事件記者と犯罪の間 p.164-165 「そうです。私が上海の王です」

事件記者と犯罪の間 p.164-165 この王は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙(とげつしょう)と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。
事件記者と犯罪の間 p.164-165 この王は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙(とげつしょう)と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。

そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。
まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介

しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日に逮捕されている。

私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された続きもの「東京租界」の記事がある。これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を引続き行使して、その植民地的支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と打ち下した日本ジャーナリズムの最初の鉄槌であった。

原四郎部長の企画、辻本芳雄次長の指導で、流行語にさえなった「東京租界」というタイトルまで考え出し、取材には私と牧野拓司記者とが起用された。牧野記者は文部省留学生でオハイオ大学に留学したほどの英語達者だったので、良く私の片腕になってくれた。そして、この記事をはじめとするキャンペーン物で、文芸春秋の菊池寛賞の新聞部門で、読売社会部が第一回受賞の栄を担ったのである。原部長以下の読売社会部の多くの人がそう思ったのであろうが、この菊池寛賞は、私は、私自身がとったのだと自負していたものである。

その第一回の記事に、「ねらう東洋のモナコ化、烈しい縄張り争い」と、国際バクチ打ちの行状がある。この時に登場を願ったのが、即ちこの王長徳である。つまり、東京租界を自分のシマ(縄張り)にしようと、三人の国際博徒の大物が争っている。その一人はアル・カポネの片腕、アメリカはシカゴシチーで東洋人地区の取締りをやっていた朝鮮系米人のジェイソン・リー。二人目は、フィリピンはマニラの夜の大統領といわれるテッド・ルーインの片腕、自称宝石商のモーリス・リプトン。どんじりに控えたのが、上海の夜の市長、〝上海の王〟だという情報だった。

牧野記者と二人で、この大物バクチ打ちの所在を探し、リーとリプトンとにはインタヴューすることができたが、〝上海の王〟はその所在さえつかめない。調べてみると、この王は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙(とげつしょう)と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。

そしてこの青幇の幹部の一人が経営していた、銀座二丁目の米軍人クラブのVFWクラブにもぐりこんでいるというところまで突きとめたが、どうしても会えない。他の二人には会えたのに三人目が欠けたのでは面目ないと、考えこんでいる時、サツ廻りの上野記者が、「新橋に王という変った男がいますよ」と情報を入れてくれた。

話を聞いてみると、帆足、宮腰氏らの訪ソ旅行の旅費を出したとか、自由法曹団の布施弁護士は父親みたいな仲だとか、花村元法相とは「花ちゃん」という付き合いだとか、いろいろと面白い話が多い。そこで窮余の一策として、彼に会って、「貴方が上海の王といわれる有名なバクチ打ちか」と、当ってみたものだ。

すると、ハッキリ別人だということが調査して判っていたのに、意外にも彼はニコヤカにうなずきながら、「そうです。私が上海の王です。上海時代はビッグ・パイプとも仇名されていたので、このキャバレーにもその名をつけたのです」というではないか。

こうして「登録証を信ずると、十一歳の時にビッグ・パイプという名を持った国際バクチの大親分という、世にもロマンチックな話になる」と、皮肉タップリな記事となって紙面を飾った。