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最後の事件記者 p.200-201 ナニ? 将校斥候だと?

最後の事件記者 p.200-201 私の感想では、現代の二大アジテーターが、日共の川上元代議士と辻参謀だと思う。はじめて会った辻参謀は、約一時間以上も、それこそ、じゅんじゅんと語った。
最後の事件記者 p.200-201 私の感想では、現代の二大アジテーターが、日共の川上元代議士と辻参謀だと思う。はじめて会った辻参謀は、約一時間以上も、それこそ、じゅんじゅんと語った。

三田将校斥候到着

その夜、旅館のフトンの中で考えた。一カ月といったら、続きものが終ってしまう。何とか手を打って、会う気持にしてやろう。

翌朝、ネムイ眼をコスリながら、七時五分前に門前についた。時計をニラミながら、正七時になるのを待った。私には一つの計画があった。

正七時、私はさっそうと玄関に立った。すでに庭も玄関も、すべてハキ清められているではないか。老人は早起きだ。

『お早ようございまーす。三田将校斥候、只今到着いたしましたッ』

私は、それこそ軍隊時代の号令調整のような大音声で呼ばわった。

すると、意外、次の間の読経らしい声がピタリと止んで、

『ナニ? 将校斥候だと? 将校斥候がきたのでは、敵の陣内まで偵察せずには、帰れないだろう。ヨシ、上れ』

辻参謀は、そういいながら玄関に現れた。私は、自分の計画が、こう簡単に成功するとは考え

ていなかったので、半ばヤケ気味の大音声だった。だから、計画成功とばかり、ニヤリとすることも忘れていた。

寒中だというのに、すべて開け放しだ。ヤセ我慢していると火鉢に火を入れて、熱いお茶を入れてくれて、じゅんじゅんと語り出していた。

私の感想では、現代の二大アジテーターが、日共の川上元代議士と辻参謀だと思う。川上流は、持ちあげて湧かせて、狂喜乱舞させてしまうアジテーション。私は、彼の演説を聞くたびに、記者であることを忘れて、夢中になって拍手してしまうほどだ。

辻流は、相手をグッと手前に引きよせて、静かに自分のペースにまき込んでしまう対照的な型である。はじめて会った辻参謀は、約一時間以上も、それこそ、じゅんじゅんと語った。

『マ元帥はもはや老朽船だ。長い間、日本にけい留されている間に、船腹には、もうカキがいっぱいついてしまって、走り出そうにも走れない。このカキのような日本人が、沢山へばりついているのだ……』

参謀は、そういいながら、彼の書きかけの原稿をみせてくれた。読んでみると、反米的な内容だが、実に面白く、私たちの漠然と感じていることを、実に明快に、しかもハッキリといい切っ

ている。

最後の事件記者 p.202-203 仕事で来いと、張り切っていた

最後の事件記者 p.202-203 私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。
最後の事件記者 p.202-203 私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。

参謀は、そういいながら、彼の書きかけの原稿をみせてくれた。読んでみると、反米的な内容だが、実に面白く、私たちの漠然と感じていることを、実に明快に、しかもハッキリといい切っ

ている。

私はその原稿を借りて帰った。原部長に見せると、「実に面白い」と感心された。私は良く知らないが、原部長は、まだ占領期間中であるのに、その原稿を読売の紙面に発表して、問題を投げかけ、読者に活発な論争をさせようと企画したらしい。

「あのような激しい、占領政策批判の記事を?」と、私は内心、部長の企画に眼を丸くして驚いた。しかし、この原稿は社の幹部に反対されたらしく、部長もついに諦めたらしかった。

夜の蝶たち

こんな部長の企画が、独立後半年も続いていた占領国人の特権猶予に対して、敢然と批判を加える、新しい企画になって、続きもの「東京租界」が実を結んだ。

その年の初夏から、警視庁の記者クラブへ行っていた私は、この企画のため、辻本次長に呼び返された。といっても、もちろん、クラブ在籍のままである。その年の春、チョットした婦人問題を起して、クサリ切っていた私を、気分一新のため警視庁クラブへ出し、そして、初仕事ともいえるのが、この「東京租界」であったのである。

当時その問題のため、三田株は暴落して、彼は再び立ち上れないだろうとまで、仲間たちからいわれていた。そうなると、人情紙風船である。私に尾を振っていた連中も、サッと見切りをつけて、素早く馬をのりかえるのであった。菊村到の送別会が開かれなかったということでも、新聞社の空気というものが、うなずかれるであろう。

私は辻本次長に、私を起用してくれたことを感謝しながらも、条件をつけたのである。

『多勢の記者とやるのなら、イヤです。私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君(文部省留学生で、一年間オハイオ大学に留学していた)を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。必らずいい仕事をして、思い切り働らいてみせます』

私の願いは叶えられて、九月に入ると間もなく、私は自由勤務となった。私は、私が再起できないという、部内の流言に対して、仕事で来いと、張り切っていたのであった。

十月二十八日、日本独立の日から六カ月の後、ついに在留外国人たちの、一切の特権は否認された。猶予期間が終ったのである。

それまでは、連合国人と第三国人とにとって、日本は地上の楽園だったのである。一番大きな特権は〝三無原則〟と呼ばれた、無税金、無統制、無取締の、経済的絶対優位であった。