捜査当局の調べによると、ラ氏の詳細な供述の内容は全く事実に一致しており、S、H両氏についても実在しているので、このラ氏供述を真実と認めているが、任意出頭で数回にわたり取調べをうけた吉野氏は全く否認している。
当局側が吉野氏について疑点とするのは、①終戦から引揚までの経過が全く不明で、その間の吉野氏について立証するものが居ないし、同氏も語らない。じつに忽然として大連に現れて引揚船に乗込んだ。②特務機関員として逮捕され、妻や義父は処刑され、当然抑留されるべきなのに抑留されなかった。③ラ氏自供が実に微細な点まで述べ事実と合致するのに、同氏は否認している。④アカハタがその事実がないのに関わらず、同氏を警察のスパイとして攻撃しているなどの諸点である。
吉野氏を小金井の自宅に訪ねてみた。南斜面の広い敷地に、赤塗りのペーチカ付満州風の小住宅が建っている。同氏はラ氏失踪後、胸部疾患と称してこの自宅に引籠ってしまっている。
『私がラストヴォロフの協力者だったなどというのは、とんでもないいいがかりだ。ラ氏などというのも、新聞に出た写真と記事で初めて知ったほどだ。
終戦時のことはいいたくない。警視庁に呼ばれてラ事件に関し調べられたことは事実だが、全く知らないことだから知らないといった。ラ氏がどんなに詳しく私のことや、義弟や友人のことをしゃべろうと、私の知らないことで、大変な迷惑だ。第一、私がラ氏の協力者だというのなら、その証拠をみせてほしい。
アカハタの記事はとんでもないデマだ。平井警視正や丸山警視には、或る人に紹介されて一度逢ったことはあるが、私がその手先などということはない。健康が恢復したら、アカハタを名誉毀損で訴えてやるつもりだ。いずれにしろアカハタの記事は、私への挑発で、何者かの陰謀だ』
こう語る吉野氏は、その言葉は文字にしてみればまっとうであるが、つねに神経質にふるえ、何回かの質問に答の喰い違いができ、アカハタに対する怒りの口吻ほどには、警視庁へは激しい言葉を使わない。
『ラ氏のウソ供述のため、何回か警視庁へ呼ばれたことも、不愉快なことだが、取調官の岩佐警部という人の態度が、紳士的で立派だから、それほどにも腹が立たなかったのだ』
と、幾分不安そうに遠慮気味である。
彼に証拠を見せろと大きな口を利かれると当局としても困る。スパイ事件の多くが、任意の自供によって、搜査が進められ、自供そのものが裏付け証拠となってゆく。レポ用紙、指令書
などが、保存されているということはまずあり得ないし、報酬は現金である。