事件記者と犯罪の間 p.184-185 私は会見記を書かなかった

事件記者と犯罪の間 p.184-185 逃走犯人との会見記事の実例は、朝日の伊藤律架空会見記、同じく殉国青年隊長豊田一夫会見記などがあるが、私はこの種の会見記は、邪道だと信じていた。
事件記者と犯罪の間 p.184-185 逃走犯人との会見記事の実例は、朝日の伊藤律架空会見記、同じく殉国青年隊長豊田一夫会見記などがあるが、私はこの種の会見記は、邪道だと信じていた。

三日にはじめてあい、四日に別れたあと、私は読売という組織の中にある新聞記者として、十分な措置をとっている。従って、七月三、四日両日の行動は、新聞記者の正当な取材活動として

の埒は越えていないし、警視庁当局でもこの点は「取材活動」として認めてくれている。

というのは、四日に別れた時の小笠原との約束は、「今度連絡してくる時は、三田記者の手を通して自首する」ことであった。そこで私は五日か六日ごろ、社会部長に対して、

「横井事件の犯人である小笠原という男に逢えそうです」と、報告した。金久保部長は、「小笠原って、どんな奴か」ときいた。

「はじめは、横井を狙撃した直接下手人と思われていたけど、のちにこれは千葉という小笠原と瓜二つに顔の似た男に訂正されました。しかし、安藤組の幹部だというし、殺人未遂犯人ですから、逮捕前の会見記は書けるでしょう」

私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら、「だけどあまり深入りするなよ」と注意を与えたのである。

会見記は書かなかった!

私は一方、警視庁クラブへ電話して、事件担当の三橋記者にいった。「オイ、近く俺のところにホシ(犯人)が浮んできそうだから、段取りをつけたら、君と深江君とにやるからナ」

三日、四日の小笠原との会見で、ほぼ取材は済んでいたが、この時には自首をすすめて容れられずに別れているので、部長にも担当記者にも、すでに一度会っていることは、あえていわなかったし、会見記の原稿も提稿しなかった。

何故かというと、逃走犯人との会見記事の実例は、朝日の伊藤律架空会見記、同じく殉国青年隊長豊田一夫会見記などがあるが、私はこの種の会見記は、邪道だと信じていた。第一に、この種の会見記の意義というのは、何ら認められないからだ。警察が法律の執行体として追究している犯人に、ただ単に会見して別れてしまうということは、犯人に逃走を誇示させて〝英雄〟気取りを抱かせるし、同時に警察の無能ぶりに対する挑戦ともいえる。従って警察の威信を傷つけることが大だからである。

善良なる市民は、法の保護の下に平和な生活を営んでいるのだ。もし、暗黒政治とまではゆかなくとも、警察を信頼できなくなったら、それこそ「俺が法律だ」という、〝力が正義〟になってしまう。やはり、警察は信頼できるものでなければならないし、信頼されなければならない。

これが私の記者生活間における信念であった。だからこそ、私は小笠原に自首をすすめたけれど、「逮捕ですよ」と念を押している。新聞が犯人の逃走誇示に片棒をかつぐことはできない。そこで、会見記の原稿を書かなかった。それよりも数日後には、逮捕されるのだから、逮捕数時間前の会見記というスリリングなニュースの方が余程良い。また事件担当記者に会わせる方が、より細かく、より具体的な質問ができるからである。

以上の理由から私は、会見記を新聞には書かなかった。元山会見記は、犯人として手配はされていない、カギを握る人物だから、事情が全く違うのである。しかし、私はこの小笠原との会見記は、雑誌『日本』の「近代企業に巣喰う暴力」と題する原稿には書いた。インテリ・ヤクザの

言い分をのせたかったからである。