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読売梁山泊の記者たち p.078-079 元旦の夜から徹夜マージャン

読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。
読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。

いい仕事、いい紙面だけが勝負

昭和二十年。敗戦とともに、戦時中の新聞統合は崩れたが、新聞用紙は割り当て配給制だ。各紙同じスタートラインなので、戦前の〝朝毎〟時代は終わったか、と思われたが、やはり、朝・毎は強かった。

私は、昭和二十年代を、朝日・毎日時代と見る。昭和二十七年、大阪読売を発刊して、おくれ馳せながら、全国紙体制を整えた読売が加わって、昭和三十年代は、朝・毎・読の三紙並列の時代。

そして、昭和四十年代が、毎日が凋落して朝日、読売、毎日の時代となり、同五十年代には、それが決定的になって、朝日、読売の二紙拮抗の時代。さらに、六十年代になると読売・朝日の時代へと進んでゆく。

その、読売の飛躍のバネを、私は、前に〝読売の非情さ〟と、指摘した。私が、昭和十八年に、読売を撰択した根拠は、多分、朝毎に対し、追いつき、追いこせの、バイタリティあふれる、読売にひかれたのであろう。

読売には、学閥がない、派閥がない、と聞いていたからでもあろう。いうなれば〝荒野の七人〟だったのである。事実、昭和二十二年、シベリアから復員してきた私が、読売社会部に復職してみて、その〝雑軍〟ぶりに驚いたものであった。

経歴不詳、前職不明。文字通りの〝エンピツやくざ〟が、社会部記者と称していたのであった。明

治時代の新聞記者が、役者の〝河原乞食〟と同列に、「探訪」と「戯作者」に分類され、「職業の貴賤」のうちの、「賤」に位置していたことを、ほうふつとさせるものがあった。

社会部記者の華は、〝金と酒と女〟の結果の「事件」であった。だから、当時は、原稿の書けない記者が、ゴロゴロしていた。それでも、〝金と酒と女〟とに原因する事件だけは、嗅ぎつけてくるのだ。

その、〝エンピツやくざ〟百名を統轄する社会部長が、〝やくざ〟さながらの、府立五中、慶大卒の竹内四郎であった。竹内ならでは、あの〝梁山泊〟そのままの社会部を、率いることは、できなかったであろう。

正月には、逗子の竹内家に、社会部員が連日やってくる。元旦の夜から、徹夜マージャンである。竹内部長は、部下たちから、容赦なく、賭け金を取り立てる。実際、強引な打ち方で強い。

部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。

部下たちは、疲れ切って、東京に帰ってゆく。金がないから、社へ出て、取材費の前借伝票を書いて、デスクに出す。ポンとハンコを押す。編集庶務へ行くと、その伝票は現金になる。そこで、仲間同士で、大福帳の精算をする。

松が取れたあたりから、竹内部長は、「オイ、あの件はどうなった?」と、ハッパをかけ出すから、〝エンピツやくざ〟たちは、駈けずりまわらざるを得ない。

これが、昭和二十年代前半の、読売社会部のバイタリティだったのである。

読売梁山泊の記者たち p.080-081 ヒットのほとんどが辻本の作品

読売梁山泊の記者たち p.080-081 辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。
読売梁山泊の記者たち p.080-081 辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。

そして、そのあとを継いだのが、文化人・原四郎である。戦後の混乱期も、ようやく安定化に向かいはじめていた。情に溺れず、能力だけを買う、原の施政方針は、いつの間にか、〝エンピツやくざ〟たちを、自然淘汰していったのであった。

昭和二十年代の、朝日・毎日時代から、三十年代の、朝・毎・読時代へと、二流紙読売を、一流紙に押し上げていった〝活力〟は、紙面では、竹内四郎の基礎造りと、原四郎の七年に及ぶ、社会部長時代、出版局長、編集局長という、二十余年の成果であった。

もちろん、業務面での、務臺光雄〝販売の神様〟との、両々相俟ったことは、いうまでもない。

だが、私が七年間も、部長として仕えながら、原四郎の家で、酒を呑んで騒いだ、という記憶がない。タッタ一度だけ、数名の仲間と、自宅へ行った記憶がある。

それは、当時としては、まだ珍しかった電話器の差しこみコンセントを見て、「ハハア、やっぱり、社会部長ともなると、電話器も最先端をゆくものだなァ」と、感心したことを覚えているから、だ。

だが、自宅へ行っても、竹内家のように、〝豪快な乱痴気騒ぎ〟ができなかったせいか「ハラチンの家は、ツマらん」ということになって、みな、行かなくなったのだろう。原自身は、決して、酒を呑まないわけではなかったのだが、ハメを外さない〝紳士〟然とした酒、だったのである。

原四郎は、社会部長になると、筆頭の森村正平から、四席までの次長を放出して、五席の羽中田誠を筆頭に、デスク陣の大幅な入れ換えを行った。

次長は、通称デスクと呼ばれ、六人が交代で、朝夕刊の紙面作りをする。常時、デスクはデスクにいて、記者を指揮し、原稿に目を通し、整理部、写真部、地方部などとの、連絡調整に当たる。社会部の実質的な責任者である。

部長は、次長を信頼することによって、その職務が遂行され、紙面が作られるのだ。次長の次には、警視庁、法務省詰めの主任(キャップ)がいて、さらに、警察記者のボスである通信主任が二人いる。これが、サツダネ(警察原稿)を処理する。

最近では、都内支局ができたので、その支局長が、主任の次に位置している。この役付き以下は、入社年月日順に並ぶ。

ある意味で、辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。若くして逝ったが、大阪生まれの大阪育ち。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。

大阪弁で、すぐ、「アホラシ」を連発するので、愛称アホラシと呼ばれて、多くの記者たちに、尊敬されていた。

辻本が次長になると、俄然、頭角をあらわしてきて、原部長時代にヒットした、続きもの(連載・企画記事)の、ほとんどすべてが辻本のデスク作品であった。いままでの、読売社会部スタイルとは、まったく違っておりながら、政治、経済はもちろんのこと、国際文化、科学の領域にまで、社会部記事を読みものとして、総合的な立体的構成で、書きおろしたのであった。