内外通商の樺太炭二十万トン、安宅産業は同四十万トン輸入の接衡をはじめ、進展実業は乗用車とカメラ輸入を策した。
この乗用車はZIM式、モロトフ工場製、六基筒九十五馬力、時速最高百二十五粁、燃料は百粁につき約十七リットルという性能。写真機はキエフというソ連製コンタックスで、ツァイス・イコンの施設、技師工員をそのままウクライナのキエフに移し、そこで生産したコンタックスと寸分違わぬもの。しかも邦価約二万五千円で約四分の一の安値だ。
内外通商の石炭は(昭和二十七年一月ソ連側から正式に輸出認可があり、同年二月七日付で同社から通産省へその輸入申請が行われた)価格がソ連側のトン十二弗と日本側の八・五弗と若干開いていたので、早くもその打合せを話合うという進捗ぶりだった。
こんな友好的気分が幸いしたのか、或はマキ餌だったのか、ドムニッツキー通商代表はその間に同社と、片仮名、平仮名、漢字、鮮字、数字などの母型四万語一万六千弗の輸入契約を結んだ。
三 闇ルーブルを漁る大阪商社
このような動きは、まだ業界の一部しか知らない蔭の動きだった。手蔓のない商社、ことに関西財界は代表部へコネクションをつけようとして焦っていた。それにこんな面白い話がある。
当局が懸命に探してる日共潜行幹部の一人野坂参三氏の秘書が、同様に地下潜行の身を大阪の某所にひそめていた。そのアジトへ某(特に秘す)貿易大会社の社員が突然たずねてきたのだ。警察さえ知らない彼の来阪の時期とアジトをどうして知ったか。一時は彼もサツの手先なのかとギョッとしたが、話を聞いてみると『日ソ親善何とかやらの会員となって、代表部に出入できるようになりたい。斡旋を頼む』という社命に窮しての懇願だったという。
ソ連代表部や日共の事情に明るい者ならば、日ソ親善協会に頼らなくても目的を達する途がいくらでもあること位判り切ったことだ。しかもそのため警察以上の努力と熱意で潜行の党員を追っかけるなど、この事実こそ、日ソ貿易に喰いつかねばという大阪商人の烈しい商魂を物語っている。
こうした秘やかな動きが、早耳で伝えられて、心理的にも経済界の興味の中心となった頃合を見て、突如二十六年十一月二日に、ドムニッツキー通商代表とマミン経済顧問の国会訪問が行われた。かつてない異例なことだった。
これを機会に代表部の経済工作は表面化した。財界を基盤とする政界への働きかけだ。院内で共産党から自由党までの各派代議士と会見して、日ソ貿易の呼びかけを相当具体的に行なった。この成果は日ソ貿易が有利だという印象を政界に吹き込んだことだった。