新宿慕情 p.050-051 日本橋の紅花、行列して待つほどの繁昌ぶり

新宿慕情 p.050-051 食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。
新宿慕情 p.050-051 食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。

私が、このエルザに、毎日のように通ったのは、昭和三十四、五年ごろから、四十五年ごろまでの十年間。
むかしは、二階が同件席だった。美人喫茶に、あまり美しくない女の子と入るのには、女性側

に抵抗がある。だから、二階の効率は悪かったらしい。

やがて、二階を喫茶バーに変えたりしたが、大テーブルの向こう側に女性がいて、酒類を飲みながら、安く、人生論を展開したりするには、あまりにも、世の中が〝現金〟化しすぎていたし、女性側にも、もう、そんなロマンチストは、数少なくなっていたので、これもまた、すぐ飽きられて、水揚げが悪かったようだ。

田中角栄氏が、すでに、幹事長になっていたセイだろう……。即物的な風潮が、もはや、美人喫茶などという、ロマンを押しツブしてしまう時代だった。

この要町通りの一角は、私の新宿での、一番関係の深い土地である。

ランチならいこい

エルザとの十何年の付き合いと、ほぼ同じくらいになるのが、エルザと背中合わせの角にある「いこい」というキッチンだ。

食べ物屋は、美味いのが第一で、次が安いこと。そして、量ということになる。そのうえ、材料が新鮮、ということになれば、もう、申し分がない。

この「いこい」は、現在も、いよいよ盛業中なので、いささかCMめくけれども、〝事実は雄弁に勝る〟のだから、しようがない。

ここの若ダンナが、まだ独身時代からで、結婚し、子供が生まれ、大きくなってゆくのを、ず

っと、目撃しつづけてきたのだ。

それは、〈いこいランチ〉を通じての仲である。

「いらっしゃーい。まいど」

「ごちそうサン」

交わす会話はこれぐらいでも心と舌とは通じ合っている。万古不易……といえば、大ゲサすぎるが、洋食屋で、これほど変わらない店は少ない。

もう、ズッとむかし。日本橋の紅花に行って、その味と量と値段とに、驚いたことがある。ランチ・タイムなどは、付近のサラリーマンたちが、行列して待つほどの、繁昌ぶりだ。

この〝好況〟に、経営者は、その気になったらしい。チェーン店がふえるたびに、味が落ち客足が落ちて、値段が上がってゆくのだ。もう、紅花などに見向きもしなくなって久しい。

食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。味が、ガラリと変わってしまう。中国料理店など、その代表的なものだろう。

だから、少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもとだ。飲み屋は、サービスとフンイキだから、チェーン店を出せる可能性もあるが、食べ物屋は、そうはいかない。

カミさんとて、そうそう、取り替えられるものではない。ということは、別に、道徳的な理由からではない。