〝ナホトカ天皇〟はアクチヴィストとしての、理論と実行力と指導力と、さらに品位をも兼ね備えた人物であった。そして、「物質的、精神的富の創造者、全世界平和の戦士たる新しい人間――ソヴェート的人間」(一九四九年五月二十一日付、日本新聞)として、「人間変革」をなしとげた人物であった、はずだ。少くとも、シベリヤのナホトカに於ては……。
二 オイストラッフの暗いかげ
二十九年一月十二日の夜、羽田空港は世界スケート選手権大会に出場するソ連選手団を迎えて、歓迎陣が湧き立っていた。
そのどよめきの中で一人の若い男が思わず『オヤ?』とつぶやいていた。彼は刑事である。
――確かに見たことのある男だ!
彼はそう思って、大急ぎで本庁に帰って調べてみると、分厚い名簿の中から一枚の写真が出てくる。間違いなくあの男だ。
アナトリ・ロザノフ、三十二才。元代表部政治部顧問という表向きの肩書のほかに、内務省政治部上級中尉という本当の官名。昭和二十六年十二月帰国と記されている。
彼は直ちに上司の主任警部に報告した。警部は驚くと同時に腹を立てた。元代表部員ロザノフが在日間にいかなる行動をとり、いかなる人物であったかは、外務省も法務省入管局も百も承知のはずである。
例の〝ナホトカ天皇〟津村氏のケースでも分る通り、彼は日共を通ずるスパイ線の担当者であったではないか。選手団に入国査証を与えた香港総領事は、ロザノフ氏が役員として入国する旨を当然通報すべきだというのである。
『何かが始まるに違いない!』
報告を終えて出てきた若い刑事は、自信に満ちた予言を、廊下で出会った私に打明けてくれた。そして、その予言は適中した。
それから二週間後、二十八日付の各紙は元ソ連代表部員ラストヴォロフ氏の失踪を報じたのであった。
若い刑事の予言から約一年を経た三十年二月十九日、日ソ貿易商社進展実業がスポンサーとなって、〝奇跡の演奏家〟オイストラッフ氏が招かれて羽田に到着した。
私は例の若い刑事を呼びとめて、笑いながらいってやった。
『どうだい? 今度もまたピンと第六感にくる人物がいたかい?』
『ウム、いたとも! マネージャーと称するカサドキンだよ。彼は収容所付の政治部将校に違いない! そして、また、何かが始まるに違いない!』
彼は再び自信にみちた予言を行った。そしてまた、その予言は適中した。
日ソ国交調整問題である。日本政府がニューヨークを認めたと思いこんでいたところへ、ソ 連側は東京を持出してきた。