赤い広場ー霞ヶ関 p014-015 稚内の漁船がソ連兵の腐乱死体を揚げる

赤い広場ー霞ヶ関 14-15ページ 鹿地事件、三橋事件、そして関スパイ事件、丸山警視は口を閉ざす。関事件の2カ月前、底引き網にソ連兵の腐乱死体が掛かった。
赤い広場ー霞ヶ関 Water corpse of Soviet soldier

丸山警視は関事件発生直後、空路現地に飛んで、中央と現地の連絡や、現地の各関係当局間の調整に努めてきたばかりだ。

『……こうしてここしばらくの現地での動きを捕えてみると、意外にもいろいろなことがあるのです。関事件の奥行きの深さ。我々当局者としては、それを捕えたかったのです』

警視はこういって口をつぐんだ。八月六日関を逮捕した時、現地の意見は二つに分れてしまった。国警側は、関を泳がせて (監視付で釈放すること)関の次に来るべきレポ・スパイを捕え、一味の日本国内における組織の全ぼうを暴こうとしたのに対し、検察側は反対した。ソ連船を捕獲しなければ、関は事件として固まらない (起訴して公判を維持することができないということ)から、関のサインでソ連船をおびきよせようというのである。結果は検察側の主張通りとなって、クリコフ船長ら四ソ連人を捕えたが、スパイ団は関だけの損害で、その組織を守り通すことができたのだった。

『だが、まだ我々には、正直にいってこれからのナゾを解き切れないのです。もちろんこのような幾つものナゾを解明すべく、当局は懸命に捜査中だとしか、申上げることはありません』

これらのナゾ! 幾つものナゾ! 丸山警視の額に刻まれたシワのかげにひそむナゾとは、一体何であろうか?

もはや、口をかんして語らない警視の言葉をかりずに、今や国警が関事件の全ぼうをつかむ緒口として、必死の捜査を続けているナゾのかずかずを探ってみよう。

話は関事件の発生した八月六日より二ヶ月も前、六月七日にさかのぼる。

稚内市南浜通二丁目、瀬戸漁業部所属の第一二八東丸 (五〇トン)は、船長小西勝太郎さん以下十四名の乗組員で、いつもの通り宗谷岬沖で底曳網をひいていた。七日の午前十一時ごろ、何回目かの網を引きあげたところ、かかってきた魚のなかに何やら死体のようなものが入っていた。

顔、頭はすっかり腐敗して骨さえ露出していたが、着衣は明らかにソ連兵である。大変なものが揚ってきたというので、第一二八東丸は早目に漁を終へて、午後二時ごろ、小樽海上保安部稚内警備救難署に無電連絡した。

『第一二八東丸は、宗谷岬方位八五度一九浬の洋上にて、ソ連兵らしき死体を拾得。推定二十二才位の男。十七時入港の予定』と。 連絡をうけた同署では、直ちに稚内区検に連絡、検屍医師の手配など整えて、第一二八東丸の入港を待ち構えた。