昭和27年5月30日・日本政府が代表部に対して行った・講和発効後存在の法的根拠を失った・旨の正式通告」タグアーカイブ

迎えにきたジープ p.074-075 今や「事実上のソ連代表部」

迎えにきたジープ p.074-075 Only the Soviet embassy, which was a neutral nation until the end of the war, was in a position of "wolf in sheep's clothing". Finally, the wolf showed its true nature by throwing away the sheep's skin.
迎えにきたジープ p.074-075 Only the Soviet embassy, which was a neutral nation until the end of the war, was in a position of “wolf in sheep’s clothing”. Finally, the wolf showed its true nature by throwing away the sheep’s skin.

一 七変化の〝狸穴〟御殿

三十年一月二十五日、鳩山首相は元駐日ソ連代表部ドムニツキー首席の訪問を受けて、ソ連政府の日ソ国交調整に関する意志表示の文書を受取った。そして、それ以来日ソ国交調整の動きは二十九年末以来の潜在的動きとは打って変って、日々眼ま

ぐるしく進みつつある。

この事実は二十七年五月三十日に日本政府が代表部に対して行った、「講和発効後存在の法的根拠を失った」旨の正式通告を否定して、存在を認めるという事実上の承認にもひとしいことである。

この〝変転〟も、太平洋戦争以前に、さかのぼってみてみると、まさに七変化の〝狸〟である。まず戦前は正式な外交関係があり、大使館として認められていたことは、いうまでもあるまい。

だが、戦争ぼっ発と同時に、米英の連合国側大公使館は敵産として管理され、独伊は同盟国として、ゾルゲ事件が起きたほど寬大な自由を得ており、終戦直前まで中立国であったソ連大使館だけは、〝自由+監視〟という、まさに〝狼+羊の皮〟といった中途半端な立場におかれていた。そしてついに狼は羊の皮をカナぐりすてて本性を現わしたのであった。中立国の大使館は三転して敵産になると、アッという間もなく、対日理事会駐日ソ連代表部に変った。この期間がすぎたのが、二十七年四月二十八日の講和発効と同時の、対日理事会の消滅の時からである。

五度変って「元」ソ連代表部となった。これは日本政府がその存在を認めず、外交上の恩恵

によって、あえて退去強制をしないということからである。従って電話帳でも、「モ」の字の項に配列されたのである。

それが今や「事実上のソ連代表部」となった。やがて近い将来に、再び大使館にもどって、その七変化を終るに違いない。

また対日理事会時代の内容は、日本側にとって全く分らないのは止むを得ないのだが、最盛期には家族も含めて約五百人はいただろうといわれている。

その維持費はすべてPD(占領軍調達命令書)でまかなわれていたのであるから、つまり日本政府の負担だったわけである。これを二十五年度でみると、四千二万、六千七百六十円で、各国代表部中のナムバー・ワンであった。

シカゴ・トリビューン紙のウォルター・シモンズ特派員の調べによると、次のような数字が出されている。(年度不明)

部員の洗濯代   五一〇万・〇円
自動車維持費   五三二万・〇円(四十台)
家具購入費   一七四六万・三〇〇〇円
新聞雑誌代    二二八万・六一八八円
印刷製本代    二二七万・四八〇〇円
事務需品代    四二五万・六〇〇〇円
フィルム代      一万・九五七二円
衣服仕立代    二五一万・五二〇〇円
家具修繕費    五一〇万・〇円
製パン費     七二〇万・〇円

 合計     五一五三万・四七六二円

迎えにきたジープ p.076-077 〝自主外交〟の第一石

迎えにきたジープ p.076-077 On May 30, 1952, the Japanese government made a formal notification to the Soviet representative that the Soviet representative had lost the grounds for existence after the enforcement of The Treaty of San Francisco.
迎えにきたジープ p.076-077 On May 30, 1952, the Japanese government made a formal notification to the Soviet representative that the Soviet representative had lost the grounds for existence after the enforcement of The Treaty of San Francisco.

シカゴ・トリビューン紙のウォルター・シモンズ特派員の調べによると、次のような数字が出されている。(年度不明)

部員の洗濯代   五一〇万・〇円
自動車維持費   五三二万・〇円(四十台)
家具購入費   一七四六万・三〇〇〇円
新聞雑誌代    二二八万・六一八八円
印刷製本代    二二七万・四八〇〇円
事務需品代    四二五万・六〇〇〇円
フィルム代      一万・九五七二円
衣服仕立代    二五一万・五二〇〇円
家具修繕費    五一〇万・〇円
製パン費     七二〇万・〇円
 合計     五一五三万・四七六二円

また、同特派員の調べでは、当時二百三十四名の部員で、二百七十九台のダブル・ベッドと七百九脚の椅子と百四の長椅子とを占有していたという。(この経費の項は日本週報二十九年二月二十三日号より)

「元」代表部になってからの最初の帰国者はデレヴィヤンコ中将の跡をついで代表となったA・P・キスレンコ少将であった。二十七年六月二十七日夕六時、横浜を出帆した英船フェンニング号にのった彼は次のようなメッセージを残している。

『日本とソ連両国の友好がつづくことを祈っている。われわれ代表部では、現在日本の敗戦に深く同情している。一刻も早く日本が独立と復興の偉業を達成することを欲して止まない。』

夫人と首席秘書A・ヴォゾフィリン中尉を伴った少将は、名古屋で一時上陸を申請して拒否されたのち、香港、北京経由でモスクワへ帰っていった。

一方政府では七月二十六日を期限として、出入国管理令による在留資格取得の手続を求めていたところ、ソ連側は先手を打って二十二日に七十九名の部員名簿を提出した。

つづいて九月二十四日、横浜出帆の仏船ラ・マルセイエーズ号で、バルヂチェ大佐ら二十四名が帰国、六十六名となった。

三つの工作段階

二十七年五月三十日、政府はソ連代表部に対して、ソ連代表部は講和発効後存在の根拠を失った旨の、正式通告を行うと同時に、外務省からその通告内容の発表を行った。

これは同月六日の宮崎外務省情報文化局長の、初の外人記者会見における談話や、さらに同十五日の吉田首相の国会答弁など、一連の観測気球をあげたのち、スエーデン政府の斡旋拒否に逢って、止むなく取らざるを得なかった〝自主外交〟の第一石だった。

この通告問題は当の外務省にとって頭痛の種だったのである。政府声明だけでは〝通告〟にはならぬ、誰か使者を立てねば……、だが果して会ってくれるかどうか、会ってくれても受取ってくれるかどうか、会わねばどうしよう、受取らねばこうしよう、と頭を悩ましていたのだ った。