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読売梁山泊の記者たち p.038-039 あの一見〝文弱の徒・風〟

読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。
読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。

社の角が正面玄関で、その濠には、有楽町駅に通じる橋が架かっていた。有名な数奇屋橋の次の橋である。

もう、正午近くのことだった、と思う。

その橋を、銀座に向かって、一人の男が、さっそうと歩いてくるのが、目に止まったのだ。長身に、背広をシックに着こなして、ソフトを、ややアミダに冠り、横ビンには、白髪のまじった髪が見えた。(まだ、ロマンスグレイという言葉が、無かったのではないだろうか…)

それこそ、その男のフンイキは、〝文化〟そのものであった。

——何者だろう?

私が、男の行方を見つめていたら、読売の玄関に入っていったのである。だが、私にはその男が、読売の社員とは思えなかった。何しろ、社の情景は、冒頭にのべたようなありさまだったからだ。

その男が、文化部長だった。井上、石上両嬢の言葉に対し、私の返事に、「フーン…」とあるのは、その意外性への反応である。

それが私と原四郎との出会いであった。が、当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。だから、彼が、社会部長として、私の上司になろうとは思ってもみなかった。

それよりも、社内の若い女の子の、〝憧れの的〟と知って、なおさら、「文弱の徒」という印象を抱いたものである。やはり、新聞記者は事件であり、〝金と酒と女〟とが、取材の対象だ、と信じこんでいた。

こうして私は、はじめて、原四郎・文化部長を知った。いや、知ったなどと、大きなことはいえない。私が、あの〝文化〟そのもののような男が原四郎だ、ということを知っただけである。

政治部の初年兵は、本会議取材が第一歩だが、社会部の国会担当は、社会面に関係のある政治現象を追う。だから、中曽根記者会見の際、「社会部記者はお断わり」となったのは、社会部記者は、日頃の付き合いがないから、情に流されずに、バラリ・ズンと、斬って落とすからである。

そして、その時期に、原四郎が社会部長になってきたのである。竹内四郎の処遇のため企画調査局というのを新設して、その局長に出たあとの、後任であった。

社会部長になった原と、私は、はじめて口を利き、その人となりを知るに及んで、驚いた。

とても、とても、〝文弱の徒〟ではなかったのである。剛腹一本槍だった竹内に比べると、まさに、〈新聞記者〉そのものだった。

あの一見〝文弱の徒・風〟(いまは、あまり使われなくなった言葉だが、当時の、新聞記事の独特のスタイルで、〝一見……風〟というのがあった。米占領軍の兵士の犯罪をそれとなく表現する必要から、生まれた)と見えながら、舌を捲くほどの、部下の使い方であった。

その原四郎社会部長については、のちに触れることとして、順序として、まず、竹内四郎について

語らねばならない。

読売梁山泊の記者たち p.040-041 日銀が上野署に摘発された

読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。
読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。

その原四郎社会部長については、のちに触れることとして、順序として、まず、竹内四郎について

語らねばならない。

「梁山泊」さながらの竹内社会部

竹内四郎は、私の先輩、府立五中の第一回卒業生。大正十三年三月に卒業、慶大に進んでいる。そして、私の初めての結婚の、頼まれ仲人でもあった。

この竹内も、私の〝記者形成〟に、大きなインパクトを与えている。

上野署のサツ廻り時代の、二十三年五月ごろのこと。銀座から、日本橋署をまわって、上野署の玄関にきたのは、もう、正午近いころだった。

フト、気付くと、ピカピカに磨かれた乗用車が二台、玄関前の広場に停まっている。上野署といえば、ヤミ米の運び屋と、パン助、オカマ、浮浪者しか、出入りしない時代だから、それは、異様な光景であった。

やがて、警察担当の通信主任から、次長となり、連載もの専門のデスクとして、「昭和史の天皇」など、多くの名作を遺して逝った辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。

「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。

——ナゼ、あんな高級車が、停まっているンだ?

私は、玄関を入りかけたが、戻ってきて、運転手に話しかけた。

「いい車だネ。こんな高級車に乗れる人は、キット、重役サンだネ」

「イエ、輸送課長サンです」「どこの?」

「日銀です」

日銀の輸送課長が、二台できている。部下か、関係者を連れてきている。ナゼだ?

