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新宿慕情 p.044-045 清洲すみ子に懸想、市川弥生にほのかな愛情

新宿慕情 p.044-045 村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ
新宿慕情 p.044-045 村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ

そして、三階席での感激を、もう一度味わうためには、セカンド・ランの昭和館があった。ここは、堂々と一階席で見ることができた。その武蔵野館も、いまは、ビルに変わり、昔日のおもかげはない。それでも、名前だけが残されているのは、うれしいことだ。

昭和館は、むかしの場所に、多分、最後の建物だろうが、ともかくも、映画館として残っていてくれている。

だが、その中間に位置していた、ムーラン・ルージュは、もう跡形もなくなってしまい、ビルが建ち、ツマらない映画をやっている……。

私が、コンチネンタルのムチに手を叩くのは、このムーラン・ルージュへの〈郷愁〉に違いない、と思う。

わが青春の女優たち

当時、「新劇」と呼ばれていたのは、村山知義の率いる新協劇団と、薄田研二らの〝集団指導〟制の新築地劇団とで、いまの感じでいえば、セ・パ両リーグのような形で、左翼演劇絶対の立場をとっていた。

そして、同じように、新劇の範疇ではあるが、肩肘怒らした左翼演劇の息苦しさよりも、もっと、傍観者的にオチョクろうという、さながら、週刊新潮誌張りに、フランス・コメディを中心とした、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディという、別派があった。

そして、この〈我がムーラン・ルージュ〉は、テアトル・コメディの劇場演劇に対して、自ら〈軽演劇〉として、ファース(笑劇)とレビューを売り物にしていた。

しかし、本場パリの小屋の名前を、そのままイタダいているのでもわかるように、このムーラ

ン・ルージュには、浅草のドタバタとは違って、学生たちを満足させる、〝白水社的〟知性があったのだった。

だから、私はいまでも、有島一郎をテレビで見ると、ムーランの舞台にいた彼を、その映像にダブらせて見ている。

金貝省三という〝座付作者〟に憧れて、楽屋に会いに行ったこともある。

踊り子でいえば、スターの明日待子に胸をトキめかし、五十鈴しぐれというワンサに、プレゼントを届けた。

ムーランを卒業した私が、やがて、築地小劇場に拠っていた左翼演劇に熱中し始めるのは、当時の〝進歩的学生〟として当然のコースなのだが、新協劇団の女優サン・清洲すみ子に〝懸想〟することになる。

ムーランの中堅の踊り子だった市川弥生にも、同じように、少年のほのかな愛情を抱いたものだった。戦争と捕虜とから生還した私が、廃墟さながらの新宿の町で知り得たニュースは、市川弥生嬢が金貝省三氏と結婚したということと、やはり、新協劇団の清洲サンが、村山知義夫人になっていたということだ。

いまにして思えば、ナント、オマセな少年だったか、という感じである。

しかし、私は、少年の日に、戦前だから、唇を合わせることはもとより、手ひとつ握ることさえなく、ただただ〈我が胸の底の、ここには……〉と、思慕のみを抱いて、死を意味していた

〝醜の御盾〟として出て征って、帰ったのだが、ひとりは劇作家夫人、もうひとりは演出家夫人に納まった、と知って、我が《女性鑑識眼》の確かさに、ひとり悦に入ったものである。

新宿慕情 p.046-047 八等身の美女がズラリと居並び

新宿慕情 p.046-047 美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。
新宿慕情 p.046-047 美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。

しかし、私は、少年の日に、戦前だから、唇を合わせることはもとより、手ひとつ握ることさえなく、ただただ〈我が胸の底の、ここには……〉と、思慕のみを抱いて、死を意味していた

〝醜の御盾〟として出て征って、帰ったのだが、ひとりは劇作家夫人、もうひとりは演出家夫人に納まった、と知って、我が《女性鑑識眼》の確かさに、ひとり悦に入ったものである。

……サテ、本題のムチに戻らなければならない。

こんなふうに、かつての演劇青年だけに、コンチネンタル・ショーの、〝文化度〟を判断する能力はあったのである。

それだからこそ、このクラブの経営者に、もっと客の入りを考えるように忠告し、演出家兼振付師の水口クンには、然るべく、アドバイスをしたりしていたのだが、やがて、クラブは経営不振でクローズし、ムチのチームも、新宿から去っていってしまった。

だれか、私のムチを知らないか……と、私は、〈郷愁〉の幻影を追い求めて、また、夜の新宿を、ハシゴする——。

要町通りかいわい

美人喫茶は戦前に

古き良き時代——というのは必ずしも〈戦前〉だけ、とは限らない。

〈戦後〉の新宿にだって、〝古く良き〟店が多かった。その代表的なものに、「美人喫茶」がある。

美人喫茶、というのは、そのハシリは、日比谷交差点にある朝日生命館の一階に、「美松」という店があった。

エ? と、反問しないでもらいたい。戦前のことなのだ。

あの一階の、広いフロアいっぱいに、八等身の美女がズラリと居並び、中二階のレコード係がこれまた、美女中の美女。

スケート場といえば、芝浦と溜池の山王ホテルだけ。ダンスホールは新橋のフロリダ、喫茶店は美松、といった時代だ。文字通り、〝きょうは帝劇、あすは三越〟しか、社交場がなかったころなのだ。

この「美人喫茶」思想は、だんだん食糧事情が良くなって、量よりも質の時代になってきた、多分、昭和二十七年の日本の独立以後、芽生えてきたと思う。

果たして、銀座のプリンスが先なのか、新宿のエルザが先なのか。あるいは、新宿でも、エルザよりも早い店が、あったのかも知れない。そのへんの正確さは欠けるけれども、新宿の美人喫茶といえば、私にとってはエルザ——私のエルザ、なのである。

エルザという喫茶店は、寄席の末広亭前の通りを、靖国通りのほうへ行った右角。いま、老朽化した二階建てを、これまたビルに改築中である。キット、あの木造のギシギシいった風情が、

まったく、なくなってしまうだろう。