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雑誌『キング』p.111上段 幻兵団の全貌 極東軍情報部将校

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.111 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.111 上段

シア語の勉強がしたいのです』

『宜しい、よく分かりました』

少佐は満足げにうなずいて、帰ってもよいといった。私が立ち上がってドアのところへきたとき、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼び止めた。

『パダジジー!(待て!)今夜、お前はシュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。いいか、分かったな!』

見知らぬ少佐が説明するように語をつぎ、

『今夜ここに呼ばれたことを誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、ここにきたことは決して話してはいけない』と教えてくれた。

こんなふうに含められたことは、はじめてであり、二人の少佐からうける感じで、私はただごとではないぞという予感がした。見知らぬ少佐のことを、歩哨はモスクワからきたんだといっていたが、私は心秘かにハバロフスクの極東軍情報部将校に違いないと思っていた。

それからひと月ほどして、私はペトロフ少佐のもとに再び呼び出された。当時〝日本新聞〟の指導で、やや消極的な〝友の会〟運動から、〝民主グループ〟という積極的な動きに変わりつつある時だった。ペトロフ少佐は、民主グループ運

雑誌『キング』p.110下段 幻兵団の全貌 身上調査

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.110 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.110 下段

具体化されたある計画(スパイ任命)に関して、私が呼び出された第一回目という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって怠りなく行われていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンに怒っているぞと、歩哨におどかされながら、収容所を出て司令部に出頭した。ところが行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで恰幅の良い見馴れぬNKの少佐が待っていた。

私はうながされてその少佐の前に腰を下ろした。少佐は驚くほど正確な日本語で私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら一生懸命に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々鋭い視線をそそぐ。

私はスラスラと正直に答えていった。やがて少佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト気がついてみると、それはこの春に提出した、ハバロフスクの〝日本新聞〟社編集者募集の応募書類だ。

『何故日本新聞で働きたいのですか』

少佐の日本語は丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持の良い日本語だった。少佐の浅黒い皮膚と黒い瞳はジョルジャ人らしい。

『第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二はロ

雑誌『キング』p.108上段 幻兵団の全貌 私の幻兵団との闘い

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.108 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.108 上段

だ。私はひとりつぶやいた。『これは何か、重大な秘密がひそんでいるぞ』と。もはや私は自分がワエンヌイ・プレシヌイ(軍事俘虜)であることも忘れていた。作業場ではソ連労働者が『ソ米戦争は始まるだろうか』『お前達の新聞には次の戦争のことを何とかいているか』としきりにたずねていた。〝日本新聞〟の反米宣伝は泥臭いあくどさで、しつように続けられている。アメリカ——日本——ソ連。そしてスパイ。私は心中ひそかにうなずいていたのだった。

やがて、私も故国に向かうダモイ梯団に加わって出発した。船中では『誓約書』という言葉を小耳にはさんだ。舞鶴ではさらに数多くの、断片的な情報をつかんだ。そして、私の推理を裏付けるように、昭和二十一年春に、当時はまだ新聞といえないほどお粗末だった〝日本新聞〟が、同志編集者を募る旨の紙上広告を発表し、それに応募した男が前述の四つの謎をもつ男だったことも知るにいたった。私は、『ソ連地区抑留日本人で組織されたソ連側のスパイ網』の存在を確信した。

私は帰京して出社するや、直ちに社会部長にこれらの状況を説明して、その組織や目的の調査をはじめることを報告した。こうして私の〝幻兵団〟との戦いがはじめられた。昭和二十二年十一月はじめのことだった。

雑誌『キング』p.106中段 幻兵団の全貌 昭和二十年の秋

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.106 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.106 中段

連製日本人スパイに関する情報なのだ。しかも、その情報によれば、それはシベリア民主運動を芽生えさせ、育てあげ、ついにあの日の丸を破り、花束をふみにじるという、けんらん豪華な〝赤い復員〟旋風にまで昇華させた指導者〝日本新聞〟につながりがあるらしい様子だったので、今、小針氏の重大決意を示した発言に手の震えを感じたのも無理からぬことだった。

ここで私は、読者の理解を助けるため、委員会の休憩を利用して、話を昭和二十年の秋にまでもどすことにしよう。

終戦後の九月十六日、私たちの列車が内地直送の期待を裏切って北上をつづけ、ついに満洲里を通過したころ、失意の嘆声にみちた車中で、私一人だけは街角で拾った小さな日露会話の本で、警乗のソ連兵に露語を教わりながら、鉄のカーテンの彼方へ特派されたという、新聞記者らしい期待を感じていた。西シベリアの炭坑町に丸二年、採炭夫から線路工夫、道路人夫、建築雑役とあらゆる労働に従事させられながらも、逞しい私の新聞記者精神は、あらゆる機会をつかんではソ連人と語り、その家庭を訪問し、みるべきものはみ、聞くべきものは聞き、記者としての取材活動だけは怠らせようとしなかった。

迎えにきたジープ p.024-025 「幻兵団第一号」が発見された

迎えにきたジープ p.024-025 The first Phantom Corps, which swears loyalty to the Soviet Union and returns to Japan and executes its secret command, was thus found.
迎えにきたジープ p.024-025 The first Phantom Corps, which swears loyalty to the Soviet Union and returns to Japan and executes its secret command, was thus found.

