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雑誌『キング』p.107中段 幻兵団の全貌 特殊な身上調査

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.107 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.107 中段

の有無にかかわらず)した者がいたという事実は、全シベリア引揚者が、その思想的立場を超越して、ひとしく認めるところである。だがこの密告者たちは、そのほとんどが、ご褒美と交換の、その場限りの商取引にすぎなかった。これは昭和二十一年末までの現象であった。

二度目の冬があけて、昭和二十二年度に入ると、身体は気候風土にもなれて、犠牲も下り坂となり、また奴れい的労働にもなじんでくるし、収容所の設備、ソ側の取り扱いもともに向上してきた。生活は身心ともにやや安定期に入ったのである。ソ側の混乱しきっていた俘虜政策が着々と整備されてきた。俘虜カードの作成もはじめられた。だが、静かにその変遷を見守っていた私の眼には、やがて腑に落ちかねる現象が現れはじめてきた。

その一つは、ある種の個人に対する特殊な身上調査が行われていること。特殊なというのは、当然その任にある人事係将校が行うものではなく、思想係の政治部将校がやっていることだった。しかも、呼出しには作業係将校の名が用いられ、面接したのは思想係だったというような事実もあった。

その二は、人事係のカミシヤ(検査)と称して、モスクワからきたといわれる将校が、ある種の日本人をよんで、直接、身上並びに思想調査

雑誌『キング』p.107上段 幻兵団の全貌 無根の事実がねつ造

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.107 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.107 上段

ターリンは素晴らしい!)と。ふだんから要領のうまい最初の男を嫌っていた最後の人の良い男は、真剣な表情で前の二人に負けないだけの名文句を考えるが、とっさに思いついて『ヤポンスキー・ミカド・ターク!』(日本の天皇なんかこうだ!)と、首をくくる動作をする——これが美辞麗句をぬきにして、ソ連大衆が身体で感じているソ連の政治形態の恐怖のスパイ政治という実態だった。

戦争から解放されて、自由と平和をとりもどしたはずの何十万人という日本人が、やがて〝自由と平和の国〟ソ連の軍事俘虜となって、慢性飢餓と道義低下の環境の中で混乱しきっていた。その理由は、俘虜収容所の中にまで及ぼされた、ソ連式密告スパイ政治形態から、同胞の血で血を洗う悲劇が、数限りなくくりひろげられたからだった。

一片のパン、一握りの煙草という、わずかな報償と交換に、無根の事実がねつ造され、そのために収容所から突然消えて行く者もあった。収容所付の政治部将校(多くの場合、赤軍将校のカーキ色軍帽と違って、鮮やかなコバルトブルーの青帽をかぶったNKの将校である)に、このご褒美を頂いて、前職者(憲兵、警官、特務機関員など)や反ソ反動分子、脱走計画者、戦犯該当者、その他種々の事項を密告(該当事実

編集長ひとり語り第13回 戦争に征かない自自公の議員ども

編集長ひとり語り第13回 戦争に征かない自自公の議員ども 平成11年(1999)5月29日 画像は三田和夫78歳ごろ(前列中央 桐・第二〇五大隊戦友たちと靖国参拝1999ごろ)
編集長ひとり語り第13回 戦争に征かない自自公の議員ども 平成11年(1999)5月29日 画像は三田和夫78歳ごろ(前列中央 桐・第二〇五大隊戦友たちと靖国参拝1999ごろ)

■□■戦争に征かない自自公の議員ども■□■第13回■□■ 平成11年(1999)5月29日

さる5月25日(火)の日刊各紙の第一面は「ガイドライン法成立」と、大きく報じている。「日本が直接武力攻撃を受けた場合に限定されていた日米防衛協力の範囲を拡大した。…96年の日米安保共同宣言を踏まえた新指針を国内法で裏付けたもので…」(日経紙)とあるように、“戦争法”と呼ばれる所以のものである。

問題は、引用した日経紙の次ぎの見出し「自治体・民間に協力依頼」である。自衛隊が米軍の作戦の後方支援をするだけの法律ならまだしも、自治体・民間も引きずりこむ法律なのである。「後方支援」とタッタ4文字で表現されているが、実情は米軍の作戦に参加するということ。つまり、アメリカの判断でする戦争に、日本も加担することを意味する。

コソボの空爆を見れば答えはあきらかだ。空爆目標は、どんどんエスカレートして、中国大使館の誤爆(?)も含めて、発電所、橋、病院と、一般国民の生活自体を襲っているではないか。だが、米軍は地上兵力は投入しない。歩兵をブチ込めば、米軍の青年たちに死傷が出るからだ。だが、空爆を決断したクリントン大統領は、ユーゴが攻めてこられない米本土で、変わらぬ日常生活を送っているだろう。もし、地上軍投入という事態になっても、クリントンの生活は変わらず、彼の不倫相手の女性の兄弟も、コソボ出征は免れるであろう。

ガイドライン法を成立させた、自自公の議員たちも、“朝鮮半島有事”であろうが、“台湾海峡有事”であろうが、外国の攻撃には関係がない。なぜならば、自衛隊員でないからだし、後方支援の自治体や民間にも、近寄らないからだ。

そして、その証拠は、さきの戦争の跡始末を見れば明々白々である。戦争を指導し、日本の青年ばかりか、大都市の空襲で、女、子供、老人の非戦闘員に、無残な死を強いた高級将校たちの多くが、平然と生き残っているからだ。終戦50年の年に、テレビは各方面の戦線の実態ルポを数多く放映した。そして、その証言者として、中佐、大佐のうち、参謀肩章(作戦企画部門の参謀部に所属する将校は、階級章のほか、金モールの派手なアクセサリーをつけていた)を吊った連中が、ワンサカ登場してきたのに、私はアッと声をのんだまま、画面を見つめていた。

8月15日の玉音放送を聞いた時、私は旧満州の首都・新京の郊外陣地にいた。「生きていて良かった」が、放送が終わった瞬間の思いであった。ホンの数時間前まで、ソ連の戦車集団に自爆攻撃をかけよ、という命令が出ていた。命令をイヤだと拒否すれば、抗命罪ということで、前線だったから軍法会議抜きの銃殺であったろう。だが、そういう法律を作ったり、命令を出した連中が、これほど多数、ノウノウと戦後50年を、貧乏臭くもなく生きている。

東京裁判に、ソ連側証人として出廷したのは、伊藤忠商事の瀬島龍三大佐だ。彼はそのご褒美か、欧露エラブカの将校収容所でも、“陽の当たる場所”にいた。帰国してまもなく、伊藤忠商事に就職し、現在も“陽の当たる場所”に居つづけている。(注・共同通信社刊「沈黙のファイル。元大本営参謀瀬島龍三は真実を語ったか」)

帝京大教授・志方俊之は、さる4月下旬の講演会で「35年間(自衛隊に居て)自衛隊を軍隊と思わない日はなかったが、自衛隊を軍隊だといったらクビになる」という。戦争指導者だった高級将校たちと同じ発想で、自分よりエライ奴に責任を押しつける。小渕恵三首相は、自分の子供を自衛隊に入れてから(防衛大ではないゾ!)、ガイドライン法を成立させるべきであった。 平成11年(1999)5月29日