プレゼント」タグアーカイブ

新宿慕情 p.030-031 他の遊廓に比べると新宿には美人が多かった

遊郭、赤線と呼び名は変わっても、初老たちのロマンの原点は、吉原とか洲崎パラダイスとか新宿二丁目とかに根付いている。
新宿慕情 p.030-031 遊郭、赤線と呼び名は変わっても、初老たちのロマンの原点は、吉原とか洲崎パラダイスとか新宿二丁目とかに根付いている。

「シヅエという、沖縄出身の、髪の毛の長い妓でネ。これがまた、〝名器〟でして……。心根と

いい、いまだに忘れられない。だから、私は、シヅエという名の女と、髪の毛の長い娘が大好きでしてネ」

ホステスたちが、ドッと笑った。髪の長いのも、シヅエという名前のも、そこにはいなかったからである。

こう、話がハズみ出すと、同席のだれかれ、大正二ケタたちのみんなが、新宿二丁目の思い出話を語り出す。

「ウンウン、二丁目、なァ……」

康範先生までが、〝骨まで愛した〟過去を懐かしむのだ。

そうして気付いてみると、遊郭、赤線と呼び名は変わっていても、初老たちのロマンが、意外にも、吉原とか洲崎パラダイスとか、新宿二丁目とかに、その原点が根付いているのだ。

それは、マリー・ベル主演の戦前の名画『舞踏会の手帖』と同じように、想い出のなかだけにあるべきなので、よけいに美化され、謳い上げられているからなのであろう。……そして、私にも、〝心のふるさと〟が、そこにはあった。

美人は〝床付け〟悪い

学生時代、はじめてひとりで二丁目に出かけた私は、当時の写真見世(娼妓が、直接、店に出ているのと、顔写真が並べてあるのと、二種類の営業形態があった)で、ひとりの妓に上がった。

もちろん、現実の彼女は、店頭の、修整された写真とは、別人かと見まがうほどであった。

しかし、他の遊廓に比べると新宿には、美人が多かった。そして、美人ほど〝床付け〟が悪いのが通例だった。いうなればジャケンな扱いを受けるのだ。

遊廓の情緒というのは、やはり、吉原を措いて、他では味わえない。大枚をハズんで、本部屋(まわし部屋、割り部屋に対する語)にでも入れば、それこそ、前借金の名義にさせられたであろう、タンスに茶ダンス、長火鉢と、妓の財産が並び、ヤリ手バアさんが、炭火を入れて、鉄ビンにお湯がチンチンとたぎる。

タンスの引き出しから、これも彼女自身の財産目録の第何番目かの、丹前に浴衣を重ねて、風呂にまで入れてくれる。それも、長襦袢の裾をからげて、久米の仙人が、神通力を失ったという白い脛をみせる、艶めかしさで、背中を流してくれるのだ。

いまようトルコ嬢の、ブラジャーにパンティといった、即物主義とは違って、百人一首時代そのままの〝情緒〟である。

妓は、妓夫太郎(呼び込み係の男性)に小銭を渡して、茶めしおでんなどを、夜のうちに買わせておく。朝食の仕度をするわけだ。

「散財をさせてしまったねェ」と、朝帰りを裏口まで送ってきて市電の片道切符を一枚くれる。記憶では、市電は片道七銭で、一系統ならどこまでも乗れた。

ところが、早朝割引というのがあって、朝七時ごろまでに乗ると、往復切符が九銭だ。復の切

符は、一日中通用する。この四銭五厘の切符を、プレゼントしてくれるのだ。

新宿慕情 p.044-045 清洲すみ子に懸想、市川弥生にほのかな愛情

新宿慕情 p.044-045 村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ
新宿慕情 p.044-045 村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ

そして、三階席での感激を、もう一度味わうためには、セカンド・ランの昭和館があった。ここは、堂々と一階席で見ることができた。その武蔵野館も、いまは、ビルに変わり、昔日のおもかげはない。それでも、名前だけが残されているのは、うれしいことだ。

昭和館は、むかしの場所に、多分、最後の建物だろうが、ともかくも、映画館として残っていてくれている。

だが、その中間に位置していた、ムーラン・ルージュは、もう跡形もなくなってしまい、ビルが建ち、ツマらない映画をやっている……。

私が、コンチネンタルのムチに手を叩くのは、このムーラン・ルージュへの〈郷愁〉に違いない、と思う。

わが青春の女優たち

当時、「新劇」と呼ばれていたのは、村山知義の率いる新協劇団と、薄田研二らの〝集団指導〟制の新築地劇団とで、いまの感じでいえば、セ・パ両リーグのような形で、左翼演劇絶対の立場をとっていた。

そして、同じように、新劇の範疇ではあるが、肩肘怒らした左翼演劇の息苦しさよりも、もっと、傍観者的にオチョクろうという、さながら、週刊新潮誌張りに、フランス・コメディを中心とした、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディという、別派があった。

そして、この〈我がムーラン・ルージュ〉は、テアトル・コメディの劇場演劇に対して、自ら〈軽演劇〉として、ファース(笑劇)とレビューを売り物にしていた。

しかし、本場パリの小屋の名前を、そのままイタダいているのでもわかるように、このムーラ

ン・ルージュには、浅草のドタバタとは違って、学生たちを満足させる、〝白水社的〟知性があったのだった。

だから、私はいまでも、有島一郎をテレビで見ると、ムーランの舞台にいた彼を、その映像にダブらせて見ている。

金貝省三という〝座付作者〟に憧れて、楽屋に会いに行ったこともある。

踊り子でいえば、スターの明日待子に胸をトキめかし、五十鈴しぐれというワンサに、プレゼントを届けた。

ムーランを卒業した私が、やがて、築地小劇場に拠っていた左翼演劇に熱中し始めるのは、当時の〝進歩的学生〟として当然のコースなのだが、新協劇団の女優サン・清洲すみ子に〝懸想〟することになる。

ムーランの中堅の踊り子だった市川弥生にも、同じように、少年のほのかな愛情を抱いたものだった。戦争と捕虜とから生還した私が、廃墟さながらの新宿の町で知り得たニュースは、市川弥生嬢が金貝省三氏と結婚したということと、やはり、新協劇団の清洲サンが、村山知義夫人になっていたということだ。

いまにして思えば、ナント、オマセな少年だったか、という感じである。

しかし、私は、少年の日に、戦前だから、唇を合わせることはもとより、手ひとつ握ることさえなく、ただただ〈我が胸の底の、ここには……〉と、思慕のみを抱いて、死を意味していた

〝醜の御盾〟として出て征って、帰ったのだが、ひとりは劇作家夫人、もうひとりは演出家夫人に納まった、と知って、我が《女性鑑識眼》の確かさに、ひとり悦に入ったものである。