三 天皇島に上陸した「幻兵団」

第一次引揚の大久、恵山両船の時に、直接手を出してしまった日本側は、何しろソ連関係のエキスパートばかりなので『スパイらしい人物が多数混っているようだ』と、敏感にもキャッチした。そこで直ちにナイト少佐らの米軍調査班に連絡したが、一笑に付して取上げようともしない無智蒙昧ぶりである。

この件を内部で検討した顧問団は、重大な問題だというので、中部復員連絡局長川越守二元中将(28期)、北陸第二上陸地支局(舞鶴)長稲村豊二郎元中将(26期)、復員部長大熊初五郎元中佐(37期)らと相談した結果、日本側として引揚に関する資料を整理しようということになり、その報告書を復員庁を通じてG—2に提出した。

この報告を読んだウイロビー少将は、日本将校の対ソ感覚、資料の収集技術に感心して、将来とも積極的な協力をと要請してきた。

顧問団の調査によって、ソ連側の政治教育、日本新聞の組織と編成、収容所付近の状況、帰国後の赤化工作組織の企図などが明らかにされたのだったが、第二次の明優、遠州両船ではより重大なことが明らかにされた。

遠州丸の草田梯団はライチハの民主大隊といわれた積極分子を母体にしていた。この民主グループ「北斗会」は委員長草田守元兵長(愛知)、常任委員保科義英元一等兵(新潟)、堀尾貫文元一等兵(長野)、大田貢元上等兵(広島)、井上進元少尉(神奈川)らで、「北斗会」がチェックされた結果、収容所の動向のすべてが調査された。

この調査で、彼らは誓約ののち北海道でコルホーズ組織を作る、中央では日共支援という指令を帯びていることが明らかになり、アメリカ側を驚かせた。現地の米側では、引揚者調査はソ連の兵要地誌を作るのが目的だと思っており、このような政治工作についての関心は全くなかったからである。

この自供を行ったのは、やはり北斗会の幹部だった鈴木高夫氏であった。ソ連側に忠誠を誓って帰国、その指令を実行するという「幻兵団第一号」は、こうして発見された。また、『モスクワ大学帰りもいる』という自供は井上元少尉から出た。

ガク然としたアメリカ側は、報告書を携えピストルで武装したクリエールを東京へと飛ばした。続いて上陸第二日の九日夜、調査班に呼び出された草田、保科、堀尾、大田、鈴木の五氏はそのままGIに護送されて、東京に連れ去られてしまった。

ラストヴォロフ事件で、ラ氏を無断で国外へ連れ去られたように、この時も日本側には何の連絡もなく、上陸地支局長の稲村元中将も全く知らなかった。しかし、幹部でありながら残された、井上、伊藤、大橋氏らが日の丸組からリンチされるという騒ぎが起り、復員庁側はようやく五氏が居なくなっているのを発見したのである。

草田氏らはG—2、すなわちNYKビルに連れてゆかれて、本格的な取調べをうけた。これが、舞鶴でチェックされて、NYKビルに呼ばれるようになったはじめであった。

迎えにきたジープ p.034-035 引揚者たちの代々木詣り

迎えにきたジープ p.034-035 In response to the U.S. side's military and ideological investigations, the Soviet Union trained a number of activists in all Siberian camps, advocating anti-military, anti-officer and anti-fascist, with the "Nihon Shimbun" as an agitator.
迎えにきたジープ p.034-035 In response to the U.S. side’s military and ideological investigations, the Soviet Union trained a number of activists in all Siberian camps, advocating anti-military, anti-officer and anti-fascist, with the “Nihon Shimbun” as an agitator.

幻兵団第三号の齊藤氏が保護を訴え出たころになると、ソ連側の教育も徹底してきた。例えば何号ボックスの調べ官は何という男で、何と何をきくから、それに対してはこう答えろ。六

号ボックスの寄地(ヨリジ)少尉と、二号ボックスの東(アズマ)中尉の所へ行ったら、メッタなことを言うな。在ソ経歴をきかれたら、こう答えろ。などという工合で、ウランウデの途中の森林伐採の状況まで教え込まれてくるといった按配であった。この辺の米ソスパイ戦はまさに虚々実々というところである。

これがさらに十一月に入ると、要注意者の中には、訊問拒否のため調査日になると仮病を使って入室戦術をとる者が現れてきた。

冬が来て引揚船はナホトカに来なくなった。この時期にソ連側の政治教育は徹底した。日本新聞がアジテーターとなり、反軍、反将校階級闘争が指導された。それと併行して文化活動が奨励され、「日本新聞友の会」運動がまき起され、やがてこれは民主グループ運動へと移っていった。

アメリカの軍事、思想調査に対するソ連側の対抗策である。こうしてシベリヤ民主運動は、二十二年冬から二十三年春へかけての引揚中止期間に、みるみる盛り上っていった。やがて春三月、民主グループ運動はさらに発展してハバロフスク・グループに最高ビューローを置く、反ファシスト委員会が、全シベリヤ収容所に結成された。多数のアクチヴィスト(積極分子)が成長していった。

