、客車に乗って一行八人でモスクワまで二晩ぐらいかかった。そうして四月の七日頃でしたか夕方モスクワの駅に着いたんです。それからモスクワの収容所に入れられたわけです。

モスクワの収容所は、部隊番号がわかりませんね。そこは日本人が千五百名位いた。主に兵隊で、

将校はいくらもいなかった。皆工場の作業に行っておりました。工場を建設しているんですね。ジーメンス、それからツアイスなんかの設備を、どんどん運んでいるようでした。ドイツのいわゆる技師も家族をそっくりつれて来ているんです。なかなか優遇されているようでした。

そこの収容所に、六月二十四、五日頃、隊長格の男がやって来たんです。我々八名の人間を、順番にやっぱり調べたんです。最初はそういう身上調査、二日目にはいろいろ貿易などについての雑談をやった。隊長は、あなた日本へ帰ってから、私のほうと取引をやりませんかと言いましたが、私は又、貿易でもやらしてくれるのかと思ったんです。

その次の三回目に、いよいよあの話が始まったんですよ。『どんな仕事ですか』『いろいろソ連の代表部と、ソ連本国との通信をやってくれ。設備は非常に小型な機械ができておるし、それから絶対発見される心配はない。通信プログラムはうまくできておるから、やるたびに波長が変るし、呼出符号も変るし、時間も変る』と、そのときの経緯は大体公判廷ですっかり述べましたがね。誓約書を書いてくれと言うので、向うに言われる通りに書いて署名したんです。

それから、いわゆる七月の三日か四日、松林の家に移されました。ちょっとモスクワ駅から四十分ぐらいのところの小さな田舎町で、そこの松林の中の建物というのは、部屋が十幾つあった立派な建物ですが、木造で中がなかなか豪華なものでした。岩崎邸みたいな感じでした。松林の中にあるから、特殊な秘密目的の要員勤務のものを教育するところだったかも知れません。

迎えにきたジープ p.198-199 ソ連の日本人抑留が不当

迎えにきたジープ p.198-199 The eight people who were supposed to have achieved "human transformation" through the "special technical education" by the Soviet Union easily confessed all.
迎えにきたジープ p.198-199 The eight people who were supposed to have achieved “human transformation” through the “special technical education” by the Soviet Union easily confessed all.

▽三橋氏の場合

十月三十日、そこを出発したが、その前つぎのような指示をうけた。内地へ帰ったら、その月の中

旬のある日(たしか十六、七日と思う)に、上野公園交番裏の石碑にチョークで着の字を丸でかこんだのを記せ。

それから、三ヶ月後の同じ日午後四時に上野の池の端を歩け。(場所は公衆便所の位置まで示された詳しい地図で説明された)その際、新聞紙を手に持っていれば、ソ連代表部員がきて、

『池に魚がいますか?』

と聞くから、

『戦争前にはいたが、今はいません』

と答えて、その男の指示に従え、と云うのであった。

▽平島氏の場合

帰った月の最初の五の日、聖路加病院の正門から左の塀の角に〝○キ〟と書け。二日後に行って印が消えていたら連絡済であるから、次の五の日の夕方五時に、築地本願寺の入口で、新聞紙を捲いて右手に持って待て。同じ目印の男が次の合言葉で話しかけたら、その男の指示に従え。

『貴方は石鹸会社のA氏を知っているか』

『知っている』

『彼は今何をしているか』

『彼はもう止めた』

そして、次のレポの日時を指定され、歌舞伎座の横丁で、ジープにのったソ連人と連絡したのである。

こうして「特殊な技術教育」をうけて、「人間変革」をなしとげたはずの八人も、簡単にその一切を自供してしまった。

ソ連の日本人抑留が不当であり、シベリヤ民主運動が〝押つけられたもの〟であったからである。それは、酒や女や麻薬や賭博や金などのような、人間の第二義的弱点ではなく、人間性そのものへの挑戦である「帰国」という弱点の、利用の上に立った脅迫や、強制されたものであったからである。

五 スパイ人と日本人

鹿地・三橋事件は、読めば読むほど分らないといわれ、「ウソ放送局」や「片えくぼ」の好材料となった。だが、分らないことはない。話は簡単である。

まず私の許へ寄せられた二通の読者からの手紙をみてみよう。

十四日付記事面白く拝見した。特に対日スパイとしては大先輩の青山和夫を引張り出して暴露させたのは大成功だった。今度は鹿地に青山のことを書かせたら面白い泥試合がみられると思う。

