新宿慕情 p.094-095 私の背広のほとんどがクレジットの丸井のもの

新宿慕情 p.094-095 私は、コーヒー好きだが、コーヒーについての講釈はできない。~ただ、どこの喫茶店のコーヒーが美味いか不味いか、だけなのである。~衣類もそうだ。
新宿慕情 p.094-095 私は、コーヒー好きだが、コーヒーについての講釈はできない。~ただ、どこの喫茶店のコーヒーが美味いか不味いか、だけなのである。~衣類もそうだ。

その秋のある日。淡島から乗りこんできた男の顔に、見覚えがあった。
「アッ、小宮山クンじゃない? 三田だよ。どうしているの?」
「お久し振りでございます。私いま、こういうことを……」
相変わらず、折り目正しい挨拶をしながら、彼は、一枚の名刺を差し出した。「衆議院議員佐藤栄作・秘書」とあった。
「ハイ、秘書と申しましても、ナニ、〝台所秘書〟でして……」
ヘヘーン……と、私は感じた。それでも、まだその時には、彼が、平和相互一族とは気が付かなかった——その後、彼の初出馬が、大きな選挙違反を起こし、司直の手が、落選候補の身辺ま

で迫った時、読売の同期生だった徳間康快が、その〝モミ消し〟に活躍した、という話を聞いた時、初めて、〝小宮山重四郎・元読売記者〟の身上について知ったのだった。

コーヒーの話、しかも、医大通りのグループと、ホテル・サンライトの裏手に当たる、新田裏交差点の、バロンとの、味比べについて書こうとしながら、喫茶店通いが身についてしまった思い出話が、ついつい、長引いてしまった——。

美味いかどうかで

私は、コーヒー好きだが、コーヒーについての講釈はできない。つまり、コロンビアだとかモカだ、ブルーマウンテンだなどと、原産地や豆の混合についての知識は、皆無なのだ。

ただ、どこの喫茶店のコーヒーが、美味いか不味いか、だけなのである。

だから、行きつけの店でも、コーヒーの特注はしない。その店のレギュラーものが、美味いかどうか、だ。

同様に、ウィスキーなど、酒類についても、銘柄だとかの好みはいえるが、酒についての造詣も深くない。

酒が、美味く、たのしく飲めて、雰囲気が良ければ、それで良しとする。

衣類もそうだ。舶来生地であろうがなかろうが、自分に似合うものを、気持ち良く着こなせれば、それでよい。

いまは、そんなこともなくなったが、むかしは、旅館に一見の客がくると、番頭が、靴とベルトを見て、所持金の有無を判断し、さらに、夜に、部屋までフトンを敷きにきて、客種を瀬踏みした、ものだそうだ。

私のことを、〈お洒落〉だという人がいる——しかし、例えエナメルの靴をはいていても、それは、はき易いし、その服に似合う、と考えて、買ったもので、ベルトなどは、バーなどがお中元にくれた安物しか、使わない。靴ははき易く疲れないもの、ベルトは、ズボンがズリ落ちなく機能するものであれば充分だ。

私の背広のほとんどが、クレジットの丸井のもの、と話して驚かれたこともある。

もっとも、これにはワケがあって、家内の高校友だちが、腕のいい洋服職人と結婚していて、そのダンナに仕立ててもらっていた。

むかしは、府立五中時代の制服屋のダンナに作ってもらっていた。つまり、子供のころから私の体型を知っている人だから、フィットする仕立てだった。

それから以後、知人に紹介されたり、アチコチの洋服屋で作ってみたが、最初の一着で(どんな入念な仮り縫いをしたとしても)腕を通してみて、ピタッときまる洋服屋に出会ったことはない。

それは、注文者の体型を熟知していないからである。人間の身体は、左右の手の長さは同一ではないし、生身なのだから、メジャーの数字以外の、プラスアルファがあるものなのだ。

家内にいわれて、はじめは、オ義理のつもりで、一着、頼んでみた。ところが、「どうせピタ

ッとこないだろう」と思ってなかば諦めの心境だったのに、これがなんとまあ、一パツでドンピタなのである。