二十三年四月、再び引揚が始った。その年の引揚は変っていた。船内斗争、上陸地斗争が民主グループ幹部によって指導され、米側の調査を拒否しソ連謳歌を談ずるものが増えてきた。LS、CICの打撃は大きかった。二十二年度の報告書を検討したGHQでは、山田大尉の後任にマウンジョイ少佐を送り、さらに権限を強化して、レントゲン写真と同時に栄養度をみるという名目で、要注意人物の顏写真撮影をはじめた。

一方、引揚者たちは米側に対して反抗の態度を明らかにした。六月ごろからは東京へ着いた一行は援護局のスケジュールも無視して、出迎えの共産党員たちと一緒に代々木の党本部訪問の集団〝代々木詣り〟をはじめだした。

NYKビルでの再調査を命ぜられる者が多くなり、その調書は顔写真とともにファイルされ、厖大な対ソ資料が着々と整備されていった。こうして幻兵団として米側にマークされた人々のうちには、幹候出身ではなくて、陸士卒の正規将校も多かった。

天皇陛下の軍人として、一命をこう毛の軽きにおいた旧軍人たちが、いまや、一方は米国に加担して昔の上官、部下を摘発し、また一方ソ連について同様に上官、部下と闘うということになってきたのである。この元陸軍将校団のまさに骨肉相喰む相剋こそ、元海軍将校団とのよい対照であり、日本国軍史の最大研究テーマである。プロシヤ将校団の伝統あるドイツ将校団

と比較するとき、いよいよ興味深いものがある。(「旧軍人とアメリカ」「旧軍人とソ連」については第三集参照)

迎えにきたジープ p.036-037 日本新聞・小針延二郎の証言

迎えにきたジープ p.036-037 In Khabarovsk, the home of the Siberian Democratic Movement, the Nihon Shimbun editor-in-chief, Nobujiro Kobari, has begun his testimony at the Special Committee of the Soviet Repatriation, in the House of Councilors.
迎えにきたジープ p.036-037 In Khabarovsk, the home of the Siberian Democratic Movement, the Nihon Shimbun editor-in-chief, Nobujiro Kobari, has begun his testimony at the Special Committee of the Soviet Repatriation, in the House of Councilors.

見えざる影におののく七万人

一 參院引揚委の証言台

西陽がさし込むため、窓には厚いカーテンがひかれて、豪華な四つのシャンデリヤには灯が入った。院内でも一番広い、ここ予算委員室には異様に興奮した空気が籠って何か息苦しいほどだった。

中央に一段高い委員長席、その両側に青ラシャのテーブルクロスがかかった委員席、委員長席と相対して証人席、その後方には何列にも傍聴席がしつらえられ、委員席後方の窓側には議員席、その反対側に新聞記者席が設けてあった。

昭和二十四年五月十二日、参議院在外同胞引揚特別委員会が、吉村隊事件調査から引きずりだした「人民裁判」究明の証人喚問第二日目のことであった。今日は昨日に引続きナホトカの人民裁判によって同胞を逆送したといわれる津村氏ら民主グループと、逆送された人々の対決

が行われ、また「人民裁判」と「日本新聞」とのつながりを証言すべき注目の人、元日本新聞編集長小針延二郎氏が出席しているので、場内は空席一つない盛況で、ピーンと緊張し切っていた。

たったいま、小針証人が『委員会が国会の名において責任を持つなら、私はここで全部を申上げます』と、爾後の証言内容について国会の保護を要求した処だった。正面の岡元義人代理委員長をはじめ、委員席には一瞬身震いしたような反応が起った。

終戦時から翌年の六月まで、シベリヤ民主運動の策源地ハバロフスクの日本新聞社で、日本側責任者として「日本新聞」を主宰し、のちに反動なりとしてその地位を追われた小針氏が、何を語ろうとするのか。日本新聞の最高責任者、日本新聞の署名人であるコバレンコ少佐こそ極東軍情報部の有力スタッフではないか! 委員会は小針証人の要求により、秘密会にすべきかどうかを協議するため、午後二時二十九分、休憩となった。

約十分の休憩ののちに、岡元委員長は冷静な口調で再開を宣した。遂に公開のまま続行と決定した。満場は興奮のため水を打ったように静まり、記者席からメモをとるサラサラという鉛筆の音だけが聞えてくる。小針証人が立上って証言をはじめる。

『……各収容所にスパイを置きます。このスパイというのはソヴェト側の情報部の部長がその 収容所の政治部の部員に対しまして、お前の処に誰かいわゆる非常な親ソ分子がいないか、いたら二、三名だせ、といって出させます。

迎えにきたジープ p.038-039 光っているスパイの眼と耳

迎えにきたジープ p.038-039 The thing that I recall in Kobari's words was a very detestable my own memory. I was in Hsinking at the end of the war, but was captured by Soviet troops at Gongzhuling.
迎えにきたジープ p.038-039 The thing that I recall in Kobari’s words was a very detestable my own memory. I was in Hsinking at the end of the war, but was captured by Soviet troops at Gongzhuling.