しかし記事はもう少し前、例のスメドレー女史(註、ゾルゲ事件の立役者の一人)から金をもらって、香港へ飛んだあたりから始めてもらいたかった。ただし資料を集めるに苦労は必要で、内山完造

グループは口が堅いし、平沢さくら(註、鹿地氏の前夫人)では、彼と一緒になった当時、黄浦口に飛び込んで自殺しかけたオノロケ話位しかできまい。

迎えにきたジープ p.200-201 鹿地は日本人ではなくスパイ人

迎えにきたジープ p.200-201 Kaji has always been among the spies, so he considers himself not a spy. However, a person like him should not be treated as a Japanese. It is known worldwide that he is a spy, not a Japanese.
迎えにきたジープ p.200-201 Kaji has always been among the spies, so he considers himself not a spy. However, a person like him should not be treated as a Japanese. It is known worldwide that he is a spy, not a Japanese.

しかし記事はもう少し前、例のスメドレー女史(註、ゾルゲ事件の立役者の一人)から金をもらって、香港へ飛んだあたりから始めてもらいたかった。ただし資料を集めるに苦労は必要で、内山完造

グループは口が堅いし、平沢さくら(註、鹿地氏の前夫人)では、彼と一緒になった当時、黄浦口に飛び込んで自殺しかけたオノロケ話位しかできまい。

やはり当時の特務機関か、領事館警察の連中を探し出さなければなるまい。副産物として、当時一挙に陸、海、外務の一流を屠った新公園事件(註、重光外相が片足を失った事件)など明らかになると思う。

日本も再軍備するとなれば、諜報部隊がなくてはならないのは自明の理で、謀略といえば聞えが悪いが、謀略必ずしも破壊的なものではない。日本軍唯一の正統謀略将校松井太久郎中将は、中国の古都北京を、当時の敵将宗哲元との取引で戦火より救っているなど、謀略将校でなければやれない面がある。松井氏は大佐になって正服を着たが、私服時代の在露時代に捕まり死刑寸前ということになったが、日本で捕ったソ連スパイとの交換で危うく帰国できた話なぞ面白い。

とにかく、この鹿地事件は、鹿地自身がいつもスパイの中にいたため、自分をスパイでないと思っている所に、ピントが外れた話になってきている原因があるのであって、彼は日本人ではなくスパイ人であることは、世界的に知られているのであるから、恥をかかぬようにくれぐれもお願いする。

*  *  *

鹿地事件、興味深く拝見しました。小生は上海時代に同人の妻君池田幸子と同一の家に住んでいましたが、鹿地が重慶に行く時の主役は幸子で、幸子は国立山東大学で勉強し中国語も優秀で、上海での彼女の動静は微妙のものであった。

鹿地は中国語は大したことなく、蔭の力は幸子であって、幸子の身元を洗えば興味あると思う。

幸子とかって同棲していた佐々木四郎は、右翼岩田の子分で、佐々木が上海工部局(註、警察)を辞めた時の原因は幸子とのトラブルで、佐々木と幸子とを結婚させようと話をしたのは、国警本部のピストル訓練を担当しておった塚崎正敏であった。国警への紹介は元工部局警視総監渡部監弌であったときいている。

鹿地を日本の人間として考える時は、いささか愛国的な線から外れている。彼の如きは敬遠すべきもので日本人として扱うべきではあるまい。

このような手紙にみられる通り、事件そのものは極めて簡単な話である。

娼婦が客を相手取って強姦の告訴事件を起したと思えばよいのであって、反米感情という政治的な含みから、左派社会党の猪俣代議士がこれをジャーナリスティックに利用した著意と手腕は買うが、娼婦の抱え主ならば『告訴する』といきまく娼婦に対して『お前のもてなしが悪いからだ』とさとすのが良識というものであろう。

だが、三橋氏は違う。彼は実直なサラリーマンであり、従順な兵隊であったのである。技術者としての彼の人生観が、事件そのものを割り切って考えられたから、無事に生きていられる

のであって、割り切れなかった佐々木克己氏は死をえらんだではないか。

迎えにきたジープ p.202-203 日本人を他国の下働きにする

迎えにきたジープ p.202-203 Japanese men are used as tools in the US-Soviet spy battle! There is nothing unjust than such an insult to human being. It was these two countries that judged the war criminals against the defeated Japan in the name of human justice.
迎えにきたジープ p.202-203 Japanese men are used as tools in the US-Soviet spy battle! There is nothing unjust than such an insult to human being. It was these two countries that judged the war criminals against the defeated Japan in the name of human justice.