私は、署長室の入口のガラス戸を、背伸びして覗いたが、客はいない。すぐデカ部屋 (刑事課)へ。ここにもいない。二階の経済係へ行くと、居た、居た!  部屋いっぱいに、カツギ屋の代わりに、背広姿がいる。

ガラス戸をあけて、室内に入ろうとすると「ブン屋サン。調べ中だから、ダメだよ」と追い出された。トイレの入り口付近で待つうちに、メングレ(面識のある人、顔馴染み)の刑事がきた。

すれ違いざまに、「駅警備!」と、短く一言。私は上野駅へ走った。

若い制服のお巡りサン、湯沢さんといったが、まだ、興奮さめやらずで、話をしてくれた。すぐ、公衆電話で、社へ一報を入れる。

「日銀の新潟支店が、本店の上司に、現送箱(現金を入れた木箱。警官が警乗する)に米を入れて送り、上野署に摘発されたンです。すぐ、写真(カメラマン)をください!」

話はこれからである。

湯沢巡査は、上野駅に着いた貨車に、警乗してきた警官から、申し送りを受けて、駅構内に入って

きたトラックに、現送箱を移しかえるのを、警備していた。

最後の事件記者 p.144-145 公表されたスパイは役に立たない

最後の事件記者 p.144-145 『それに、殉職すれば、原部長も、担当デスクの辻本次長も、きっと仇討ちをしてくれるよ。第一、お葬式代がかからないよ。ハハハハ』
最後の事件記者 p.144-145 『それに、殉職すれば、原部長も、担当デスクの辻本次長も、きっと仇討ちをしてくれるよ。第一、お葬式代がかからないよ。ハハハハ』

私は、シーツの上に女の腰ヒモを一本、真直ぐに引いて、ニヤリと笑った。帰宅して妻に話す時のたのしみを、作りたかったのである。女もうなずいた。おたがいの領地を決めたのである。

翌朝、雨がふっていて、バスの停留所まで濡れねばならなかった。NとSとは、背広のエリを立て、ズボンのもも立ちを取って、水たまりを避けながら、ピョン、ピョンとはね歩くという、みじめさだったが、私だけはダンナ面をして、相合傘で送られたのである。

スパイは殺される

そんなに潔癖な私だったのである。そのことは妻も良く知っていた。それなのに、夢中になって、この危険なスパイの仕事に打込んでいる夫を、理解しようとしているのだ。黙っている私に、彼女はいった。

『もうじき、あなたの待ちこがれていた、あなたの子供が生れるのよ』

『ウン、ウソをついたことになりそうだ。だけど、何ていうのかな。会社のためでもあるんだけど、もっと大きな、新聞記者魂というか、業(ゴウ)というのか、俗っぽく一言でいえば功名心、そんなものが、ボクの心の中からうずいてくるンだ』

『……』

今度は妻が黙った。私は懸命になって説明した。危険も少ないだろうという、見通しの根拠を説明した。私はこの記事によって顕在化されるのだ。潜在化している間は危険だが、公表されたスパイはもう役に立たない。しかも、注目されている時は、危害を加えたりすれば、さらに大きな反響を呼んで、かえって不利になるのだから、大丈夫だと、妻を安心させるのに努めた。

『それに、殉職すれば、原部長も、担当デスクの辻本次長も、きっと仇討ちをしてくれるよ。第一、お葬式代がかからないよ。ハハハハ』

私は冗談で、妻の不安を笑いとばそうとした。長い間黙っていた妻は、やっと顔をあげた。

『いいわ。あなたのお葬式が済んだら、私も心中するわ。だから、安心して確りやって頂戴。そうすればいいわ、私も安心だわ』

彼女が、「残る家族に心配するナ」という言葉を、口にしたのはこれがはじめてだった。二人は何かオカシくなって、アハハハと笑いあった。

しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から見通しの階段へ一歩踏み出した。

最後の事件記者 p.202-203 仕事で来いと、張り切っていた

最後の事件記者 p.202-203 私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。
最後の事件記者 p.202-203 私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。

参謀は、そういいながら、彼の書きかけの原稿をみせてくれた。読んでみると、反米的な内容だが、実に面白く、私たちの漠然と感じていることを、実に明快に、しかもハッキリといい切っ

ている。

私はその原稿を借りて帰った。原部長に見せると、「実に面白い」と感心された。私は良く知らないが、原部長は、まだ占領期間中であるのに、その原稿を読売の紙面に発表して、問題を投げかけ、読者に活発な論争をさせようと企画したらしい。

「あのような激しい、占領政策批判の記事を?」と、私は内心、部長の企画に眼を丸くして驚いた。しかし、この原稿は社の幹部に反対されたらしく、部長もついに諦めたらしかった。