小針証人が立上って証言をはじめる。

『……各収容所にスパイを置きます。このスパイというのはソヴェト側の情報部の部長がその収容所の政治部の部員に対しまして、お前に処に誰かいわゆる非常な親ソ分子がいないか、いたら二、三名だせ、といって出させます。

……この男ならば絶対に信頼できると、ソ連側が認める場合にはスパイの命令を下します。

……そうしてスパイというのは、殆どスパイになっておる人は、非常に気持の小さい男で、ビクビク者が多いというので、民主グループを作る場合にはその人を使いません。

……こういう男を選んで、それに新聞社から行って連絡しまして、こういうことをやれ、その代り後のことは心配するな、後で問題が起った場合にはすぐ連絡する……』(参院速記録による)

委員会は深夜の十時まで続いた。

二 私こそスパイなのだ

私が小針氏の言葉で反射的に想い浮べたあるデータというのは、実にいまわしい私自身の想い出であったのである。

私は終戦時新京にいたのだが、公主嶺でソ連軍の捕虜になった。九月十六日、私たちの列車が内地直送の期待を裏切って北上をつづけ、ついに満州里を通過したころ、失意の嘆声にみちた車中で、私一人だけは鉄のカーテンの彼方へ特派されたという、新聞記者らしい期待を感じながら街角で拾った小さな日露会話の本で、警乗のソ連兵に露語を教わっていた。

イルクーツクの西、チェレムホーボという炭坑町に丸二年、採炭夫から線路工夫、道路人夫、建築雑役とあらゆる労働に従事させられながらも、あらゆる機会をつかんではソ連人と語り、その家庭を訪問し、みるべきものはみ、聞くべきものは聞いた。

恐怖のスパイ政治! ソ連大衆はこのことをただ教え込まれるように〝労働者と農民の祖国、温かい真の自由の与えられた搾取のない国〟と叫び〝人類の幸福と平和のシンボルの赤旗〟を振るのではあるが、しかし、言葉や動作ではなしに、〝狙われている〟恐怖を本能的に身体で知っている。彼らの身辺には、何時でも、何処でも、誰にでも、光っているスパイの眼と耳があることを知っている。

人が三人集れば、猜疑と警戒である。さしさわりの多い政治問題や、それにつながる話題は自然に避けられて、絶対無難なわい談に花が咲く。だが、そんな消極的、逃避的態度では自己保身はむずかしいのだ。

三人の労働者のかたわらにNKVD(エヌカーベーデー)(内務省の略、ゲペウの後身である秘密警察のこと。正規軍をもっており国内警備隊と称しているが、私服はあらゆる階層や職場に潜入している)の将校が近寄ってくる。

と、突然、今までのわい談をやめた一人が胸を叩いて叫ぶ『ヤー・コムミュニスト!』(俺は共産主義者だゾ!)と。それをみた二人はあわてる。黙っていたなら、日和見の反動になるからだ。ましてそこにはNK(エヌカー)がいるではないか! すかさず次の男が親指を高くかざして応える。『オウ・スターリン・ハラショオ!』(おう、スターリンは素晴しい!)と。

迎えにきたジープ p.046-047 そして三回目が今夜である

迎えにきたジープ p.046-047 Major Petrov said. "Do not be an active. Be an opportunistic element, and in some cases be a reactionary element." In other words, it was a fake infiltration into the democratic movement of the Nihon Shimbun.
迎えにきたジープ p.046-047 Major Petrov said. “Do not be an active. Be an opportunistic element, and in some cases be a reactionary element.” In other words, it was a fake infiltration into the democratic movement of the Nihon Shimbun.

それから一ヶ月ほどして、私はペトロフ少佐のもとに再び呼び出された。当時「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から「民主グループ」という積極的な動きに変りつつある時だった。ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連及びソ連人への感想などを、少佐自身の意見は全くはさまずに質問した。

結論として、その日に命令されたことは、『民主運動の幹部になってはいけない。ただメムバーとして参加することは構わないが、積極的であってはいけない』ということであった。

これを換言すると、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、或る時には反動分子にもなれということ、即ち〝地下潜入〟であり〝偽装〟であった。また同時に当時の民主運動に対してのソ連側政治部の見方でもあったのだろう。

この日も、前と同様な手段で呼び出され、同じようにいい含められて帰された。私の身体にはすでにこのころから〝幻のヴェール〟がフンワリとかけられていたのである。

そしていよいよ三回目が今夜である。早く早くと歩哨がセキ立てるのに、ウン今すぐと答えながら、二段寝台からとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)をきる、靴をはく、帽子をかむる。

——何だろう、日本新聞行きかな?

忙しい身支度は私を興奮させた。

——まさか! 内地帰還ではあるまい!

フッとそんなことを考えた私は、前二回の呼び出しの状況をハッキリと思い浮べていたのだった。ニセの呼び出し、地下潜行!

——何かがはじまるんだ!

吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一しょに飛ぶように衛兵所を走りぬけ、一気に司令部の玄関に駈けこんだ。廊下を右に折れて突き当りの、一番奧まった部屋の前に立った歩哨は一瞬緊張した顔つきで服装を正してからコツコツとノックした。

『モージノ』(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほどよくあたためられた部屋に入った私は、何か鋭い空気を感じて、サッと曇ってしまった眼鏡のまま、正面に向って挙手の敬礼をした。ソ連側からやかましく敬礼の励行を要望されていた関係もあって、左手は真直ぐのびてズボンの縫目にふれていたし、勢よく引きつけられた靴の踵が、カッと鳴ったほど厳格な敬礼になっていた。

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服をきたペトロフ少佐が坐っていた。傍らに は、みたことのない若いやせた少尉が一人。

最後の事件記者 p.118-119 極東軍情報部員に違いない

最後の事件記者 p.118-119 その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。『ナゼ日本新聞で働らきたいのですか』
最後の事件記者 p.118-119 その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。『ナゼ日本新聞で働らきたいのですか』

ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

私はうながされて、その中佐の前に腰を下ろした。中佐は驚くほど正確な日本語で、私の身上調査をはじめた。本簿、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら、私の答えを熱心に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々私に鋭い視線をそそぐのが不気味だ。

私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は、一枚の書類を取出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。

『ナゼ日本新聞で働らきたいのですか』

中佐の日本語は、叮寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持の良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジヤ人らしい。

『第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです』

『宜しい。よく判りました』

中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立上って一礼し、ドアのところへきた時、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。

『パダジジー(待て)今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭坑の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!』

見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。

『今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない』

と、教えてくれた。

こんなふうに、言含められたことは、今迄の呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで? 私にはただごとではないぞ、という予感がしたのだった。

見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると歩哨たちは、〝モスクワからきた中佐〟といっていたが、私は心秘かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いないと思っていた。

最後の事件記者 p.120-121 〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ

最後の事件記者 p.120-121 少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。
最後の事件記者 p.120-121 少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

偽装して地下潜入せよ

それから一カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに、再び呼び出された。当時シベリアの政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変りつつある時だった。

ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連、およびソ連人への感想などを質問した。結論として、その日の少佐は、「民主運動の幹部になってはいけない。ただメンバーとして参加するのは構わないが、積極的であってはいけない」といった。

この時は、もう一人通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。私はこの話を聞いて、いよいよオカシナことだと感じたのだ。少佐の話をホン訳すれば、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、〝偽装〟して、〝地下潜入〟せよ、ということになるではないか。

この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に〝偽装〟を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも〝幻のヴェール〟が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。

そして、いよいよ三回目が今夜だ。「ハヤクウ、ハヤクウ」と、歩哨がせき立てるのに、「ウーン、今すぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。

――何かがはじまるンだ。

忙しい身仕度が私を興奮させた。

――まさか、内地帰還?

ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一しょに飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駈けこんだ。

廊下を右に折れて、突き当りの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。

『モージ!』(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良くあたためられた部屋に一歩踏みこむと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向って挙手の敬礼をした。

最後の事件記者 p.134-135 スパイ団のことを書きましょう

最後の事件記者 p.134-135 シベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされ…たと…生命の危険まで懸念している…事実が明らかになった。
最後の事件記者 p.134-135 シベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされ…たと…生命の危険まで懸念している…事実が明らかになった。

そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者、そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は故国を前にして船上から海中に投じ、或者は家郷近くで復員列車から転落し、また或者は自宅にたどりついてから縊死して果てた。

私はこのナゾこそ例の誓約書に違いないと感じた。駅頭に、列車に、はては舞鶴にまで出かけて、引揚者たちのもらす、片言隻句を、丹念に拾い集めていった。やがて、その綴り合わされた情報から、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿がボーッと浮び上ってきたのだった。

やがて、参院の引揚委員会で、Kという引揚者がソ連のスパイ組織の証言を行った。その男は、「オレは共産党員だ」と、ハッタリをかけて「日本新聞」の編集長にまでノシ上った男だった。

しかし、さすがに怖かったとみえ、国会が保護してくれるかどうかと要求、委員会は秘密会を開いて相談したあげくに、証言を求めたのだった。

記者席で、この証言を聞いた私は、社にハリ切って帰ってきて、竹内部長にいった。

『チャンスです。この証言をキッカケに、このスパイ団のことを書きましょう』

『何をいってるんだ。今まで程度のデータで、何を書けるというんだ。身体を張って仕事をするのならば、張り甲斐のあるだけの仕事をしなきゃ、身体が安っぽいじゃないか』

若い私はハヤりすぎて、部長にたしなめられてしまった。それからまた、雲をつかむような調査が、本来の仕事の合間に続けられていった。

魂を売った幻兵団

すでにサツ廻りを卒業して、法務庁にある司法記者クラブ員になっていた私は、昭電事件、平沢公判、吉村隊長の〝暁に祈る〟事件と追いまくられてもいたのである。

そして、同時に国会も担当して、吉村隊や人民裁判と、引揚関係の委員会も探っていたが、二十四年秋には、国会担当の遊軍に変って、いよいよ、ソ連スパイの解明に努力していた。

その結果、現に内地に帰ってきているシベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされた、と信じこんで、この日本の土の上で、生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになった。

そして、そういう悩みを持つ、数人の人たちをやっと探しあてることができたのだが、彼らの中には、その内容をもらすことが、直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあった。

さらに、進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの、勇気をふるい起させるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 「日本しんぶん」掲載のスターリンへの誓い

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends' Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.
赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends’ Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.

