いま、日曜日には歩行者天国になる、東口の二幸前から、伊勢丹までの通りに、都電が走っていたことなど、もう、すっかり、記憶から薄れてしまっているが、変わらないのは、駅前にデンと坐っている二幸と、三丁目角の伊勢丹であろう。
途中、右側にある中村屋。すでに、三峰に買収されたオリンピックなども、建物こそ変わったが、場所はそのままだ。
二幸の開店は、多分、昭和七~八年ごろではあるまいか。海の幸・山の幸の「二幸」という、キャッチ・フレーズを憶えている。その地下に、「オート・マット食堂」というのがあって、連れていってもらったのは、小学生のころだ。
国電の切符売り場のような、ガラス張りの窓があって、下端が開いている。出前用の箱みたいに、段がついた棚には、すでに料理された洋食が、一人前ずつ並んでいる。
二幸の〝自動〟食堂
それを眺めて、食べたい料理の窓の前で、コインを投入してハンドルを引くと、ガタンと音がして、棚が一段下がって、料理を取り出せる仕掛けだった。
それを持って、中央のテーブルで食べるのだが、料理は冷たいし、なによりも、ウェイトレスのサービスがないのが、味気ない。物珍しさが、ひと通り行き渡ると、この〈超最新式食堂〉は閑古鳥が啼く始末。
そうであろうとも、米国直輸入を謳ったのだが、当時は、人手も十分、あり余るほどだったし、第一、デパートの食堂というのが、第一級のレジャー施設だったのだ。それだからこそ、洋食を食べるには、デパートに行く時代だから、味気ないセルフサービスなど、クソ食らえだった。
この〝二幸の目玉〟食堂は、間もなく、無くなってしまったと思った。
そこにゆくと、〈中村屋のカリーライス〉と、〈支那まんじゅう〉とは、まだ、洋食が珍しくて、♪きょうもコロッケ、あすもコロッケ……の歌が流行したのでもわかるように、大人気であった。
私が中学生のころで、肉まんあんまん各一個のセットで、一皿十銭(肉六銭、あん四銭)と憶えている。昼食として、いまのラーメンほどの人気だった。
その向かいのオリンピックもまた、洋食屋の雄であった。手軽に、学生にでも食べられる洋食屋は、オリンピック、森キャン(森永キャンデーストア)、明菓(明治製菓売店)の、三大チェーンストアであった。
戦後、いく度か、オリンピックに入ってみたが、新宿、銀座などの店で、いわゆる〝洋食〟類がマズい。むかし懐かしさのあまり、入って食べてみるのだが、もう、まったく救い難かった。
同じように、森キャン、明菓ともに、〝味の信用〟は、昔日のおもかげはなかった。これら三店のウェイトレスには、たがいに美人が、ケンを競い合っていた。制服姿がサッソウとしていて学生たちの憧れの的だったのに……。池袋の明菓には、日大芸術科に進んでからも、良く行ったが、当時の映画の題名から、〝フランス座〟と呼んでいた美人がいたほどだった。
伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。というのは、その四つ角を越えると、すぐ、遊郭になるからだ。