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最後の事件記者 p.154-155 記者ではなくて事務屋である

最後の事件記者 p.154-155 私のように根ッからの記者は、取材、自分で走り廻ることをやめて、伝票にハンコを押すことなどに、執着や興味はさらにない。万年取材記者でありたいと願っていた。
最後の事件記者 p.154-155 私のように根ッからの記者は、取材、自分で走り廻ることをやめて、伝票にハンコを押すことなどに、執着や興味はさらにない。万年取材記者でありたいと願っていた。

だから、私の功名心を、このような立身出世主義に置きかえてみるのは、誤りだ。今度の横井

事件の〝五人の犯人生け捕り〟計画も、「彼は社会の多数がこうむる迷惑よりも、自分の抜け駈けの功名や、社会部長の椅子の方が大事であったに違いない」とみるのは、全くの誤りである。

第一、現在の新聞社の機構では、社会部長も次長も、記者ではなくて事務屋である。ことに次長というのは、行政官、悪くいえば請負仕事の職人である。アメリカの記者のように、例えばNBC放送のブラウン記者が、五十歳ほどの立派な紳士でありながら、デンスケを担ぐのとは違うのだ。

私のように根ッからの記者は、取材、自分で走り廻ることをやめて、伝票にハンコを押すことなどに、執着や興味はさらにない。万年取材記者でありたいと願っていた。第一、部長、次長という役職者は、自分で原稿を書くチャンスが与えられていない。空前ではないかも知れないが、絶後であるのは、読売の高木健夫編集局次長のような立場だ。

高木局次長は、今でも新聞記者である。自分自身で原稿を書いているからだ。編集局の一隅に自分のデスクがあって、電話の取次ぎをする給仕一人いない。不思議に、このような大記者制度というものが、日本の新聞にはないのである。古くなれば、誰でもが、オートメで役職につけて、その才能を殺してしまうのが、日本の新聞である。

私が、どんなに功名心にかられていても、書かなかった記事、つまり事件は、いくつもある。つまり、相手がどうあろうと、何でも彼でも書きまくって、自分だけが出世をしようなどとは、いささかも考えはしなかった。

徳球要請事件

二十五年三月、参院引揚委員会では、いわゆる徳田要請問題の審議を行った。日本共産党書記長徳田球一が、ソ連側に「日本人の引揚をおくらせてほしい」と要請したという問題が、引揚者によって伝えられたのである。

同委員会では、これを引揚阻害として重視した。そして、ついに徳田書記長を証人として喚問し、吊しあげるという一幕が演ぜられたのだが、徳田書記長はベランメエ口調で荒れまわって、〝モスクワへ行ってきいて来い〟という、名ゼリフをはいたのである。

委員会の審議は、吊しあげるはずの徳球一人に引ずり廻されて、何の真相もわからず、何の結論も出ないまま、その日は散会となってしまった。

その数日後のことである。私は日共関係のニュース・ソースである一人の男から、実に意外な ことを聞いたのであった。

p68上 わが名は「悪徳記者」 退社して逮捕されることを望んだ

p68上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 務台重役はニコニコ笑われて、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片付いたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。
p68上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 務台重役はニコニコ笑われて、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片付いたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。

「取材以外の何ものでもない。だから何時でも逮捕されるなら、出頭するから呼んでほしい」と、自宅の電話番号まで知らせた。社会部の先輩や社の幹部からも、「取材だから止めることはない」と、私を思って下さるお言葉を頂いたが、小笠原に「自首ではなく逮捕だぞ」と念を押した信念から、私自身の違法行為の責任を明らかにするため、退社して逮捕されることを望んだのであった。社へ迷惑をかけないためである。「苦しい〝元〟記者」との批判もあったが、このような事情である。〝勝てば官軍、敗ければ賊軍〟とは名言であった。

こうして、二十二日正午までに出頭を要求されたが、私が二十日に書いた辞表は二十二日午前、高橋副社長、務台総務局長、小島編集局長の持廻り重役会で受理された。社で私につけてくれた中村弁護士との打合せをすませ、重役たちに退社の挨拶をしようとしたが、務台重役以外は不在だった。務台重役はニコニコ笑われて、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片付いたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。私はそれでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。記者としての私を理解して頂けたからである。

万年取材記者

私がもし、サラリーマン記者だったなら、もちろん〝日本一の記者〟などという、大望など抱かなかったから、こんな目にも会わなかったろう。もし、それでも逮捕されたとしても、起訴はされなかったろう。 七月の四日すぎ、多分、七日の月曜日であったろうか、警視庁キャップの萩原君が、ブラリと最高裁のクラブにやってきた。