「友の会」運動が普及したとみるや、この運動の組織者である日本新聞社では、直ちにこれを「民主グループ」運動へと発展させていった。

この運動は二十三年春、さらに、「反ファシスト委員会」に昇華させられ、二十四年秋にいたる一年半の間、全シベリヤを席捲しその全盛を極めたのだった。各収容所に設けられたこの地方、地区「反ファシスト委員会」は、生活、生産、青年、文化、宣伝などの各部に分れ、ハバロフスクの最高ビューローの指揮を受けていた。殊に二十四年夏に行われた「スターリン感謝署名運動」が、その絶頂期であった。

当時の熱病的狂躁振りを、同年七月十五日付日本新聞第六〇〇号に掲載された地方反ファシスト委員会ビューローの一文にみてみよう。一読、感激するも大笑するも読者の自由である。

親愛なる日本しんぶん!

われわれは厳粛な生涯にかってなかった最大の日、全世界勤労者の仰ぎみる偉大なる指導者、同志スターリンその人へ、われわれの誓いと決意をおくることができました。

この歴史的な日、われわれはわれわれの誓いにわが全生命をかけて斗うことを決意したのです。かくも栄誉あるかくも誇りある歴史的事業に、レーニン、スターリンの忠実な一兵士として署名しえたこの日こそ、じつに、きみ、日本しんぶんがあったればこそなのです。

そして日本しんぶんの生み育てあげた、幾十万のわが帰還同志たちが、勇躍、われわれの偉大な教師の教えたごとくその教えを体し、日本共産党の戦列の先頭に、米日反動と売国ファッショの狂乱をおしつぶしつつ、平和と民主々義・社会主義のために斗いつつある事実に、無限の感銘と誇りをくみとりつつ、われわれもまたかく斗うであろうことを重ねて誓い、われわれの感謝とします。

このスターリンへの誓いというのは、一九二四年スターリンがレーニンの柩前で誓った「レーニンへの誓い」をもじった日本版の誓いであるが、この一文こそシベリヤ民主運動そのものと、この一文を受けた日本新聞そのものとを、端的に現わしている。

「木村檄文」に始まり、その宣伝を「日本新聞」が行ったことから発生した民主運動は「日本新聞」グループの指導によって、ついに「反ファシスト委員会」という思想結社にまで高められ、ソ連的人間変革に大きな功績をたてたのである。 この運動の先端に立ったアクチィヴィスト(積極分子指導者)カードル(基幹要員)ヤチェーカー(細胞員)たちは、これを〝盛り上った〟運動だと信じ込み、〝かくあるべきだ〟として同胞たちを苦しめ苛んで、これを「人間変革への闘い」と称した。それは或時は最高ビューローの指令であり、或時は彼らのハネアガリであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 「日本新聞」をめぐる主導権争い

赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 Nihon Shimbun groups such as Kovalenko, Nobujiro Kobari, Seiki Asahara, Hisao Yanami and others, reigned as organizers and supreme bureaus.
赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 Nihon Shimbun groups such as Kovalenko, Nobujiro Kobari, Seiki Asahara, Hisao Yanami and others, reigned as organizers and supreme bureaus.

コバレンコ少佐というのは、元タス通信日本特派員として在日八年の日本通で、大場三平のペンネームまでもつモスクワ東洋大学日本科出身である。一説には極東赤軍情報部長といわれ、のち中佐に進級したが、二十四年六月ごろからハバロフスクの日本新聞社から姿を消しており、二十七年十月末強制退去となって日本を去った、タス通信東京支局長エフゲニー・セメノヴィッチ・エゴロフ氏が、コバレンコ中佐だといわれていた。小針氏も、新聞技術者として日本新聞に入ったとみるのが妥当であろう。事実彼の入社後は発刊当時の、新聞とはいえないような稚拙な紙面から、一応は新聞らしい形を整えてきたから。ところがその後「諸戸文夫」のペンネームを持つ、東大政治科卒の浅原正基上等兵が入社してきて、浅原氏の手によって小針氏は粛清され、浅原氏の代となった。前記「真相」によると、

ようやく非難されはじめたころ(註、小針氏が)、満州の特務工作員であった浅原正基がこれまた日本共産党員と称して入社してきた。

これには小針もさすがに泡をくって、浅原に、オレも党員ということになっているからバラさないでくれと、コッソリ頼みこむ始末であった。しかしその売名振りと編集のデタラメさが問題となり、二十一年五月には日本新聞社から追放されたという。

ところが、二十四年になると編集長だった浅原氏は、相川春喜のペンネームをもつ矢浪久雄氏らに、「極左的ダラ幹、英雄主義のメンシヴィキ的偏向」と極めつけられ、さらに「元特務機関員、ハルビン保護院勤務員」という前職まで指弾され、これまた矢浪氏に粛清されてしまった。