だが、三橋氏は違う。彼は実直なサラリーマンであり、従順な兵隊であったのである。技術者としての彼の人生観が、事件そのものを割り切って考えられたから、無事に生きていられる

のであって、割り切れなかった佐々木克己氏は死をえらんだではないか。

二十八年二月に出版された「アメリカの秘密機関」という、占領下の米国秘密機関の悪事と植民地日本の吉田政府の卑屈さを、相当詳細なデータで書いた、バクロ雑誌「真相」張りの本がある。出版社はいわゆる進歩的なところで、著者は山田泰二郎なる人である。その本のはしがきにこう書いてある。

金のためにスパイするような人間は、人間のうちで、一番節操のない卑劣な人間です。ところが脅迫や威圧で、スパイをするように仕向けるような秘密機関があるとしたら、それはまったく、天人共に許さない極悪非道なことといわねばなりません。……

日本人の運命を、他国の下働きにするばかりか、スパイ化するような動きに対しては、私たちは日本人としての誇りを守るために、勇気を出して、敢然と闘わなくてはならないと思います。

全く同感である。読み進んでいったところ、私の取材した記事が引用されている。

二十七年十二月三十日付読売紙は、「国際スパイ戦に消された十四名」という大きい見出しで、三橋のレポ佐々木克己元大佐の怪死究明に、同期生が運動を起したと書いている。これは勇気のある例である。(中略)もっとも読売紙はこれらの事件を、同紙の特ダネ記事〝幻兵団〟(ソ連で養成されたスパイ団)に結びつけているが、この幻兵団がキャノン機関の一つの虚構であることは、ほとんど

間違いないとされている。

これは一体どんなことなのだろうか。佐々木元大佐を殺させたのはキャノン機関であることは明らかだ。だが、同氏を最初に〝脅迫や威圧でスパイ化〟させたのはアメリカだろうか。ソ連だろうか。そして「消された十四名」の記事に現れた人たちも、最初に一撃をくれた下手人がソ連のNK(エヌカー)で、止めを刺したのはアメリカのNYKビルだといってはいけないだろうか。

米ソのスパイ泥合戦に、日本人が道具として使われている! これほど不当な人間に対する侮辱があるだろうか。敗戦日本に対して、人類の名において、戦争犯罪人を裁いたのは、この両国ではなかっただろうか。

この驚くべき事実は、ここに、はしなくもその泥合戦の舞台、鹿地・三橋事件でバクロされてしまったのである。

しかもこの問題を辿れば、NYKビルにファイルされた七万人の引揚者の将来に訪れるかも知れない運命を、既に現実に迎えて非業の最後を遂げた十数柱の墓標がある。

私はここに一国民の憤りをこめて、静かなる冥福を祈りつつ、この実相を紹介したい。

昭和二十二年九月の、或る夜の出来ごとだった。

その夜の宿直だった復員庶務課のN事務官は、MRRC(舞鶴引揚援護局)という腕章のまま

毛布を被って寝ていたが、『大変です、来て下さい』という声に揺り起された。

迎えにきたジープ p.208-209 鹿地・三橋スパイ事件日誌

迎えにきたジープ p.208-209 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary September 24th to December 29th, 1952
迎えにきたジープ p.208-209 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary September 24th to December 29th, 1952

鹿地・三橋スパイ事件日誌

▽昭和二十七年

九月二十四日 米軍による鹿地氏不法監禁という、いわゆる鹿地事件英文怪文書が大阪国際新聞社に送られ、「鹿地事件」がジャーナリズムに取上げられた。

十一月九日 鹿地亘氏(48)=本名瀬口貢、東京都新宿区上落合一ノ三六〇=は、昨年十一月二十五日午後六時すぎ転地療養先の神奈川県藤沢市鵠沼で散歩に出たまま行方不明になっていたが、同氏夫人の池田幸子さん(42)が藤沢署に捜査願を提出した。

