事件記者と犯罪の間 p.182-183 計画は崩れもはや最悪の場合である

事件記者と犯罪の間 p.182-183 私の計画はその第一歩では成功であった。ところが、事態は意外な進展をみせて、十五日には安藤、久住呂の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。
事件記者と犯罪の間 p.182-183 私の計画はその第一歩では成功であった。ところが、事態は意外な進展をみせて、十五日には安藤、久住呂の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。

パタリと私は六法を閉じた。私の行為は、この行為だけを取り出してみるならば、明らかに「犯人隠避」である。つまり、捜査妨害なのである。しかし、私は果して当局の捜査を妨害しようとしているのだろうか。否、否。捜査に協力する目的、事件を解決するために、一時的に、し

かも、逃がさないために北海道へやるのだ。

新聞記者の取材活動には、しばしば不法行為がふくまれる。密航ルートの調査のため、台湾人に化けて密航船にのりこみ、密出国(出入国管理令違反)し、香港まで行ったケースもある。この場合は、密航ルートの調査資料を、当該当局に提供することによって、訴追をまぬかれているのだ。犯人を逮捕させることによって、その経過の中の不法行為もまた許されるであろう。

翌七月十二日、正午すぎに塚原さんが最高裁内の記者クラブにたずねてきた。二人で「奈良」へ向った。二人を紹介したところ、塚原さんは事務的に、旭川の外川材木店の住所と駅からの略図とを書いて教えた。約三十分の会見で塚原さんは立上った。その時、小笠原が、私に一万円を渡して、「下着類と旭川までの切符を買って下さい」と頼んできた。そうすることに、若干の抵抗は感じたが、もはや私の計画は実行行為に入っているのだ。今さら、「それは困る」とはいえない。

塚原さんを東京駅に送ると、交通公社で切符を買い、三越で下着類を買って、再び「奈良」へもどった。十六時五分という急行があるので、それに間に合うようにと、車を飛ばして上野駅へかけつけ、小笠原を駅正面でおろしたのが、四時十分前ごろであった。

おろしてからの一、二時間は、本当のところ恐かった。もしかするとメングレ(顔見知り)の刑事が駅に張り込んでいて、彼を逮捕するかも知れないからだ。しかし、メングレでなければ、手配写真などでは、絶対に判らないだろうと考えて、列車にさえのれば旭川着は間違いないと思っ

た。そして、私の雄大豪壮な計画はまず、その第一歩では成功であった。

ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。この秋に、私たち戦前の演劇青年、少女たちが集って、職業人劇団を結成し、その第一回公演を、やはりメンバーの一人である大川耀子バレー研究所の発表会に便乗して、砂防会館ホールで開こうという計画があった。その準備の会合で、十三、十四の両日がつぶされたが、十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。

全く、アレヨアレヨと思う間の進展ぶりで、私の計画は早くも崩れはじめた。もはや最悪の場合である。小笠原一人の逮捕協力以外に途はなくなってしまったのであった。志賀、千葉両名はまだ残っていたが、花田がいなくなっては、もはや連絡のとりようもなかった。私は最後に小笠原を出そうと決心して、彼の連絡をひたすらに待っていた。

十九日にフクから「会いたい」と電話がかかってきた。夜、渋谷であってみると、別に彼のもとにも連絡はなかったようである。私はもちろん無制限に小笠原を旭川においておくつもりはなかった。「就職させた」などと報じられているが、彼は外川材木店で働いていたわけではないし、外川方で金をもらってもいない。あずかってもらっただけだ。

三日にはじめてあい、四日に別れたあと、私は読売という組織の中にある新聞記者として、十分な措置をとっている。従って、七月三、四日両日の行動は、新聞記者の正当な取材活動として

の埒は越えていないし、警視庁当局でもこの点は「取材活動」として認めてくれている。