亡き父に捧ぐ
目次
悲しき独立国民
黙って死んだ日本人
佐々木大尉とキスレンコ中佐
還らざる父
キング・オブ・マイズル
関東軍特機全滅せり
ウイロビー少将の顧問団
天皇島に上陸した「幻兵団」
パチンコのテイラー
秘密戦の宣戦布告
見えざる影におののく七万人
参院引揚委の証言台
亡き父に捧ぐ
目次
悲しき独立国民
黙って死んだ日本人
佐々木大尉とキスレンコ中佐
還らざる父
キング・オブ・マイズル
関東軍特機全滅せり
ウイロビー少将の顧問団
天皇島に上陸した「幻兵団」
パチンコのテイラー
秘密戦の宣戦布告
見えざる影におののく七万人
参院引揚委の証言台
だが、課員のうちのある者たちは『どうしてこれを焼き捨てられよう。他日、再び日本のために役立つ時がくるのではないか』といって、目星しい資料をあつめ、将校行李につめて復員隠匿してしまった。
ところが現地軍では、樺太では大部分をソ連軍に押えられ、関東軍ではわずか一部分を、駐蒙軍でもやはり一部分が国府軍に流されていった。
そこで満州を占領したソ連軍は、『治安会議をひらくから』として、憲兵、警察、機関員は全員集合という布告を出した。人の良い日本人はそれを信じて集ってきて、一網打尽となった。ソ連側ではせめて〝生ける対ソ資料〟でも確保しようという狙いであろう。
いち早く、偽名して一般軍人を装ったり、内地へ飛行機を飛ばした連中を除いて〝生ける対ソ資料〟たちはこうしてソ連の手におち、秋草元少将以下二百七十名の元関東軍特務機関員たちは、ようとして消息を絶ってしまった。
二 ウイロビー少将の顧問団
ところが、この日本陸軍の対ソ資料を欲しがったのは、ソ連ばかりではなかった。アメリカである。アメリカにとっては、第二次大戦中に援ソ物資の状況視察のため、シベリヤを通ってコムソモリスクの造船所をみてきたウォーレンの、見聞記ぐらいの資料しかなかったのだから当然である。
日本降伏ののちは、ソ連こそアメリカにとっての仮想敵国である。こうして、対ソ資料の行方をめぐって、ここに米ソの秘やかなる正面衝突が起った。やがて始まるべき〝冷たい戦争〟の前哨戦である。
GHQが東京へ進駐するやいなや、サザーランド参謀長はウイロビー幕僚第二部長(G―2)を通じて有末元中将に資料の提出を迫ったが、有末氏自身は何も持っておらず、重宗元中佐が焼却責任者ときいて、これを呼び出した。しかし重宗氏は拒否したので、GHQではソ連関係将校を個別的に呼び出しては提出を命じた。そのやり方が戦犯の取調べにも似た失敬極まるものなので、誰も応じなかったが、この空気を知って、私有化していた兵要地誌、兵力編組、無線情報などの資料を司令部に売り込むような男も現れた。
このソ連関係将校への圧迫は、二十年十一月まで日本郵船ビル(NYKビル)で行われた。重宗氏は『この作業を全く日本側に自主的にやらせるなら協力しよう』といったが、資料だけとれば良いというGHQは、ただ威圧的に『出せ出せ』といっていたのである。
その間、新司偵の撮ったハバロフスク市街図をはじめ、売り込まれた資料などはペンタゴン(米国防省)に送られて、ドイツで得た対ソ資料と比較検討されていた。そして局部的に日本の資料がはるかに優っているとの結論が出て、本格的な収集命令がGHQへ出された。そこでGHQのG—2(情報担当)に、マ元帥の業績整理ともいうべき戦史研究の歴史課と、対ソ資料収集の地誌課とが設けられ、旧日本軍人を職員として採用することになった。これが旧軍人が積極的に「技術者」として、アメリカのために働らきだした最初である。
二十一年九月ごろになると、シベリヤ引揚があるらしいという情報が入り、対ソ資料収集の 好機とよろこんだGHQでは、十一月上旬になって、ウイロビー少将が有末氏を呼んで、『ソ連から引揚がある。対ソ資料上重要なことだから、経験者で三グループを編成して協力してほしい』と命じた。
二十一年九月ごろになると、シベリヤ引揚があるらしいという情報が入り、対ソ資料収集の
好機とよろこんだGHQでは、十一月上旬になって、ウイロビー少将が有末氏を呼んで、『ソ連から引揚がある。対ソ資料上重要なことだから、経験者で三グループを編成して協力してほしい』と命じた。
有末氏は復員庁次官上月良夫元中将(21期)同総務局長吉積正雄元中将(26期)同総務部長荒尾興功元大佐(36期)らと相談して、関東軍関係はソ連に抑留されているので、旧五課関係将校で将官を長とする三グループを編成した。
この三組の顧問団を佐世保、函館、舞鶴の三引揚港にそれぞれ配置して、『誰に、何を?』訊くべきかという、訊問の援助をする陰武者にしようというのである。舞鶴に配置されたのは陸軍省高級副官菅井斌麿元少将(33期)を長として、五課員福居元大尉、情報参謀堀江元少佐、同松原元少佐、堀場元満鉄調査部員の四名だった。これらの要員はG—2に所属して、給与は終戦処理費の秘密費から出たが、身分は復員庁の復員官という奇妙な存在だった。
一方GHQでは、従来各府県軍政部に所属していたこの三港を直轄として、ポート・コマンダーを任命、さらに舞鶴には大津連隊のナイト少佐を長とし、G—2高木(タカギ)准尉ら十五名の二世下士官からなる調査班を設けた。
二十一年十二月八日、いよいよ引揚第一船大久、恵山両船が入港した。ところがこのG—2特派の調査班は日本語ができるというだけのお粗末な連中で、情報センスや調査技術は全くゼロという始末に、菅井元少将以下のアドバイザー・グループはあわてだした。大きな期待を持っているウイロビー少将へ報告書を出さなければならないからである。
たまらなくなった元将校たちは〝蔭の声〟だというのも忘れて、第一線にのりだして作業を始めてしまい、やっと報告書らしいものを作りあげた。彼らにしてみれば〝報告書らしいもの〟だったのであるが、GHQでは兵要地誌として高く評価した。つまり日本陸軍では〝対ソ常識〟程度のものが、無知な米軍にとっては貴重な知識として受取られたのだった。
明けて二十二年一月四日、第三船明優丸、同七日第四船遠州丸が入港した。第一船大久丸は阪東梯団で、在ソ日本人の宣伝機関紙「日本新聞」関係の、阪東、北村、益田氏らがおり、第二船恵山丸には、のちに参院でのソ連製スパイ「幻兵団」証言で問題となった、同新聞編集長、小針延二郎氏がいた。また明優丸は大和梯団、遠州丸は草田梯団であったが、この草田梯団が問題となって、米ソのスパイ戦の幕が切って落されたのである。
三 天皇島に上陸した「幻兵団」
第一次引揚の大久、恵山両船の時に、直接手を出してしまった日本側は、何しろソ連関係のエキスパートばかりなので『スパイらしい人物が多数混っているようだ』と、敏感にもキャッチした。そこで直ちにナイト少佐らの米軍調査班に連絡したが、一笑に付して取上げようともしない無智蒙昧ぶりである。