夜の蝶たち

こんな部長の企画が、独立後半年も続いていた占領国人の特権猶予に対して、敢然と批判を加える、新しい企画になって、続きもの「東京租界」が実を結んだ。

その年の初夏から、警視庁の記者クラブへ行っていた私は、この企画のため、辻本次長に呼び返された。といっても、もちろん、クラブ在籍のままである。その年の春、チョットした婦人問題を起して、クサリ切っていた私を、気分一新のため警視庁クラブへ出し、そして、初仕事ともいえるのが、この「東京租界」であったのである。

当時その問題のため、三田株は暴落して、彼は再び立ち上れないだろうとまで、仲間たちからいわれていた。そうなると、人情紙風船である。私に尾を振っていた連中も、サッと見切りをつけて、素早く馬をのりかえるのであった。菊村到の送別会が開かれなかったということでも、新聞社の空気というものが、うなずかれるであろう。

私は辻本次長に、私を起用してくれたことを感謝しながらも、条件をつけたのである。

『多勢の記者とやるのなら、イヤです。私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君(文部省留学生で、一年間オハイオ大学に留学していた)を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。必らずいい仕事をして、思い切り働らいてみせます』

私の願いは叶えられて、九月に入ると間もなく、私は自由勤務となった。私は、私が再起できないという、部内の流言に対して、仕事で来いと、張り切っていたのであった。

十月二十八日、日本独立の日から六カ月の後、ついに在留外国人たちの、一切の特権は否認された。猶予期間が終ったのである。

それまでは、連合国人と第三国人とにとって、日本は地上の楽園だったのである。一番大きな特権は〝三無原則〟と呼ばれた、無税金、無統制、無取締の、経済的絶対優位であった。

最後の事件記者 p.220-221 顔をみるなり「オイまぼろし!」

最後の事件記者 p.220-221 私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働らいており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員のリスタレフとレポしていたのである。
最後の事件記者 p.220-221 私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働らいており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員のリスタレフとレポしていたのである。

スパイは殺される

三橋事件の発生

鹿地不法監禁事件がもり上ってきた。二十七年十二月十一日、斉藤国警長官は、参院外務委でこう答弁した。

「鹿地氏は現に取調べ中の事件と、直接関係を持っている疑いが濃厚である。被疑者は日本人で、終戦後ソ連に抑留され、同地において、高度の諜報訓練と、無電技術とを会得した。内地に帰ってから、ある諜報網と連絡して、海外に向って無電を打っていたという疑いが強い。氏名を述べることはできないが、東京の郊外に居住していた人間である」

その日の夕方、私は何も知らないで、警視庁記者クラブから社に帰ってきた。ちょうどそのニュースが、社に入ったところだった。私の顔をみるなり、

『オイ、まぼろし! 長い間の日陰者だったが、やっと認知されて入籍されたゾ』と。

原部長の御機嫌は極めてうるわしく、私は何のことやら判らず、戸まどったような、オリエンタル・スマイルを浮べた。やっと、そのニュースを聞いた時には、「何だ、そんなこと当り前じゃないか」と、極めて平静を装おうとしながらも、やはり目頭がジーンとしてくるほどの感激だった。

ちょうど三年前のスクープ、大人の紙芝居と笑われた「幻兵団」が、今やっと、ナマの事件として脚光をあびてきたのだった。これが記者の味わい得る、本当の生き甲斐というものでなくて、何であろう。

私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働らいており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員のリスタレフとレポしていたのである。そればかりではなくて、すでにCICに摘発されるや、三橋をはじめとして、多数のソ連スパイが、アメリカ側に寝返っていた時代だったのである。

従って、アメリカ側は幻兵団の記事で、自分たちの知らない幻を、さらに摘発しようと考えていたのに対し、全く何も知らない日本治安当局は、何の関心も示さなかった。日本側で知ってい

たのは、舞鶴CICにつながる顧問団の旧軍人グループと、援護局の関係職員ぐらいのもので、治安当局などは「あり得ることだ」程度だから、真剣に勉強しようという熱意なぞなかった。

最後の事件記者 p.246-247 ニセ信者になって交成会に潜入

最後の事件記者 p.246-247 『何いってるンだ。通産省ほど社会部ダネの多い役所はないのに、今までの奴らは、保養のつもりで書きやがらねえ。お前がいって、書けるということをみせてやれ』と、全く話が変になってしまった。
最後の事件記者 p.246-247 『何いってるンだ。通産省ほど社会部ダネの多い役所はないのに、今までの奴らは、保養のつもりで書きやがらねえ。お前がいって、書けるということをみせてやれ』と、全く話が変になってしまった。

