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迎えにきたジープ p.016-017 対ソ資料の集大成を保管

迎えにきたジープ p.016-017 SMERSH was infiltrating into Manchurian territory, such as a Soviet female captain being a waitress at a White-Russian Club, or a Soviet Colonel working as a gatekeeper for Mukden's special service.
迎えにきたジープ p.016-017 SMERSH was infiltrating into Manchurian territory, such as a Soviet female captain being a waitress at a White-Russian Club, or a Soviet Colonel working as a gatekeeper for Mukden’s special service.

当時の参謀本部は四部まであり、一部は作戦、二部情報、三部後方兵站、四部戦史と分れていた。一部が一—三課、二部が第四班が特務機関の指導、第五課がロシヤとドイツ、第六課が米英、第七課が支那、第八班が謀略と占領地行政、九—十二課は三部となっていた。二部長は有名な有末精三元中将(29期)、五課長は白木末成元大佐(34期)、ロシヤ班長は重宗潔元中佐(44期)であった。対ソ資料の集大成はここで厳重に保管されていた。

一般的なスパイ戦の他には、昭和十九年六月、新鋭機〝新司偵〟がソ連機より駿足なのを利用しては一万二千あたりの高度で、カムチャッカから満ソ国境一帯、イルクーツクあたりまで空中写真撮影を強行して、正確で精密な地図を作っていた。浦塩から舞鶴まで約一一〇〇キロ、チチハル、ヂャムスに基地を持つ第二航空軍がこれを担当、二五〇〇キロから四〇〇〇キロを飛んでいた。

またクリエール(伝書使)の見聞記が有力なものだった。モスクワの日本大使館との外交文書の往復は、陸大出の将校たちが背広でつとめていた。シベリヤ本線を通って、その沿線風景をみてくるのである。

このような日本側の秘密攻撃に対して、ソ連側が黙っていようはずはない。彼らもより以上に積極的に攻撃してきたのだった。

白系露人クラブのウェイトレスが女大尉だったり、奉天特機の門番が歴とした中佐だったりというように、スメルシが満領内に偽装して入りこんでいた。

スメルシというのは、戦時中の特別組織らしく、現在は廃されているようだ。国際諜報部の頭文字、セクトル(C)・メジドナロードヌィ(M)・ラズヴェットキイ(P)・シピオナージ(Ш)をとったのだとか、スメルチ・シピオーヌゥ(スパイに死を)の略語だともいわれる。

ソ連側の謀略放送も、そのスパイ戦の成果を誇示していた。チタ放送は、ハルビン特機の機関長秋草俊元少将(26期)に対して、『リプトン紅茶さん、今朝は御機嫌如何です』とからかったりする。秋草元少将がリプトン紅茶を愛用しているからである。このチタ放送は二十年三月ごろからはじまり、メーデー以後は傍若無人に、日本軍が秘密にしていることをスッパ抜いてばかりいた。

これらの情報は固定諜者ばかりではなく、投入諜者の無電連絡からも集められる。一例をあげれば、終戦直前の約八ヶ月間に満洲の西北正面、すなわち興安嶺一帯で無電機を持った一組二、三名の武装諜者百八十組を逮捕している。

クリエールも大変な仕事で、終戦少し前ごろ、シベリヤ本線の列車内で、某中佐がウォッカを買って飲んだところ、毒薬入りで血を吐いて死んでしまった。同行の若い大尉は逆上してしまってその死体を下ろさせない。

迎えにきたジープ p.018-019 五課の情勢分析はズバリ適中

迎えにきたジープ p.018-019 The Soviet Army's aim was to arrest Japanese war criminals and to detect White-Russians and reverse spies, but more importantly, to forfeit the vast Soviet information collected by the Kwantung Army.
迎えにきたジープ p.018-019 The Soviet Army’s aim was to arrest Japanese war criminals and to detect White-Russians and reverse spies, but more importantly, to forfeit the vast Soviet information collected by the Kwantung Army.

クリエールも大変な仕事で、終戦少し前ごろ、シベリヤ本線の列車内で、某中佐がウォッカを買って飲んだところ、毒薬入りで血を吐いて死んでしまった。同行の若い大尉は逆上してしまってその死体を下ろさせない。

そこでソ連側は、とうとうチタで実力を行使して、大尉を縛り上げ、死体を下ろしてしまった。急報でモスクワの大使館員が駈けつけた時には、暗号のコードブックが入ったトランクは開かれ、暗号はちゃんと盗写されてしまっていたという。外交特権を持ったクリエールでさえこんな調子である。

しかし、さきごろアメリカで発表されて問題となっている、例のヤルタ会談協定によって、ソ連が極東向け第一陣を送り出したのは、二十年の二月下旬であった。これをシベリヤ本線で目撃したのが、クリエールとしてモスクワに向っていた丸山元大尉ら三名の日本将校で、参謀本部に打電して曰く。

『リンゴ二箱、すぐ送れ』(二ヶ師団が東に向った)

これは当時の参謀本部ロシヤ班が、その対ソ資料によって判断していたことと同じで、五課の情勢分析はズバリ適中した訳だったのである。

昭和二十年八月九日、一斉に満ソ国境を越えたソ連軍は、ハルビンへ、新京へ、奉天へと、怒涛のような進軍を開始した。その第一線戦闘部隊のすぐあとには、スメルシ、NKVD(内務省秘密警察軍)などが我先にとばかりに続いている。

直ちに摘発が始まった。彼らの狙いは戦犯の逮捕であり、祖国の裏切者である白系や逆スパイの検挙だったが、それよりも重大だったのは、関東軍の対ソ資料を押えることだったのである。

侵入してきたソ連軍は一兵卒にいたるまで、出逢った日本軍人にこういった。

『日本人は独乙人とウラルで握手して、ソ同盟を半分コにしようとしたんだろう』

そう教育され、固く信じこんでいた彼らにとって、日本がソ連の実情をどの程度に把握していたかということは、今後のスパイ戦の研究と、祖国の防衛とのために、是非とも調べねばならないことだった。

一方日本陸軍では八月はじめついに全軍に重要書類の焼却命令を発した。参謀本部では重宗元中佐が焼却班長となって、八月六日から十一日まで、連日のようにこれらの対ソ資料を煙とともに灰にしていった。

だが、課員のうちのある者たちは『どうしてこれを焼き捨てられよう。他日、再び日本のために役立つ時がくるのではないか』といって、目星しい資料をあつめ、将校行李につめて復員隠匿してしまった。

ところが現地軍では、樺太では大部分をソ連軍に押えられ、関東軍ではわずか一部分を、駐蒙軍でもやはり一部分が国府軍に流されていった。