最後の事件記者 p.396-397 本紙がほとんど独走の形である

最後の事件記者 p.396-397 もう全く私の独走だった。自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。
最後の事件記者 p.396-397 もう全く私の独走だった。自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。

次は保谷の住所である。これは日経、読売、毎日の順、ともかく十三日付朝刊の都内版には各紙いずれも同じ歩調で出揃ったのである。十二日夜の保谷、田無一帯は、一社二、三台の車計二、三十台の車が、三橋の家を探しもとめて東奔西走。そのヘッド・ライトが交錯して、大変美しい夜景だったというから、如何に凄まじ

い競争だったか判るだろう。

その後は、原稿を送る電話の争奪戦、さらに今度は留置されている警察の探しッくら。毛布を冠せて横顔すら見せない、三橋の写真の撮り競べと、オモチャ箱を引繰り返したような騒ぎだった。

だが、こうして基礎取材競争が終ってからというものは「幻兵団」のデータが揃っているだけに、もう全く私の独走だった。十三日の夕刊で早くも自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。

ここに、同じ〝事件〟であっても、刑事部の捜査一課事件の、殺人(コロシ)強盗(タタキ)などの、偶発的非組織事件と、計画的、組織的事件との違いがある。同じ刑事部事件でも、捜査二課となると、やはりこのコロシ、タタキとは違って、記者の平常の勉強が問題になってくる。

この三橋事件当時の、記事審査日報、つまり社内の批評家の意見をひろってみると、「三橋の取調べの状況については、各紙マチマチで、毎日は(鹿地氏との関係はまだ取調べが進まず……)とし、朝日は(当面鹿地との関連性について確証をつかむことに躍起になっている)と一段の小記事を扱っているにすぎないが、これに反し本紙は、三橋スパイを自供す、と彼が行ってきたスパイ行為の大部分の自供内容を抜き、特に問題の中心人物鹿地が藤沢で米軍に逮捕された時も、三橋とレポの鹿地が会うところを捕えられたのだと、重要な自供も入っているのは大特報だ」と、圧倒的なホメ

方である。

これが十三日付夕刊の批評で、十四日朝刊は、「朝毎とも、三橋の自供内容は、本紙の昨夕刊特報のものを、断片的に追いはじめている」とのべ、さらに夕刊では、「昨夕刊やこの日の朝刊で、朝毎が本紙十三日夕刊の記事をほとんどそのまま追い、本紙もまたこの夕刊で、現在までに取調べで明らかになった点、として改めて本紙既報のスクープを確認している。こうして三橋がアメリカに利用されている逆スパイであることが、確認されてみると、十三日夕刊の特ダネは、大スクープであったことが裏付けされたわけで、特賞ものである」と、手放しである。

十五日には「朝毎は相変らず、本紙十三日夕刊の記事を裏付ける材料ばかりだ」十六日になると、「本紙は今日もまた三橋関係で、第二の三橋正雄登場と、二度目の大ヒットを放ち、第一の三橋が紙面でまだハッキリと固まらず、何かモヤモヤを感じさせている際であるから、この特報はまたまた非常に注目された。本紙のこの特報で、いよいよナゾが深まり、問題はますますスリルと興味のあるものとなった」十八日には「三橋の第一の家は本紙の独自もので、大小にかかわらず、本紙がほとんど独走の形であるのは称賛に値する」と、私の独走ぶりを、完全に認めてくれている。

古ハガキ紛失事件

年があけて、三橋は電波法違反で起訴になり、その第一回公判が六日後に迫った。二十八年二

月一日、記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。