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新宿慕情 p.048-049 純・喫茶店を求めて街を歩く

新宿慕情 p.048-049 私は、むかし気質のエンピツ職人。一業をもって一家をなすべし。ナンデモ屋でみな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。
新宿慕情 p.048-049 私は、むかし気質のエンピツ職人。一業をもって一家をなすべし。ナンデモ屋でみな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。

エルザという喫茶店は、寄席の末広亭前の通りを、靖国通りのほうへ行った右角。いま、老朽化した二階建てを、これまたビルに改築中である。キット、あの木造のギシギシいった風情が、

まったく、なくなってしまうだろう。

もっとも、近年のエルザは、ツマラない、ただの喫茶店になってしまっていた。

むかしは、コーヒーが美味くて、椅子が大ぶりなうえに、卓との空間がひろく、フワッと身体が沈むセットを使っていた。いうなれば、〝目には青葉、山ほととぎす、初鰹〟という、三位一体の、美人喫茶だった。

それなのに、椅子は、張り替え張り替えで固くなり、コーヒーの味も並み。目を愉しませてくれる女の子は、よくまあ〝伝統あるエルザ〟に応募してきたナ、という感じである。

昭和四十年代に入ると、高度成長のアオリで、ネコもシャクシも、〝すなっく〟ブームだ。

喫茶店にあらず、レストランにあらず、バーにあらず、ラーメン、スパゲティ屋にあらず。すべてに、似而非(えせ)なるものの、混合体を〝すなっく〟というらしい。

私は、むかし気質のエンピツ職人をもって任じている。それだけに、専門家を尊敬する。一業をもって一家をなすべし、となるのだから、この、ナンデモ屋で、しかも、みな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。

関西へ行くと、喫茶店がカレーやスパゲティを出す。純・喫茶店を求めて、街を歩くのだが、準・喫茶店しかないので、ホテルのコーヒー・ショップを、止むなく利用する。

言葉に厳格なせいか、私は、クラブというのも用いない。バーという。バーの高級そうなのをクラブというらしいが、自分が金を出してアルコール類を飲んでいるのに、女給ども(これもまた

ホステスという言葉がキライだ)が、コーラかなんかを飲むと、「アッチに行ってくれ」と、断りたくなる。

同様に、コーヒーをたのしんでいる横で、カレーやラーメンを食われては、コーヒーの味が落ちるからイヤなのだ。

なつかしのエルザ

マキさん、というレジ係の中年の女性がいた。着物の良く似合うひとで、もう、大きな中学生の男の子がいた。

馴染み客でない男には、ママと見えるほどの貫禄があったが、実は、従業員だった。十年以上もいたのではなかろうか。

このマキさんが辞めて、エルザは、完全に、昔日の栄光を失った。

エリザベス女王と同じように、いつも、微笑を浮かべて、客商売の基本を崩さなかった。ただ女王陛下の〝威厳の微笑〟に比して、マキさんのは、〝慈愛のほほえみ〟であった。女らしさと品の良い色気とが、織りまぜられていた微笑だった。

私が、このエルザに、毎日のように通ったのは、昭和三十四、五年ごろから、四十五年ごろまでの十年間。

むかしは、二階が同件席だった。美人喫茶に、あまり美しくない女の子と入るのには、女性側

に抵抗がある。だから、二階の効率は悪かったらしい。

新宿慕情 p.050-051 日本橋の紅花、行列して待つほどの繁昌ぶり

新宿慕情 p.050-051 食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。
新宿慕情 p.050-051 食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。

私が、このエルザに、毎日のように通ったのは、昭和三十四、五年ごろから、四十五年ごろまでの十年間。
むかしは、二階が同件席だった。美人喫茶に、あまり美しくない女の子と入るのには、女性側

に抵抗がある。だから、二階の効率は悪かったらしい。

やがて、二階を喫茶バーに変えたりしたが、大テーブルの向こう側に女性がいて、酒類を飲みながら、安く、人生論を展開したりするには、あまりにも、世の中が〝現金〟化しすぎていたし、女性側にも、もう、そんなロマンチストは、数少なくなっていたので、これもまた、すぐ飽きられて、水揚げが悪かったようだ。

田中角栄氏が、すでに、幹事長になっていたセイだろう……。即物的な風潮が、もはや、美人喫茶などという、ロマンを押しツブしてしまう時代だった。

この要町通りの一角は、私の新宿での、一番関係の深い土地である。

ランチならいこい

エルザとの十何年の付き合いと、ほぼ同じくらいになるのが、エルザと背中合わせの角にある「いこい」というキッチンだ。

食べ物屋は、美味いのが第一で、次が安いこと。そして、量ということになる。そのうえ、材料が新鮮、ということになれば、もう、申し分がない。

この「いこい」は、現在も、いよいよ盛業中なので、いささかCMめくけれども、〝事実は雄弁に勝る〟のだから、しようがない。

ここの若ダンナが、まだ独身時代からで、結婚し、子供が生まれ、大きくなってゆくのを、ず

っと、目撃しつづけてきたのだ。

それは、〈いこいランチ〉を通じての仲である。

「いらっしゃーい。まいど」

「ごちそうサン」

交わす会話はこれぐらいでも心と舌とは通じ合っている。万古不易……といえば、大ゲサすぎるが、洋食屋で、これほど変わらない店は少ない。

もう、ズッとむかし。日本橋の紅花に行って、その味と量と値段とに、驚いたことがある。ランチ・タイムなどは、付近のサラリーマンたちが、行列して待つほどの、繁昌ぶりだ。

この〝好況〟に、経営者は、その気になったらしい。チェーン店がふえるたびに、味が落ち客足が落ちて、値段が上がってゆくのだ。もう、紅花などに見向きもしなくなって久しい。

食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。味が、ガラリと変わってしまう。中国料理店など、その代表的なものだろう。

だから、少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもとだ。飲み屋は、サービスとフンイキだから、チェーン店を出せる可能性もあるが、食べ物屋は、そうはいかない。

カミさんとて、そうそう、取り替えられるものではない。ということは、別に、道徳的な理由からではない。