立正交成会潜入記

立正交成会へスパイ

警察の主任になったり、旅館の番頭などと、芝居心をたのしませながら仕事をしているうちに、三十一年になるとまもなく、警視庁クラブを中心とした、立正交成会とのキャンペーンがはじまってきた。

その前年の夏に、警視庁に丸三年にもなったので、そろそろ卒業させてもらって、防衛庁へ行きたいなと考えていた。「生きかえる参謀本部」と、「朝目が覚めたらこうなっていた—武装地帯」という、二つの再軍備をテーマにした続きものを、警視庁クラブにいながらやったので、どうもこれからは防衛庁へ行って、軍事評論でもやったら面白そうだと思いはじめたのであった。

そのころ、名社会部長の名をほしいままにした原部長が、編集総務になって、景山部長が新任

された。それに伴って人事異動があるというので、チャンスと思っていると、一日部長に呼ばれた。アキの口は防衛庁と通産省しかない。病気上りででてきていた先輩のO記者が、通産省へ行きたがっていたので、これはウマイと考えた。

『防衛庁と通産省があいてるのだが、警視庁は卒業させてやるから、どちらがいい』

という部長の話だった。えらばせてくれるなどとは、何と民主的な部長だと、感激しながら答えた。

『通産省は希望者もいることですから、ボクは防衛庁に……』

といいかけたら、とたんに、

『何いってるンだ。通産省ほど社会部ダネの多い役所はないのに、今までの奴らは、保養のつもりで書きやがらねえ。お前がいって、書けるということをみせてやれ』

と、全く話が変になってしまった。そればかりではない。

『お前のようなズボラを、一人のクラブへ出すのは、虎を野に放つのと同じだという意見もあるんだ。チャンと出勤しろよ。従来の奴が書けないクラブで、お前に書かせようというのだから』

とオマケまでついてしまった。こうして三十年の夏から、通産、農林両省のカケ持ちをやって

いたところに、キャンペーンに召集がかかってきた。ヒマで困っていたので、よろこび勇んで、はせ参ずると、ニセ信者になって、交成会に潜入して来いというのだ。

p69上 わが名は「悪徳記者」 数カ月の労作が読まれもせずボツに

p69上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 かつて、「東京租界」の時、原部長はただ一言、『名誉毀損の告訴状が、何十本とつきつけられてもビクともしないだけの取材をしろよ』とだけ命じた。
p69上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 かつて、「東京租界」の時、原部長はただ一言、『名誉毀損の告訴状が、何十本とつきつけられてもビクともしないだけの取材をしろよ』とだけ命じた。

部長はいい出した。『裁判という続きものをやろうじゃないか』 私以下三人の記者は頭を抱えた。「裁判」を社会面の続きもの記事にとりあげようというのだから、その意気たるや壮である。そして、その心構えになりかけたころ、この企画は消えさった。理由はしらないが、果して、誰がこれを指導するのか、ということかもしれない。

坂内レインボー社長が釈放された。私の部下二人は〝政党検察〟に切歯扼腕して、これはどうしても解説を書かねばと主張した。本社へ連絡すると、「是非頼む」という。二人はこの数ヵ月の夜討ち、朝駆けの成果を、会社の立場も考慮した慎重な労作にまとめた。夜の十時ごろ、原稿を出すと、その労作は読まれもせずボツになった。二人の記者がどんなに怒ったか、その人は知るまい。

「東京地裁では……」その原稿を送ると「これは一審か二審か」の問合せがくる。武蔵野の巡査殺し犯人の二審判決が、一審の無期を支持すると、各社はベタ記事なのにウチはトップになる。ヴァリューが判断できない。これでは「裁判」という画期的な企画が消えるのも無理はないのである。

かつて、「東京租界」の時、原部長はただ一言、『名誉棄損の告訴状が、何十本とつきつけられてもビクともしないだけの取材をしろよ』とだけ命じた。指導の辻本次長はいった。『奴らはいろいろと政治的な手を打って、社の幹部に働きかけてくるから、記事をツブされないように、本人に会見するのは締切の二時間前にしろよ』これほど取材記者の感激する言葉があるだろうか。

私たち記者だって、会社には営業面の問題があることも知っている。その点と取材との調和も判る。だから、千葉銀事件などの微妙さも理解できる。