十二月六日 日中友好協会内山完造氏(68)と鹿地氏夫人池田幸子さんら近親者が『鹿地氏は米軍に

不法監禁されている。私は六月まで一緒にいた』という元駐留軍コック山田善二郎氏(24)を伴い、港区芝車町六二の左社代議士猪俣浩三氏を訪れ鹿地氏の救出措置を依頼した。

同七日 一年余にわたり失踪していた鹿地氏は同夜八時半ごろ突然新宿区上落合一ノ三六の自宅に帰ってきた。

同八日 猪俣浩三氏は衆院法務委員会で、鹿地氏からの「私は訴える」という声明書を発表した。

同九日 在日米軍スポークスマンは八日夜、鹿地氏が米軍に監禁された旨の日本の新聞報道について、『鹿地氏は二十六年末に尋問のため一時監禁されたが、その後釈放されている』と語った。

三橋正雄氏(39)=東京都北多摩郡保谷町下保谷二三八=が国警東京都本部に自首、当局では電波法違反で取調べを始めたところ『私は米軍の鹿地氏逮捕の真相を明らかにするために自首した』と、自供した。

同十日 鹿地氏は衆院法務委員会で証人に立ち、昭和十三年三月の漢口の国民政府軍事委員会顧問の反戦運動時代から咋年十一月米軍に拉致され、そして釈放されるまでの経緯を証言した。

同十一日 在日米大使館は鹿地氏失踪以来の沈黙を破って『鹿地氏の逮捕は外国スパイの容疑だった』と発表。また国会でも岡崎外相、齋藤国警長官らが衆院法務、参院外務各委員会などで『鹿地氏にはスパイの疑いがある』と言明した。

同十二日 電波管理局では三橋氏の自供により同夜十一時四十五分から三十分間にわたりソ連からの

無電連絡の呼出しのコールサインをキャッチした。その発信地はウラジオストックであることが確認された。

同十四日 国警都本部では三橋氏は昨年五月、某国人の紹介で鹿地氏と知り合い、鹿地氏が米軍に逮捕されるまで都内や江の島電鉄鵠沼駅付近などで、前後六回街頭連絡していたと自供したことを明らかにした。

同十五日 国警都本部は三橋氏が『アメリカにも通報していた』と自供したことから、二重スパイと認定した。

同二十三日 鹿地氏夫妻は衆院法務委員会で、三橋氏とのレポの模様や米軍により沖繩へ連行されたことなどを証言した。

同二十九日 東京地検は三橋氏を電波法第百十条第一号(免許をうけず無線局を開設する罰則)で起訴した。

最後の事件記者 p.232-233 まず仙洞田部長へ当ってみる

最後の事件記者 p.232-233 三橋事件の古ハガキで重要なもの、三橋の焦点は鹿地との結びつきだから、これほどの大騒ぎをするとすれば、その結びつきを立証するもの
最後の事件記者 p.232-233 三橋事件の古ハガキで重要なもの、三橋の焦点は鹿地との結びつきだから、これほどの大騒ぎをするとすれば、その結びつきを立証するもの

これが記者のカンである。私は三橋事件だと断定した。すぐ車をとばしてNHKに行ってみる

と、仙洞田部長は、ここにもきているのだが、何故か断られている。これで当局が熱心な手を打っていることが判った。

次は現場の日暮里駅だ。助役に聞いてみると、翌十八日には二名の刑事がきて、駅のゴミ箱中を漁り、ないとなるや、さらに駅出入のバタ屋を探していったという。私は車をさらに八王子支局へと駈った。

国警カブトを脱ぐ

当時、三橋の身柄は起訴されてから一カ月もたつというのに、まだ八王子地区署におかれてあった。支局でずっと三橋の動静をみている記者に聞いて、調べ官の異動の有無を調べると、あった、あった、ドンピシャリだ。