小針氏の粛清は『オレは、プチブルだった。大衆の中に入って鍛え直してくる』という立派な言葉を残して、あとは要領よく引揚船にモグリ込んでしまったのだが、浅原氏の粛清は裁判となり、五十八条該当者として二十五年の矯正労働という刑をうけたのだから手厳しい。

それらのメムバーのほか、宗像肇、高山秀夫、吉良金之助氏らがおり、二十四年十月帰還のため出発後は、矢浪氏から作家山田清三郎氏へバトンが渡されて、約一ヶ月、十一月七日付第六五〇号で終刊となり、約四年間にわたる歴史を閉ぢた。この日本新聞グループこそ、シベリヤ民主運動の開花「反ファシスト委員会」のオルグ、「最高ビューロー」のメムバーであり、地方、地区ビューローにもそれぞれ最高オルグが派遣されていたのである。

日本新聞の果したこの「人間変革」における役割は、極めて大きいことは事実である。それではこの「人間変革」はどんな形で行われたであろうかといえば、表面的には「スターリンへの誓い」感謝署名運動がその卒業式であった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.118-119 〝ナホトカ天皇〟津村謙二とは…

赤い広場ー霞ヶ関 p.118-119 It was Kenji Tsumura, a member of the Japanese Communist Party called “Emperor Nakhodka,” who sent back the reactionary elements to the deep Siberia by the People's Court.
赤い広場ー霞ヶ関 p.118-119 It was Kenji Tsumura, a member of the Japanese Communist Party called “Emperor Nakhodka,” who sent back the reactionary elements to the deep Siberia by the People’s Court.

このような「思想的武装解除」と「思想的再武装」とは、収容所単位の政治講習会、マルクス主義研究会、労働学校、カナ・サークルなどで基礎が与えられ、さらに地区、地方講習会、講師講習会などで高められた。また選抜されてモスクワ東洋大学やチタ青年政治学校、無線学校などの特殊学校で、特殊教育までが施されたのであった。

では果して、この「人間変革」が、盛り上ったものであったか、押しつけられたものであったろうか。その一つの例をみてみよう。

部屋の中にはロープを張りめぐらして、破れかかった色とりどりのオシメが生乾きのままでぶら下っていた。薄汚い四畳半足らずの部屋の中央には、センベイ布団が一枚敷かれて、半年ぐらいの良く肥った可愛いい男の子がスヤスヤ寝入っている。

妻はもう小一時間もの間、黙ったままで私と主人との会話を聞いていた。私は躍り上りそうな胸を静めながら、先程口をつぐんで考えこんでしまった男の顔をみつめて、その喉元まできている次の言葉を待っていた。

しばらくの間沈黙が続いている。男はやがてキッと顔をあげて私を見た。そして、ただ一言呟いてまた下を向いた。

『……要するに私はヒューマニストだったんです。コムミュニストではなかったんです』

男はさきほどから私にとって意外な返事ばかりを答えていたのだが、この言葉もまた全く意外だった。

二十五年三月のある夜、参院引揚委で「徳田要請」問題(日共徳田書記長がソ連側に対して日本人の引揚を遅らせるよう要請したという問題)の審議が行われ、証人として出席した徳田氏が否定して、『モスクワへ行って訊いて来い』とベランメェ調で怒鳴りまくった直後だった。

ここ世田谷のはずれ、千歳烏山の引揚者寮にたずねてきた男は、〝ナホトカ天皇〟とまで威怖され、人民裁判事件(帰還のためナホトカまで送られてきた反動分子を奥地へ逆送した人民裁判という事件)で参院の証人にまで喚問された、ソ連帰還者生活擁護同盟(ソ帰同)委員長で、日共党員津村謙二氏であった。妻は陸軍看護婦でソ連に抑留され、同じナホトカの民主グループに働いていた須藤ケイ子さんである。

ソ帰同は二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国すると同時に、組織されたもので、その名の通りソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、二十四年十月二十八日に第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて帰還者戦線の統一が叫ば

れ、「日本帰還者生活擁護同盟」(日帰同)と改称され、日共市民対策部の下部機関で、指導は同部の久留義蔵氏が当っていた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 津村は「徳田要請」は事実と主張

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.
赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.

ソ帰同は二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国すると同時に、組織されたもので、その名の通りソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、二十四年十月二十八日に第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて帰還者戦線の統一が叫ば

れ、「日本帰還者生活擁護同盟」(日帰同)と改称され、日共市民対策部の下部機関で、指導は同部の久留義蔵氏が当っていた。

ところが、これもあくまで一貫した政策からみれば〝前座〟であって、シベリヤ民主運動の経過を見守ってきた日本新聞グループという〝真打〟が、二十四年十一月に帰国するに及んでナホトカ・グループは御用済みになったわけである。

第二回大会で日帰同の組織改正が行われた。つまり最高機関は全国大会で、中央委員会三十名、中執委と常任委各十名によって平常活動が行われ、事務局は組織、文化、財政の三つに分れたのである。そして文化工作隊として、十六地区楽団と沿海州楽劇団を合流させて楽団カチュシャとし、高山秀夫氏をその責任者とした。これは津村一派でしめていた委員長、書記長制の改廃である。

