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迎えにきたジープ p.076-077 〝自主外交〟の第一石

迎えにきたジープ p.076-077 On May 30, 1952, the Japanese government made a formal notification to the Soviet representative that the Soviet representative had lost the grounds for existence after the enforcement of The Treaty of San Francisco.
迎えにきたジープ p.076-077 On May 30, 1952, the Japanese government made a formal notification to the Soviet representative that the Soviet representative had lost the grounds for existence after the enforcement of The Treaty of San Francisco.

シカゴ・トリビューン紙のウォルター・シモンズ特派員の調べによると、次のような数字が出されている。(年度不明)

部員の洗濯代   五一〇万・〇円
自動車維持費   五三二万・〇円(四十台)
家具購入費   一七四六万・三〇〇〇円
新聞雑誌代    二二八万・六一八八円
印刷製本代    二二七万・四八〇〇円
事務需品代    四二五万・六〇〇〇円
フィルム代      一万・九五七二円
衣服仕立代    二五一万・五二〇〇円
家具修繕費    五一〇万・〇円
製パン費     七二〇万・〇円
 合計     五一五三万・四七六二円

また、同特派員の調べでは、当時二百三十四名の部員で、二百七十九台のダブル・ベッドと七百九脚の椅子と百四の長椅子とを占有していたという。(この経費の項は日本週報二十九年二月二十三日号より)

「元」代表部になってからの最初の帰国者はデレヴィヤンコ中将の跡をついで代表となったA・P・キスレンコ少将であった。二十七年六月二十七日夕六時、横浜を出帆した英船フェンニング号にのった彼は次のようなメッセージを残している。

『日本とソ連両国の友好がつづくことを祈っている。われわれ代表部では、現在日本の敗戦に深く同情している。一刻も早く日本が独立と復興の偉業を達成することを欲して止まない。』

夫人と首席秘書A・ヴォゾフィリン中尉を伴った少将は、名古屋で一時上陸を申請して拒否されたのち、香港、北京経由でモスクワへ帰っていった。

一方政府では七月二十六日を期限として、出入国管理令による在留資格取得の手続を求めていたところ、ソ連側は先手を打って二十二日に七十九名の部員名簿を提出した。

つづいて九月二十四日、横浜出帆の仏船ラ・マルセイエーズ号で、バルヂチェ大佐ら二十四名が帰国、六十六名となった。

三つの工作段階

二十七年五月三十日、政府はソ連代表部に対して、ソ連代表部は講和発効後存在の根拠を失った旨の、正式通告を行うと同時に、外務省からその通告内容の発表を行った。

これは同月六日の宮崎外務省情報文化局長の、初の外人記者会見における談話や、さらに同十五日の吉田首相の国会答弁など、一連の観測気球をあげたのち、スエーデン政府の斡旋拒否に逢って、止むなく取らざるを得なかった〝自主外交〟の第一石だった。

この通告問題は当の外務省にとって頭痛の種だったのである。政府声明だけでは〝通告〟にはならぬ、誰か使者を立てねば……、だが果して会ってくれるかどうか、会ってくれても受取ってくれるかどうか、会わねばどうしよう、受取らねばこうしよう、と頭を悩ましていたのだ った。

迎えにきたジープ p.078-079 工作は大体次の三期に分れる

迎えにきたジープ p.078-079 Looking at the Soviet conspiracy against Japan, it can be seen that a consistent policy is flowing. Since the end of the war, the Soviet was anticipating many years into the future, and Rastvorov was turning Hiroshi Shoji and Nobunori Higurashi into spies.
迎えにきたジープ p.078-079 Looking at the Soviet conspiracy against Japan, it can be seen that a consistent policy is flowing. Since the end of the war, the Soviet was anticipating many years into the future, and Rastvorov was turning Hiroshi Shoji and Nobunori Higurashi into spies.

この通告問題は当の外務省にとって頭痛の種だったのである。政府声明だけでは〝通告〟にはならぬ、誰か使者を立てねば……、だが果して会ってくれるかどうか、会ってくれても受取ってくれるかどうか、会わねばどうしよう、受取らねばこうしよう、と頭を悩ましていたのだ

った。

田村儀典課長とルーノフ参事官との会見は和やかな雰囲気で行われ、何の意志表示もなかったが、受取ってくれたことだけで、政府はホッとした形だった。

和やかな雰囲気と、意志表示をしなかったルーノフ参事官。ここにソ連代表部の実態が端的に示されている。ソ連政府は依然として日本を被占領国とみている。そして、向米一辺倒に奔る日本の現実に〝和やかな雰囲気〟という工作が、政治、経済、文化の各分野に〝沈黙〟のまま執拗に続けられている。

さきにものべたように、終戦後からのソ連の対日工作を眺めてみると、そこには全く一貫した政策の流れていることが分る。たとえばラ氏手記に出てくる終戦時の在モスクワ大使館員の買収の件である。ラストヴォロフ氏は「新日本会」を組織した五人の日本人を指摘している。

この五人というのは、ラ事件の容疑者として公務員法第百条違反(秘密を守る義務違反)に問われた、外務事務官庄司、日暮両氏を含んでいる。つまり終戦時からすでに何年もの後への手が打たれていた訳である。新聞記者オグラ氏も同断であるのは、もちろんのことである。

その工作は大体次の三期に分れる。

第一期 昭和二十年八月代表部設置から、同二十六年までの六年間。この間は基礎工作の段

階である。

第二期 昭和二十六年六月三十日代表部スポークスマンと共同通信藤田記者との会見より、同二十七年四月二十八日講和発効まで十カ月。この間は工作具体化の段階である。

第三期 講和発効から三十年一月までの二年九カ月。この間は仕上げの段階である。

このような三つの段階は、もちろん動きの上にはっきりと現れている。つまり施設からみれば、二十六年七月から八月にかけて、丸の内の三菱仲二十一号館の代表部、文化部、図書館、通商部が接収中の郵政省ビルに移り、八月二十三日に残りの宿舍も狸穴に移転、二十一号館を返還した。これが第一期の終了を示しており、さらに講和と同時に郵政省ビルも、十数戸の個人住宅も返還して、一切が狸穴の旧大使館に移った。

なかでも通商部は、二十七年三月二十七日麻布竜土町十一のUSハウス六九二号だったトリコフ大尉居住の家屋、戦前のソ連大使館商務館へ本腰を据えて落着いた。同時に五月一日から自動車のプレートを「SPACJ(対日理事会ソ連代表)—何番」から「USSR—何番」に全部取換えてしまった。これが第三期の始りだ。

第一期の基礎工作中には目立った動きはない。ただ各国共産党をして活溌に展開させた「平和擁護世界協議会」のストックホルム・アッピールによる戦争反対署名運動で、さらにベルリ

ン・アッピールの「五大国間に平和協定を結べ」というスローガンを国民に訴えていた。