二十日の放送依頼日から、事件発生以来、三橋を手がけていた永井警部に代って、佐藤警部が担当官となり、永井警部は全く事件から手を引いてしまったという。

私はこおどりしてよろこんだ。事件はやはり三橋だったのである。そこで私は、これまでつかんだ事実から、推理を組み立てる。

紛失物は古ハガキ。なくした人は永井警部一人。他に処分者がいないからだ。すると紛失時の状况は彼一人ということだ。捜査に出かける時は、刑事は必らず二人一組になるから、捜査ではない。

紛失時間が夜の七時。彼の家が常盤沿線だから、これは帰宅の途中。しかも翌日は日曜日だから、迫ってきた公判の準備に、自宅で調べものをしようと、書類を持ちだして、駅のホームで、雑誌か何かをカバンから取り出した時に、一しょにとび出して落したものだ。

三橋事件の古ハガキで重要なもの、三橋の焦点は鹿地との結びつきだから、これほどの大騒ぎをするとすれば、その結びつきを立証するもの、ハガキで結びつきを立証するとすれば、鹿地の直筆で、三橋へあてたレポのハガキということになる。

こう結論を出した私は、はやる心を押えてその日の取材を終った。翌二日、まず仙洞田部長へ当ってみる。この取材が〝御用聞き取材〟ではないということだ。

『部長、マンホールや列車防害なぞの小事件で、部長が直々に放送を頼みにいって、ペコペコしたら貫禄が下がるよ』

『なんだい? ヤブから棒に放送なんて』

赤い広場ー霞ヶ関 p008-009 ソ連と共同通信の関係に治安当局が首をかしげた

赤い広場ー霞ヶ関 8-9ページ ソ連代表部は、朝日、毎日、読売の三大新聞を差し置いて共同通信だけを特別扱いした
赤い広場ー霞ヶ関 deputy editorial director of Kyodo News, Jiro Sakata

例えば、従来まったくノー・コメントの態度をとっていた代表部が、二十六年六月三十日、 日本の新聞記者の代表として、左翼勢力が〝ブル新〟ときめつけていたうちの一つである共同通信社をえらび、藤田記者単独で正式に会見をしたのである。

どうして代表部が、この画期的な〝正式会見〟に記者団会見を行わず、共同通信だけをえらんだか? ということはいろいろな理由が考えられた。

当時は、日本の三大紙といわれる、朝日、毎日、読売三社も、共同通信社に加盟していたので、共同のニュースは全日本の新聞に流れるということも、その理由の一つでもあった。しかし、アカハタをはじめとする左翼系機関紙には、共同のニュースは流れないのである。通信社としては、他に時事通信社もある。いわばこの大特ダネを、どうして共同だけが独占できたかという疑問は、他の新聞社の記者たちのハギシリを尻目に、ふたたび現れたのであった。

すなわち、講和発効後、同社元モスクワ特派員、編集局次長坂田二郎氏が、はじめての日本人記者としてモスクワ入りをして、いまや共同通信社を脱退していた三大紙を口惜しがらせたのである。

藤田記者の単独会見、坂田記者の初のモスクワ入りと、相次ぐ〝事件〟の前に「外事特高」

と呼ばれて、対ソ関係に敏感な治安当局では、ようやく首をかしげはじめた。

一方、さる二十七年暮の鹿地・三橋スパイ事件で、はじめてソ連引揚者の重要な役割に気付いた当局では、今更のごとくあわてて、ソ連引揚者について真剣な研究をはじめ、個人カードの作製をはじめていた。これぞと思う引揚者の在ソ経歴、帰国後の履歴を詳細に調べて個人カードを作り、その一連の動きを観察して、方向をつかもうというのである。

こうして当局が地味な捜査をつづけているうちに、ある一人の引揚者によって、意外な〝偽装結婚〟の告白を得たのである。その引揚者(特に名を秘す)は次のようにその体験を語っている。

……結婚の翌日、私は病弱者として日本へ帰される事になりました。何が何だか分らない突然の命令だったのです。私は彼女とのあわただしい別れを借しみました。彼女はいいました。

『また、東京で! 九段の大村益次郞の銅像前で!』

もはや、私は彼女のいうがままでした。そして私が大村銅像前で逢ったのは、もちろん彼女ではありませんでした。そのソ連人は、いいました。

『彼女はその後、お前の子供を産んだ。彼女は子供と一緒に、お前が再び訪ねてくる日をたのしみにモスクワで働いている』