そして二十五年一月には役員の改選が行われ、津村委員長は、①楽団カチュシャの資金は地方の帰還者中の情報担当者に渡すべきなのに本部人件費として十三万円を流用した。②下部組織に対し発展性なし。③逆スパイを党内に放っている。④婦人問題(註、須藤さんの件)を起した、などの理由からついに粛清されるにいたった。津村氏は三月になって委員長の地位から筋書き通りに追われたのであった。

ソ帰同改め日帰同がこのような経過で改組されていったことは承知していたのだが、私はその日この問題に関する、次のような情報を得ていたのであった。

津村追放の表面上の理由は、前にのべたような四点であったが、事実上の理由は、①徳田要請問題に関して否定資料を集めなかったばかりか、肯定資料はあるけど否定資料はない旨の発言を数回にわたって行った。②現在の党批判をソ連代表部員ロザノフ氏(註、二十九年のスケート団監督、ラ氏の帰国命令の監視者)を通じてソ連側へ呈出していたがそれが妥当を欠いていた。③日共幹部袴田里見氏を数々の偏向ありと指摘し、また同氏弟睦夫氏をボスとして批判した、という三点にあった。

そして、そのため袴田氏の命をうけた久留氏が、津村氏らのナホトカ・グループ六名(佐藤五郎、生某、大棚某、陣野敏郎、大石孝氏ら)を三月九日から十三日までの間、産別会館に軟禁して徹底的に吊し上げを行い、ついに党活動停止の処分に付した。

そのかげには日本新間グループの矢浪久雄、高山秀夫、小沢常次郎、山口晢男氏らが、ロザノフ氏と連絡をとっていたというような内容の情報であった。

私はこの情報を受取って驚いた。〝上陸党員〟中では大幹部ともいうべき津村氏が、徳田要請は事実なり、という資料しかないと主張して、五日間にわたる吊し上げののち、党活動停止 の処分を喰ったというのであるから、委員会の徳田証人喚問が大荒れで結論の出しようもないときては、それこそビッグ・ニュースである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.124-125 刑事の予言は適中した。

赤い広場ー霞ヶ関 p.124-125 In the background of the disappearance of Rastvorov, there was a camouflaged entry of Anatoly Lozanov senior lieutenant.
赤い広場ー霞ヶ関 p.124-125 In the background of the disappearance of Rastvorov, there was a camouflaged entry of Anatoly Lozanov senior lieutenant.

〝ナホトカ天皇〟はアクチヴィストとしての、理論と実行力と指導力と、さらに品位をも兼ね備えた人物であった。そして、「物質的、精神的富の創造者、全世界平和の戦士たる新しい人間――ソヴェート的人間」(一九四九年五月二十一日付、日本新聞)として、「人間変革」をなしとげた人物であった、はずだ。少くとも、シベリヤのナホトカに於ては……。

二 オイストラッフの暗いかげ 

二十九年一月十二日の夜、羽田空港は世界スケート選手権大会に出場するソ連選手団を迎えて、歓迎陣が湧き立っていた。

そのどよめきの中で一人の若い男が思わず『オヤ?』とつぶやいていた。彼は刑事である。

――確かに見たことのある男だ!

彼はそう思って、大急ぎで本庁に帰って調べてみると、分厚い名簿の中から一枚の写真が出てくる。間違いなくあの男だ。

アナトリ・ロザノフ、三十二才。元代表部政治部顧問という表向きの肩書のほかに、内務省政治部上級中尉という本当の官名。昭和二十六年十二月帰国と記されている。

彼は直ちに上司の主任警部に報告した。警部は驚くと同時に腹を立てた。元代表部員ロザノフが在日間にいかなる行動をとり、いかなる人物であったかは、外務省も法務省入管局も百も承知のはずである。

例の〝ナホトカ天皇〟津村氏のケースでも分る通り、彼は日共を通ずるスパイ線の担当者であったではないか。選手団に入国査証を与えた香港総領事は、ロザノフ氏が役員として入国する旨を当然通報すべきだというのである。

『何かが始まるに違いない!』

報告を終えて出てきた若い刑事は、自信に満ちた予言を、廊下で出会った私に打明けてくれた。そして、その予言は適中した。

それから二週間後、二十八日付の各紙は元ソ連代表部員ラストヴォロフ氏の失踪を報じたのであった。

若い刑事の予言から約一年を経た三十年二月十九日、日ソ貿易商社進展実業がスポンサーとなって、〝奇跡の演奏家〟オイストラッフ氏が招かれて羽田に到着した。

私は例の若い刑事を呼びとめて、笑いながらいってやった。

『どうだい? 今度もまたピンと第六感にくる人物がいたかい?』

『ウム、いたとも! マネージャーと称するカサドキンだよ。彼は収容所付の政治部将校に違いない! そして、また、何かが始まるに違いない!』

彼は再び自信にみちた予言を行った。そしてまた、その予言は適中した。

日ソ国交調整問題である。日本政府がニューヨークを認めたと思いこんでいたところへ、ソ 連側は東京を持出してきた。