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最後の事件記者 p.140-141 私は「戦死」を目標にしていた

最後の事件記者 p.140-141 私は二才の時に父に死別しているので、全く父親の味を知らずに成長した。
最後の事件記者 p.140-141 私は二才の時に父に死別しているので、全く父親の味を知らずに成長した。

『どうして、あなたがやらなきゃならないの?』

『他にやる奴も、やれる奴もいないからだよ。それに、ボクは新聞記者だからね』

『新聞記者ッて、そんなにお仕事のために身体を張っていたら、幾つ身体があっても足りないわネ』

『男に生れて、自分の仕事に倒れるなンて、素敵じゃないか。男子の本懐これに過ぎるものはないさ。お巡りさんだってそうじゃないか。強盗が刃物を持っていて、危いから知らんふりはできないだろう。職業にも倫理があるンだよ。それに生き甲斐さ』

『男の生き甲斐はあるかもしれないけど、夫として、父としてはどうなの?』

人の子の父

私はしばらく黙ってしまった。私は二才の時に父に死別しているので、全く父親の味を知らずに成長した。兄弟は多勢いたが、やはり物足りなかった。小学生のころは、父親に手をひかれたよその子供をみると、シットを感じた。そんなせいで、私の〝人恋しさ〟の念は人一倍強く、愛

憎がはげしい性格となってきた。

父がなかっただけに、母への感謝の気持も強かった。それを裏返すと、母への不満であった。二十才の夜に男になろうと計画してみたり、アルバイトをしたり、学校を放浪したり、演劇青年を気取ったのも、そのためであった。

青年になってから、何度か恋をした。ある看板かりの芸者と深くなって、本気で結婚しようと考えたことがあった。彼女は二つ年上で、その土地では一流の姐さんだった。ずいぶんと、若い私のために立引いてくれたのだが、熱中する私をおさえて、「出世前のあなただから…」といって、やはり芸者らしい道を去っていった。

しばらくあと、こんどは劇団仲間の女性と一緒になろうと思った。手一つ握り合わないうちに、彼女は病死した。急に腹膜炎を起したのだった。

そして、戦局が激しくなってから、好きな女性がいた。しかし、何もいわずに黙って出征した。外地へ向う最後の日、彼女はオハギを作って駅まできてくれた。私はサッパリとした明るい顔で、一ツ星らしい敬礼をして別れを告げた。私は「戦死」を目標にしていたからだ。

残した母親のことは、他の息子にまかせればよい。何の系累もなくて、私は自分のことだけを 考えればよい、気楽な気持だった。

最後の事件記者 p.142-143 オレ。結婚一週間目なンだ。

最後の事件記者 p.142-143 女と二人だけになった時、戦後はじめての、遊廓ではない赤線という名に変ったオ女郎屋風景に、私は物珍らしくアチコチ眺めていた。
最後の事件記者 p.142-143 女と二人だけになった時、戦後はじめての、遊廓ではない赤線という名に変ったオ女郎屋風景に、私は物珍らしくアチコチ眺めていた。

残した母親のことは、他の息子にまかせればよい。何の系累もなくて、私は自分のことだけを

考えればよい、気楽な気持だった。その女性とは、せめて一日でも、結婚してから出征したいとは思ったが、戦死者の妻にするのが可哀想だったのである。

どうして、そんなに私が〝人恋し〟かったのだろうか。私の希望は、私の子供に、私が子供の時に与えられなかった父親の愛情を、それこそフンダンに、惜しみなくそそいでやりたい——そんな、平和な家庭を作りたいと、幼年のころから考えていたからだった。

それを、今やキッパリとあきらめて、兵隊になったのだった。だが、幸か不幸か、私は生きて帰ってきて、新聞記者にもどったのである。そして、第一にみたされなかった幸福の夢——家庭をもって、人の子の父となることを考えたのであった。

戦争と捕虜を通して、私は自分の生命力と生活力とに自信を抱いた。戦争で死んだ男たちをみると、運命といったようなものを信ぜざるを得なくなってくる。死ぬ奴は死ぬべくあった、と思われるフシがあるのだった。

そこで結婚して、子供を計画出産するようにしたのである。だが、そのころから、私の新聞記者としての打込み方が、少し異常になってきたのであった。〝ニュースの鬼〟になったのであった。当然、家庭の夫として、父としての理想像からは、かけ離れてくるのだった。ことに、危険

を覚悟の上で、体当りに仕事にぶつかってゆく取材態度は、私の経験則の父親の責任「人の子の父は、子供が巣立つまで健康であらねばならない」と、相反するのであった。

結婚前の私は、そんな家庭の理想を、妻に語ったりしていたのだ。だから、戦争前には放埒の限りを尽した私も、軍隊と捕虜とで、身も心も洗われた気持(実際もそうであった)で帰ってきて、同僚の誘惑にも負けず、キレイナ身体で結婚に入った。

結婚して一週間目の夜、同僚のH、S両記者と祝盃をあげた。呑むほどに酔うほどに、独身の両記者はヤリ切れなくなったらしい。ついに三人は、小岩の東京パレスという赤線に沈没してしまった。私をどうしても、二人が釈放してくれなかったのである。「オレたちの身になってみろ」というのが、その口説だった。

女と二人だけになった時、戦後はじめての、遊廓ではない赤線という名に変ったオ女郎屋風景に、私は物珍らしくアチコチ眺めていた。つい思い出して、私は女に懇願した。

『実は、オレ。結婚一週間目なンだ。だから、いいだろ?』

戦前の遊廓であったら、こんなことは女にとっての最大の侮辱で、許さるべきことではなかったのである。だが、そこは戦後派だ、いとも簡単に許してくれた。