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新宿慕情 p.120-121 田中栄一警視総監がオカマに殴られた

新宿慕情 p.120-121 そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。~街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。
新宿慕情 p.120-121 そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。~街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。

ワンの〝部分〟は、紡錐状である。よく、街頭などで見かけるオツナガリは、「水をブッかけろ!」などいわれるように、紡錘状部分の基底部にある、二個の付属品が、相手方の門内に没入してしまっているためで、シロの芸人は、これを恐れなければならない。

しかし、ワンのほうは、やはりパーフェクトを望むので、付属品の没入まで志す。従って、〝腰振りダンス〟の姿勢をとらざるを得なくなる。

一方のシロは、その攻勢を、右に左にと、なんとかして逃げなければならない。この動作があたかも、観る者をして、感嘆手を拍つどころか、ツバを呑みこませる〝迫真〟の演伎に映ずる、という次第だ。

警視庁の留置場で、同房になった「浅草のヨネさん」と呼ばれる、パン助置屋のオヤジから聞いた話である。

管理売春という、重罪容疑で入っていたこの男は、吉屋信子に大辻司郎、さらに、フランキー堺を加えて、三で割ったような顔をして、くったくなげに、おもしろい話をしてくれた。

だから、〈花電車〉の芸人も〈ワンシロ〉も〈シロシロ〉もみんな、〝商売道具〟を大切にして日常の手入れを怠らず、ほとんどが、男などをつくらない、という。ことに〈花電車〉は、プロローグ場面で、料亭などで使う、細長いビールのグラスを使って、深奥部分までノゾかせるのだから、人一倍、手入れと節制を励行するそうだ。

オカマを見せてよ

話が、すっかり飛んでしまったが、まだまだ、〝ホモのヤッちゃん〟の項なのであった。ヤッちゃんは、オカマではなく、ホモらしい。

私が、シベリアから帰ってきて、読売社会部に復職したのが、昭和二十二年の秋のこと。そして、翌二十三年には、上野、浅草のサツまわりに出た。

そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。

浮浪児ばかりか、家も職もない連中が、駅の地下道を埋めつくし、街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。

当時の、田中栄一警視総監が上野の山を視察に出かけて、オカマの集団に襲われ、殴られたという珍事さえ、堂々と出来するのである。

そんなころ、婦人部の女性記者が、私に頼みがある、といってきた。

「ネ、三田サン。オカマっていうの、私に見せて下さらないかしら?」

「アア、いいとも。でも、夜のノガミは、コワイよ」

「だから、三田サンに頼んでいるんじゃない。これでも、オヨメに行くつもりなんだから」

それから、三十年近くたったのだが、読売の社員名簿を見てみると、この女性記者は、まだ婦人部に名を連ねているし、姓も変わっていない。やはり、オヨメには、〝行け〟なかった、のカモネ……。

こうして、私は彼女を伴って宵の上野広小路あたりを、ブラブラと散歩していた。

「アラ、ミーさん!」

人ごみのなかから、嬌声が飛んできた。

読売梁山泊の記者たち p.078-079 元旦の夜から徹夜マージャン

読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。
読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。

いい仕事、いい紙面だけが勝負

昭和二十年。敗戦とともに、戦時中の新聞統合は崩れたが、新聞用紙は割り当て配給制だ。各紙同じスタートラインなので、戦前の〝朝毎〟時代は終わったか、と思われたが、やはり、朝・毎は強かった。

私は、昭和二十年代を、朝日・毎日時代と見る。昭和二十七年、大阪読売を発刊して、おくれ馳せながら、全国紙体制を整えた読売が加わって、昭和三十年代は、朝・毎・読の三紙並列の時代。

そして、昭和四十年代が、毎日が凋落して朝日、読売、毎日の時代となり、同五十年代には、それが決定的になって、朝日、読売の二紙拮抗の時代。さらに、六十年代になると読売・朝日の時代へと進んでゆく。

その、読売の飛躍のバネを、私は、前に〝読売の非情さ〟と、指摘した。私が、昭和十八年に、読売を撰択した根拠は、多分、朝毎に対し、追いつき、追いこせの、バイタリティあふれる、読売にひかれたのであろう。

読売には、学閥がない、派閥がない、と聞いていたからでもあろう。いうなれば〝荒野の七人〟だったのである。事実、昭和二十二年、シベリアから復員してきた私が、読売社会部に復職してみて、その〝雑軍〟ぶりに驚いたものであった。

経歴不詳、前職不明。文字通りの〝エンピツやくざ〟が、社会部記者と称していたのであった。明

治時代の新聞記者が、役者の〝河原乞食〟と同列に、「探訪」と「戯作者」に分類され、「職業の貴賤」のうちの、「賤」に位置していたことを、ほうふつとさせるものがあった。

社会部記者の華は、〝金と酒と女〟の結果の「事件」であった。だから、当時は、原稿の書けない記者が、ゴロゴロしていた。それでも、〝金と酒と女〟とに原因する事件だけは、嗅ぎつけてくるのだ。

その、〝エンピツやくざ〟百名を統轄する社会部長が、〝やくざ〟さながらの、府立五中、慶大卒の竹内四郎であった。竹内ならでは、あの〝梁山泊〟そのままの社会部を、率いることは、できなかったであろう。

正月には、逗子の竹内家に、社会部員が連日やってくる。元旦の夜から、徹夜マージャンである。竹内部長は、部下たちから、容赦なく、賭け金を取り立てる。実際、強引な打ち方で強い。

部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。

部下たちは、疲れ切って、東京に帰ってゆく。金がないから、社へ出て、取材費の前借伝票を書いて、デスクに出す。ポンとハンコを押す。編集庶務へ行くと、その伝票は現金になる。そこで、仲間同士で、大福帳の精算をする。

松が取れたあたりから、竹内部長は、「オイ、あの件はどうなった?」と、ハッパをかけ出すから、〝エンピツやくざ〟たちは、駈けずりまわらざるを得ない。

これが、昭和二十年代前半の、読売社会部のバイタリティだったのである。